天国か地獄


 16

 もしかしたら眠れないかもしれない。
 そう思っていたが、途中で目を覚ますこともなく俺は爆睡してしまっていたようだ。
 聞こえてくる鳥の鳴き声を聞きながら、俺はゆっくりと身体を起こす。

「おはよう、よく眠れたか?」

 不意に声を掛けられた。
 いつの間に起きていたのか、ソファーに腰を掛けていた会長は俺を見て微笑んだ。

「お、おはようございます……はい、お陰様で」
「そうか、なら良かった」
「会長、随分と早起きなんですね」
「……ああ、そうだな。いつも四時になると目が覚めてしまうんだ」

 四時。それって全然眠れてないのではないだろうかと心配になったが、特に眠たそうなわけでもなく寧ろ爆睡していた俺よりも会長はしゃきっとしているように見える。

「……も、もしかして俺、イビキとか掻いてそれで眠れなかったとかじゃないですか……?」
「違う、言ってるだろう、いつものことだと。癖みたいなものだよ、これは。君が気にすることは何一つない。……寧ろ、俺としては君のイビキも聞いてみたいところだったけどな」
「え……っ」
「……冗談、でもないがな。……まあいい、今日も準備は休んでもらう予定だ。ゆっくりしていても構わないが、少々元気の良すぎる寝癖が付いているようだ。鏡を見てきた方がいいかもしれんな」

 会長の言葉にハッとし、慌てて頭を抑える。
 どこに寝癖が付いているのか感覚では分からなかったが、そんな俺を見て笑う会長に顔が熱くなっていく。

「す、すみません、洗面台お借りします!」

 会長の反応から相当酷いことになっているのには間違いないだろう。慌てて俺は洗面室へと飛び込んだ。会長の言う通り、一角獣みたいな寝癖がついていたのを必死に直し、ついでに身嗜みも整える。
 会長は、今日まで休めと言っていたが……。あまり休み過ぎても後が怖い。けれど、また縁や阿賀松たちと再会したときのことを考えるとあまり出歩くのは得策ではないのも確かただ。

 学問を学ぶための学校なのに、こうしてコソコソ逃げ隠れするのは少し、後ろめたさがある。それが何に対するものなのか俺には分からないが、それでも会長がそういうのだ。せめて、落ち着くまでその好意に甘んじるべきではないか。
 そう思う反面、灘によって無理矢理連れて来られたことを思い出しては迷ってしまうのだ。
 本当に、この人に全てを委ねて大丈夫なのかと。

 なんとか寝癖を直したが、完全にそれをなかったことにするには俺の技量が不足していた。
 顔を洗い、覚醒した意識の中俺は洗面室を後にする。
 部屋に戻ると、会長が飲み物を用意してくれていたところだった。

「……おお、随分とおとなしくなったじゃないか。髪」
「う……お恥ずかしい姿を見せてしまいすみませんでした」
「何を言う、俺はあのままでも構わなかったけどな。……可愛らしいじゃないか」
「か……っ」

 可愛らしい。
 会長はたまにこういうことを平然と言ってくるから困るのだ。女の子ならともかく、俺は仮にも男子校生だ。それはどうなのだろうかと思う反面、ドキドキしてしまう自分がいることも確かで。

「ほら、眠気覚ましに飲むと良い」
「あ……ありがとうございます」

 グラスを受け取り、用意された水で乾いた喉を潤す。……やっぱり、目覚めの水は喉通りがいい。そう、ほっと一息を吐いたときだった。不意に、会長の部屋の扉がノックされる。

「……来客、ですか……?」

 まだ朝の六時だ。あまりにも早すぎるのではないかと思ったが、会長くらいになると急な来客もあるということだろうか。

「……非常識だな」

 そう一言、吐き捨てる会長は出ようとしない。
「出ないんですか」と聞こうか迷ったが、俺同様不穏なものを感じているのかもしれない。執拗なノック音に無視していた会長だったが、あまりにも止まないそれに痺れを切らしたようだ。
 携帯端末を取り出し、会長はそれを操作する。メールだろうか、と思ったが、それも束の間。

