天国か地獄


 22

「……」
「……」

 会話のない生徒会室内。下腹部の鋭い痛みだけがやけに鮮明だった。
 正直、灘と二人きりでいるのは苦痛だった。気遣ってくれているのは分かるのだが、あんな場面を見られて、その上何も言わない灘がただ不気味で……読めない。
 どうして、何も聞いてこないのだろうか。聞かれたいというわけでもないが、会長のことに対してなんの言及もしない灘はもしかしなくても全てを知った上に黙認しているのではないかと思うと、すぐ傍、佇む灘のことが気になって仕方がなかった。
 ちらりと顔を上げれば、目が合う。

「どうかしましたか」
「あっ、いや……その……」

 もしかしてずっとこちらを見ていたのだろうか。
 まさか目が合うと思ってなくて、必要以上に狼狽えてしまう俺に灘は「そうですか」とだけ応えた。なにか、話した方がいいのだろうか。

「……あの、タオル……ありがとう」

 迷った末、そう口にすれば灘は再びこちらに目を向ける。感情の読めない鋭い眼差し。しかし、先程までのような冷たさは感じない。

「自分は言われたことをしたまでですから」
「そ……そっか」
「……」
「……」

 また、沈黙だ。ただただ気まずくなって俯いたとき、そっぽ向いた灘はぽつりと口にした。

「……そもそも、この状況で俺にお礼を言うのは筋違いではありませんか」

 俺にしていることに対する罪悪感はある、ということなのだろうか。素っ気ない言葉だったが、その一言はやけに俺の耳に残った。
 確かにそうかもしれないが、それでも、助けてもらった事実は変わらないわけで……。
 いや、芳川会長に従っている時点で灘も灘なのかもしれない。
 そこまで考えた時だ。扉が開き、現れた会長と目が合う。瞬間、穏やかさを取り戻しかけていた心臓がぎゅっと締め付けられる。
 冷や汗が滲み、息が詰まる。

「……何を話していた?」
「彼に内出血には冷やすのが覿面だと説明してたんです」

 現れた会長に狼狽えるわけでもなく、灘はそう応えた。どうしてそんな嘘を吐いたのだろうか。咄嗟のことに反応に遅れる俺とは対照的に、灘はいつもと変わらない調子で答える。
 それを疑ったのか信じたのか、会長は「そうか」とだけ口にし、テーブルまでやってくる。その腕には見覚えのある袋が下がっていた。

「灘、悪かった。……もう下がっていいぞ」

 それをテーブルの上に置きながら、会長は灘に目だけを向けた。
 口調は穏やかだったものの、その目には有無を言わせない強固なものがあった。
 それを察したのだろう、灘は「また何があれば呼んで下さい」と浅く頭を下げ、そして、そのまま生徒会室を後にする。
 確かに灘と二人きりは気まずかったが、それでも、会長と二人きりになるならまだ灘にいてほしかった。そう、閉まる扉を見つめていたところで全て遅いのだけれど。

「齋藤君」

 名前を呼ばれ、心臓が大きく跳ねる。手のひらをぎゅっと握り締め、震えを必死に誤魔化しながら俺は「は……はい……」と顔を上げた。そのときだった。
 袋の中から箱を取り出した会長は、そっとそれを俺の目の前に置いた。
 大きめの箱を開けた会長は、そこから『ソレ』を取り出す。同時に、鼻孔いっぱいに広がる甘酸っぱい苺の薫りに俺はつい瞬きをしてしまう。

「……あの、これ……」
「口に合うか分からないが……食べてくれ」

 それは、俗にいうショートケーキと呼ばれるものだった。
 ご丁寧にフォークまで用意してあるようで、それをそっと俺の前に置いた会長に俺は目を、耳を疑わずにはいられなかった。