「念のため、君はどこかに身を隠しておけ。それと、何がなんでも俺が戻って来るまで部屋から出るんじゃないぞ」

 そう、携帯端末を仕舞った会長は俺に向き直る。え、と思った矢先、そのまま会長は玄関へと向かう。
 危ないのではないかと思ったが、後をついていく勇気、俺にはなかった。言われるがまま、ベッドの上へと移動した俺は会長の姿が見えなくなるまでその後ろ姿を見詰めていた。
 会長が見えなくなり、遠くで、扉が開く音が聞こえた。何やら会長の声が聞こえて、それもすぐ、扉が閉まる音ともに掻き消される。心臓が、やけに煩い。
 大丈夫だろうか、会長。不安で仕方ないが、俺にはどうすることもできない。けれど。
 鍵が閉められる音が聞こえ、つい俺はベッドを降りて玄関に向かった。
 扉には外側からロックが掛かっていた。

 内側からでもそれを解除することは可能だが、開けることは許されないだろう。
 外側から鍵を掛けなければならないような相手が来たということか。
 胸がざわつき、嫌な汗が滲んだ。
 会長のことが気になったが、扉には来客者確認用のレンズも取り付けられていなければカメラもない。
 扉に耳を当てれば、微かに物音や声は聞こえてきた。言い争うような声はしない。会長の声だろうか。静かな、落ち着いた声が聞こえた。

『……で、……を……ここでは……』 
『……んなこと……元はといえば……』

 ……会長の声に混じって聞こえてくる声は……五味だろうか。
 低く、太い声には聞き覚えがあった。言い争ってはいないものの、なんとなくその声音はいつもの朗らかなものとは違う。これ以上は、聞いてはいけないような気がする。
 扉から離れた俺は、そのままベッドに戻る。
 それにしても、あんなにノックをするなんて何かあったのだろうか。先ほどまでの不安感は拭えるどころかより強くなるばかりで、俺は、ソファーに腰を掛け、じっと会長が戻ってくるのを待った。

 どれくらい時間が経っただろうか。扉の鍵が開く音がして、慌てて俺は立ち上がる。

「か、会長……」
「ああ、悪いな。一人にしてしまって」

 そんなこと気にしなくてもいいのに。
 よりよりも、五味が一緒ではないということは別れたのだろうか。
 どこまで立ち入っていいのか分からず、掛ける言葉に迷っているとそんな俺に気付いたようだ。芳川会長は、立ち上がったまま固まる俺の肩にそっと触れる。

「大丈夫だ。少し急な用事が入っただけで君が気にするようなことは何一つない」
「そう、なんですか……?」
「ああ」

 遠回しに、お前には関係ないと突き放されているように感じずにはいられなかった。けれど、そう言う風に言い切られてしまえば縋る藁もない。

「それよりも腹が減っただろう。もうそろそろ朝食が届くはずだが……」

 不意に、会長がそんなことを口にした時だった。室内に無機質な着信音が響く。携帯端末を取り出した会長は「来たようだな」と小さく口にし、そのまま再び玄関口へと向かった。

「……遅かったな。……まあいい、お前はもう戻れ」

 誰かと話している声が聞こえて、それもすぐ聞こえなくなる。
 先ほどとは違い、扉の外へ出ていくことはなく、大きなトレーを手にした会長はすぐに戻ってきた。

「待たせたな。……それでは、朝食にしようか」

 誰が来ていたのだろうか。気になったが会長は何もいないので俺も何も利かず、テーブルの上に置かれる料理に目を向けた。
 食堂からのデリバリーだろうか。先ほどまでの疑問も食事の前では吹き飛んでしまう。俺は、会長とともに食事を取ることにした。