「……ど、どうして……」
「……無理強いはしない。君が要らないというなら、捨ててこよう」

 狼狽える俺の姿勢を拒否と受け取ったらしい。そう言って、ケーキを掴もうとする会長の腕を掴み、慌てて止める。

「っ、た、食べます……食べますから……っ!」

 会長ならば本気で捨て兼ねない。ケーキに罪はない。
 勢いのあまり、つい会長を引き止めてしまったもののだ。

「美味しいか?」
「……は、はい……」

 自業自得とはいえ、何故か俺は会長から貰ったショートケーキを食していた。
 正直、あんなことされた後で呑気に甘味に耽る気にもなれないので無理矢理口の中へ押し込むような形になっているが、味に申し分はない。
 状況が状況でなければ、喜んで食べていただろう。……そう、状況が状況でなければ。

「……そうか」

 向かい側。ソファーに腰を下ろす会長はそんな俺を眺め、ほっとしたように頬を緩ませた。
 もしかして、もう怒っていないのだろうか。なんて気になってしまいそうになるが、そんなわけがない。何か考えがあるのだろうか。

「あの、どうして……いきなりケーキなんか……」
「好きじゃなかったか?」
「そ、そういうわけじゃないんですけど……」

 俺のこと、怒ってたんじゃないんですか、なんて言えるわけがなかった。どう言葉にすればいいものか困惑していたときだ。

「……すまなかった」

「頭に血が上っていたとは言え、君には酷いことをしたな」そう、一言。
 会長が何を言っているのか分からなかった。
 そんなわけがないと思ったのに、真っ直ぐにこちらを見るその目に、俺は、言葉を失った。

「こういうとき、どうすればいいのか分からない。……君の好きなものも分からなかったから、俺が好きなものを君に渡そうと思ったんだ」
「……会、長……」

 元々、なんとなく感情表現が得意でない人だと思っていた。控えめに笑い、無表情で怒りを表し、悲しむ姿を表に出さない。
 俺自身感情表現が豊かとも言えないが、会長はそんな俺よりも乏しい節があった。それが今、確信に変わる。まるで、子供のような人だと思った。

「……俺は、会長に疑われても仕方ないことをしたと思ってます」

 けれど俺も、俺で全てを割り切れる程大人ではない。
 不意に会長に手を取られる。握り締められる手から伝わる体温に、堪らず視界が揺らぐ。
 自業自得だからと、必死に堪えていたあらゆるものを堰き止めていた何かが決壊し、一気に溢れ出したのだ。

「……痛いとかよりも、怖かったです……会長に……会長に、嫌われたと思ったら……不安で……」

 困らせたくない。情けないところを見せたくない。負担になりたくない。そう思っていたのに、俺は会長の優しさに滅法弱いらしい。
 ソファーから立ち上がった会長に、肩を掴まれ抱き寄せられる。
 怖かった。言葉が真っ直ぐに相手に伝わらないことがただ悲しくて、怖かった。

「ぅ、……ぅう……っ」

 情けない顔をしているかもしれない。それでも、涙を止めることが出来なくて。
 会長にちゃんと伝わっていたんだって、それが分かってほっとしたらダメだった。気が緩んで、つい、会長に縋ってしまいそうになる。
 いけない、と思うのに優しく後頭部を撫でられ、そのまま抱き寄せられると全身が、心が、酷く熱くなる。

「会長……っ」
「……すまない」

 掠れた声。何度も謝罪を口にする会長がどんな顔をしているのか分からなかった。
 けれど、伝わる鼓動が微かに加速しているのが聞こえて、それが自分の脈の速さと重なるのを全身で感じると酷く、落ち着いた。
 ああ、俺は、この人に嫌われたくない。胸の奥深く、色々なもので隠していたその感情に気付いてしまえば、酷く自分が滑稽な生き物のように思えてくる。
 けれど今だけは、どれだけ滑稽でも浅ましくても良い。
 全部引っ括めて抱き締め、『全部許す』と囁いてもらいたかった。

「今日は俺の部屋にいろ」
「え……でも、あの……」
「学校の方には俺から連絡しておく。『具合が悪くなったから早退する』と」

 自分のせいだと思ってるからだろうが、俺にとってはそれはあまり避けたかった。
 このまま会長の言う通りにしていたら本当に籠の中の鳥になってしまいそうだったのだ。
 負担があるのもあるが、それでも甘えるわけにはいかない。