「この後、灘を呼んである。昨日のこともあるし、あいつと一緒に俺の部屋にいろ」
「え、いいんですか?」
「構わない。寧ろ、悪いな。本当は早めに授業に復帰してもらいたいのだがそうもいかんようだ」

 そう苦虫を噛み潰したように口にする会長。会長が心配する気持ちも分かるし、有り難いと思う。事が荒立っているこの状況で放られるのはなかなかキツイし。
 食事を終え、しばらくして灘がやってきた。

「事情は説明した通りだ。そう遅くならない予定だが、俺がいない間齋藤君のことを頼む」
「……畏まりました」

 会長の言葉にただ灘は頷いた。
 それにしても、灘はどう思っているのだろうか。こうして俺の世話を押し付けられて。
 恐らく何も考えていないのだろうが、少し気になった。「それじゃあ」とだけ口にし、会長は部屋を後にした。扉の外から鍵を掛ける音が聞こえた。

 それからは、もう、重苦しい時間が流れることになった。沈黙、無言、静寂。座る俺の隣、ただじっと立つ灘の視線に堪えられず、俺は「あの」と恐る恐る声を掛ける。

「す、座らないの……?」
「会長に許可を頂いていないので」
「えっ?!い、いや、いいと思うよ……流石に……」

 そういえば俺も許可を貰っていないなと思ったら灘だけを立たさせるわけにもいかず、俺は灘の隣に立った。……何をしてるんだろうか、俺。早速後悔してきた。

「そう言えば、あの、灘君は朝ご飯は……」
「食べてきました」
「そ、そっか……」
「……」
「……」

 き、気まずい。
 ただでさえ灘は喋らない人というのもあるが、いかんせん共通の話題がないのだ。
 何か、話題、話題。と必死に探っていた時。
 なんとなく、灘の横顔に目を向けた時、灘が壁掛けの時計を気にしていることに気付いた。時間。……何か予定でもあるのだろうか?

「灘君、もしかして……今日予定でもあったの?」
「ありませんが……何故そう思うのですか」
「ええと、なんかさっきから時計を気にしてるみたいだったから……」
「……そうですか。気を悪くさせたのなら申し訳ございませんでした」
「ち、違うんだ。そういうつもりじゃなくて……会長に言われたから、無理してきたんじゃって思って……」

 ああ、余計なこと言ってるなと思ったが、灘と話していると変に誤魔化したところで意味がないような気がしてしまうのだ。灘の目がこちらを向いた。何を考えているか分からない双眼が、少しだけ鋭くなる。

「無理ではありません。少なくとも、俺の意志でここにいるのですから」
「……そっか、ごめんね。変なこと言っちゃって」
「構いません」
「……」
「……」

 そして、また沈黙。
 おまけに先ほどに比べて更に空気が悪くなっているような気がしてならない。せっかく、話題でも変えて空気も軽くならないかと思ったのに。

「十勝君が、いなくなったそうです」

 なんて、思った矢先だった。不意に、灘が口を開く。「え」と、灘に目を向ければ、やつと視線がぶつかった。

「十勝君の朝帰りはよくあることなのですが、昨夜十勝君と会う予定だった子から五味先輩に夜中連絡があったと伺いました」
「十勝君が、いない……?」

 灘は「はい」と小さく頷く。俺は、正直、頭を鈍器で殴られるようだった。嫌な予感、それを五味や灘も感じているのかもしれない。

「夜中、五味先輩が街を探して下さっていたので自分は校舎の方を見て回っていたのですが今朝になっても見当たらないみたいです」

 さっき、訪ねてきたのはやはり五味だったのかもしれない。十勝と灘は生徒会の中でも結構仲がいい。だったら、心配じゃないのだろうか。いや、心配のはずだ。だからさっきからずっと時計を気にしていたのだろう。

「あの、それって会長は知ってるの?」
「五味先輩から伝えたと伺っております」
「……」

 まさか、俺を連れて行かれて灘からも逃げられた阿賀松たちが。
 考え過ぎだと言われても、そう思わずには居られない程の状況であるのも事実だ。

「……灘君、俺達も探しに行こう」
「それは出来ません」
「で、でも……気になるんだよね」
「五味先輩に任せていれば問題ありません。それに、まだ他の人間といる可能性もあります」
「……灘君……」
「……」

 会長から頼まれているから、だろう。前々から義務感が強いとは思っていたが、ここまでくると一種の強迫観念のようにも感じてしまう。灘は絶対に頷かないだろうが、俺にそれを話してくれたということはやはり、迷っているのだろう。

「灘君、会長は知ってるんだよね。十勝君がいなくなったこと。……それなら、会長に連絡して、探しに行きますって伝えたら……どうだろう」
「……会長にはその必要はないと言われました。今大事なのは、君の身を守ることだと。なので、それは許されません」
「……そんなの……」

 正直、阿賀松の中の俺はただの餌だ。
 死にものぐるいでどうにかしてくるようなことはまずない。それなら、優先すべきものは十勝なのではないか。

「……俺、会長のところに行ってくるよ」

 恐らく生徒会室にいるだろう。そう、踵を返せば灘に腕を掴まれた。

「……灘君」
「それはダメです」
「灘君」
「俺のミスです。貴方を余計不安にさせるようなことを言わなければよかったですね」

「申し訳ございません」と、謝罪を口にする灘。けれど、一向に俺の腕から手を離そうとはしない。その言い方に、酷く胸が痛くなった。別に、悪いことではない、少なくとも俺は灘に正直に話してもらえて嬉しかったくらいだ。それなのに、その言い方は、ずるい。

「……灘君は、それでいいの?」
「はい」
「そっか、分かった……」

 芳川会長の手前、勝手な真似を出来ないのも分かった。分かるだけに、俺は灘を振り払うことは出来なかった。けれど、悔しさもあった。もう少し俺が強く言えたら、灘に「俺のことは心配しないでいいから」と十勝を探しに向かわせることもできたはずだ。いや、それ以前に会長にこうして心配を掛けることもなかった。

「何故貴方がそのような顔をするのですか」
「……灘君……」
「貴方が気負うことなど一つもないはずだ」
「……」

 伸びてきた手に頬を触れられる。驚いたが、灘に他意がないのはすぐに分かった。俺は、そんなに変な顔をしてるのだろうか。何を言ってもちゃんと返せる自信がなくて、俺は首を横に振った。

「ごめん、そんなつもりじゃないんだ、ただ」
「十勝君が心配ですか?」
「俺のせいかもしれない……灘君が捕まりそうになったのも、全部」
「……」

 ああ、灘を困らせている。
 沈黙から灘が言わんとしていることが分かるような気がして、余計、顔を上げられなくなる。
 そんな俺の顔を無理矢理上げ、灘は真っ直ぐにこちらを覗き込んでくる。恥ずかしくなって「灘君」と、その手をそっと離そうとしたとき。

「……貴方は、笑っている方が似合ってますよ」

 文字通り、言葉を失った。元々灘の突拍子のない言動には驚かされてきたが、今回は特別だ。

「な、に、言って……」
「すみません、一応慰めたつもりだったのですが分かりにくかったですか?」
「い、いや、そうじゃないんだけど……」

 そうじゃないんだけど。
 それは慰める言葉にしても少し違うんじゃないか、そう、相手が。
 と言っても灘は自分の言葉の何が悪かったのか分からなかったようで、硬直する俺に小首を傾げるばかりで。少しだけ、気が紛れた。灘がいいなら、俺はいい。けれど、やはり十勝のことが気にならないと言えば嘘になる。
 今は、とにかく会長が戻ってくるのを待つしかない、か。
 灘を説得させることも無理だろうし、十勝がただ別の女の子に誘われてそっちに行っただけと信じて、待とう。
 俺は自分に言い聞かせるように、口の中で呟いた。


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