「……あの、俺、大丈夫です……元気ですし」

 そう恐る恐る声を掛ければ、会長の鋭い視線がこちらへと向けられる。

「君は君自身が考えているよりも目立つ。……また、良からぬことを考える輩に付き纏われてみろ。……俺の心臓が保たない」
「ごっ……ごめんなさい」

 でも、と口籠る。でも、だからと言ってこのままずっと授業に出ないでいるのはまずいと。

「……何がそんなに不満だと言うんだ?」
「流石に、これ以上休むのは……その、親にも迷惑掛けるかもしれないんで……」

 少なからず、教師達が不審に思っている可能性だってあるわけだ。
 あまり、余計な心配を掛けたくなかった。そんな俺の言葉に、微かに、会長の瞳の奥が揺らいだ……ような気がした。

「……君は、家族思いなんだな」

 そう、一言。呟く声は油断すると聞き逃してしまいそうな程の声量で、それでも俺の耳に届いた。
 顔を上げれば、会長はゆっくりと俺から視線を外した。

「……分かった。そんなに授業に出たいのなら出るといい」
「良いんですか?」
「不本意だが、確かに君は一般生徒だ。授業免除が適用されていない今、君の意志を尊重しないわけにはいかない」

 どうやら、俺の思いが伝わったようだ。無視されるのではないかと思ったが、そこまで会長も鬼ではないらしい。嬉しくなって、俺はつい会長の手を取った。

「ありがとうございます、会長……!」
「君が気にすることはない。……後は俺の方から手を回しておくから安心するといい」

 そう、会長は柔らかく微笑んだ。
 なんだろうか、心強いはずなのに、なんとなく胸がざわつくのだ。

「その代わり、問題があればすぐに部屋へ戻すからな。……いいな?」
「わ、分かりました」
「ならば次の授業から戻るといい。そうした方が入りやすいだろう」
「はい……!」

 本当はもう少しだけ身体を休ませたかったが、会長の気が変わる前に行動しなければ。
 そう思い立ち、咄嗟に立ち上がれば下半身に鈍痛が走る。
 立ちくらみにも似た痛みに思わずソファーに座り込みそうになり、寸でのところで会長に身体を支えられた。

「本当に大丈夫か?」
「……大丈夫です、これくらい……」
「……」

 安心させるために言ったつもりだったが、渋い顔をする会長に俺は自分の言葉を後悔する。
 けれどまあ、どうってことない。これくらい。
 自分に言い聞かせながら、俺は、会長の手から離れた。


 ◆ ◆ ◆


 会長と別れ、教室まで戻ってきたはいいが。
 まだ特別教室から戻ってきていないようだ、空の教室内に勿論だが志摩の姿は見当たらない。

「……」

 志摩、大丈夫だろうか。
 会長の様子を考えるに、一先ずは落ち着いてるようだが……風紀委員たちに追い掛けられていた志摩を思い出すとなんだか落ち着かない気持ちになる。けれど。

「……」

 なんだろう、肩の荷が降りたみたいに身体が軽い。
 会長と一緒にいたほうが安全だというのは分かるけど、その分肩が張ってしまうのだ。

 ……会長。会長の考えていることがたまに分からなくなる。冷たい目をした芳川会長と、優しく笑いかけてくれる芳川会長。どちらが本当の会長なのだろうか。
 考えたところでどうしようもないと分かっていても、そんなことを考えずにいられなかった。
 そんな最中だった。いきなり教室の扉が開いたかと思えば、そこに立っていた人影を見て思わず息を飲む。

「……ッ」
「……ゆう君……」

 移動教室から戻ってきたらしい壱畝遥香は、自分の席の前に立つ俺を見つけ、目を見開く。それも束の間、その口元に厭な笑みが浮かんだ。背筋がゾッとするような笑顔に、心臓が、潰れそうになる。

「へぇ……何してんの?こんなところで。……もしかしてサボリすぎて移動教室の場所わかんなくなった?」
「……ッ、ぁ……」
「言いたいことがあるならハッキリ言ったらどうだよ」

 近付いてくる靴先に、静かな声。肌で感じる程、その声には怒気が孕んでいて。
 背筋に冷たい汗が滲み、無意識の内に俺は一歩、後ずさっていた。
 何か、何か言わないと。そう思うのに、顔の筋肉が緊張で強張って上手く動かない。
 辛うじて、肺の奥から空気を振り絞るように俺は声を出す。

「っ、別に、俺は、その……何も……ッ!」

 何も、言いたいことなんて、ない。そう言いたいのに、上手く声が出せない。
 しかし、壱畝の耳にはしっかり届いていたようで。先程まで笑っていた口元が歪に歪む。

「ない?全く部屋に戻らなくなっておいて、俺にいうことはなんにもないって?俺のことなんかどうでも良いってか?いつからそんなに偉くなったんだよ、お前は……ッ!!」

 胸倉を掴まれ、無理矢理引き寄せられる。瞬間、無理な体勢に下半身に痛みが走り、堪らず俺は壱畝の手を振り払おうとした。上手く力を込めることが出来ず、呆気なく壱畝に手首を掴まれる。
 脊髄反射とはいえ、壱畝に手を上げるなんて。
 殺される、と全身の血の気が引いた。が、いくら待っても一向に壱畝に殴られることはなかった。
 どうしたのだろうかと恐る恐る目を開いた時、壱畝の目が俺の手首に釘付けになっていることに気付く。そして、つられて自分の手首に目を向けた俺はそこにしっかり滲んだ内出血を見て青ざめた。

「……なんだよ、これ……」
「……ッ」

 会長に縛られたときのだ。
 青黒く変色した自分の手首に、堪らず俺は壱畝を思いっきり突き飛ばした。
 逃げないと。逃げないと。早く。
 そう思うのに、思うように足が動かない。もたもたして壱畝から逃げられるはずがなく、思いっきり背後から蹴りつけられ、俺はそのまま転倒する。

「っ、ぅぐ……ッ!」

 立ち上がろうとすれば思いっきり背中を踏み付けられ、思いっきり床に顔をぶつけてしまう。痛みはない。それよりも、焦りの方が強かった。上に馬乗りになる壱畝そのまま俺の腕を掴み、乱暴に袖を捲りあげてくる。
 両手首、そこには手首を一周するアザがくっきりと残っていた。

「……この鬱血、ただぶつかって出来たってわけじゃないよな。おい、なんだよこれ。縛りでもしない限りこんな形の痣は……」

 言いかけて、壱畝は言葉を飲む。見たこともないようなその血相に、背筋が凍り付く。やばい、と思うが動けない。
 頭を床へと押し付けられたかと思えば、思いっきりブレザーを脱がされる。

「っ、壱畝く、やめて……ッ!壱畝君……ッ!」

 慌てて暴れるが、背後の壱畝を思うように振り払うことも出来なくて。
 ワイシャツをたくし上げられ、剥き出しになった上半身に嫌な寒気が走った。
 嫌だ、怖い、逃げないと。そんな言葉ばかりが頭の中を駆け巡る。俺はパニックになっていたのかもしれない。
 ベルトを掴まれ、スラックスを思いっきりずり下ろされたとき、下着一枚になった下腹部に壱畝の視線が突き刺さる。
 恥ずかしいとか、そんな次元ではなかった。太ももの内側、そこにはくっきりと指の跡が残っていた。

「…………」
「っ、壱畝く……ッ!ぅっ!」 

 弁明の余地なんてない。指の形からして、自分以外が掴んでいるのは明白だ。それに気付いたのかもしれない。舌打ちが聞こえたかと思った次の瞬間、壱畝の腕が動く。
 そして、バサリと。目の前が真っ暗になった。どうやらブレザーを投げ付けられたようだ。
 俺の上から退いたようだ。軽くなった身体に、慌てて起き上がろうとしたとき、血相を変えた壱畝と目が合う。

「ひ、壱畝君……っ?」

 着ろ、ということなのだろうか。いきなり開放してくれた壱畝に不安になって、恐る恐る名前を呼んだ時だった。扉が開いた。
 そして。

「何をしている」

 聞こえてきたのは、聞き慣れた冷淡な声。
 まさか、どうしてここに。
 さぁっと血の気が引く。ゆっくりと振り返れば、そこには先刻別れたばかりのはずである会長がそこにいた。


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