10
遠くから聞こえてきた鳥の囀りに目を覚ます。
ああ、もう朝か。なんて鉛のような瞼を持ち上げれば、まず目に入ったのはこちらを眺めていた芳川会長の顔だった。既に制服に着替えている会長は、目が合えばにっこりと笑う。
「おはよう、齋藤君」
「お……おはようございます……」
もしかして俺、寝過ごしたんじゃないだろうか。というか、変な顔して眠ってなかっただろうな。
慌てて体を起こせば、よく眠ったお陰か全身が昨日に比べて軽く感じる。
「腹が減っただろう。いま用意してもらってるから先に顔を洗ってくるといい」
寝癖が立っていないか確認しつつ、俺は会長に「はい」とだけ頷き返した。
◆ ◆ ◆
身なりを整え、生徒会室に戻ってこればコーヒーのいい香りに鼻孔を擽られる。
それに誘われるように顔を上げれば、丁度芳川会長がコーヒーカップに大量の砂糖を流し込んでいるところだった。
「眠気覚ましにどうだ?君も飲むか」
「……いただきます」
「分かった。少し待っててくれ」
そう言うなり、テーブルを離れた会長は生徒会室奥の給水所に向かう。
暫くもしない内に会長はコーヒーカップを片手に戻ってきた。
「君の口に合うといいが」と俺の目の前にそれを置いてくれるのを「ありがとうございます」と受け取れば、会長は再び向かい側のソファーに腰を下ろした。そして一息。恐らく砂糖の味しかしないであろうそのコーヒーカップに口を付けた会長はゆっくりと口を開く。
「齋藤君、今日のことなんだが……今日一日までここにいた方がいい」
「……え?一日ですか?」
「どうやら鼠がこそこそ嗅ぎ回ってるみたいでな、今日は生徒会活動もないし自由に寛いでくれて構わない。休むということは俺から伝えておくから心配しないでくれ」
鼠、というのが何を指しているのかはなんとなく想像ついた。
コーヒーカップに口を付けると、その熱にちょっと火傷しながらも俺は一口流し込み、乾いた喉を潤す。口いっぱいに広がる苦味が俺の心情を表しているようだった。
「……分かりました……」
と、言うしかできない。いつになったら普通に授業に出れるのだろうか。学業のことが気になったが、会長の言う通りにした方が無難であることには違いない。
「すまないな、君も授業が心配だろうが、俺に出来ることなら勉強を手伝わせてもらう。今日一日の辛抱だ」
「……はい、分かりました」
今日一日、そう口の中で繰り返してみる。短いような長いような不思議な響きだ。
そうだ、一日の辛抱なのだ。本当に一日で終わるのか分からないが、そう信じることしか出来ないのだから仕方ない。
何口かコーヒーカップに口を付けると、眠気に微睡んでいた頭も大分覚醒してきた。
それから暫くし、頃合いを見計らったかのように二回、扉が叩かれる。「入れ」と会長が口にすれば、扉が静かに開いた。
「失礼します」
……灘だ。
会長同様既に制服に着替えている灘は片手に大きな袋をぶら下げ、頭を下げる。
「言われた通り齋藤君の口に合いそうなものを選んできました」
そう、テーブルまでやってきた灘。昨日のこともあってか、なんとなく緊張したがそんなことお構いなしに灘はぶら下げていた袋から中身を取り出し、それをテーブルの上に並べていく。ガサガサと音を立て次々と乗せられていくのは売店で売っているような惣菜パンだった。
「って……全てパンじゃないか。もう少し栄養面に配慮したものがあっただろう」
「栄養たっぷりと書いてあるので栄養面は大丈夫かと」
そう言って、手元にあったパンを会長に見せる灘。確かにそこには『これ一つで一日分の栄養が補える!』と胡散臭い文字が踊っている。
「お前、広告文に踊らされるなと言ってるだろう」と、呆れたような芳川会長だがそんな言葉に不思議そうな様子の灘に諦めたようだ。
「齋藤君、パンでも構わないか?」
「は、はい……俺は、なんでも……」
「これがオススメですよ」
「……あ、ありがとう……」
灘は、どうも思っていないのだろう。
テーブルの上に転がる惣菜パンの内の一つ、焼きそばコロッケハンバーグチーズパンを指差した灘になんとなくドキッとしながらも、それを貰うことにする。
またいきなりスタンガンを押し当てられたらと思うと怖くて堪らないのに、いつもと変わらない調子で接されると正直、どうすればいいのか分からなくなった。
それは俺が単に人付き合いが苦手なことだけが理由ではないだろう。
「……」
「しかし手間掛けたな、灘。戻っていいぞ」
「分かりました。……失礼します」
なんとなく、灘の視線が気になったが会長に言われるとすぐに目を逸らされる。そして、会長に向かって一礼をした灘はそのまま生徒会室を後にした。
生徒会室には惣菜パンの山だけが残る。
流石に一人では食べ切れない惣菜パンの山に会長にも一緒に食べてもらうことになってようやく、なんとか山が半分になった。
残ったパンたちは「五味たちにも加勢してもらおう」という会長によって袋に戻されていた。そして、その満腹もどうにかこうにか落ち着き始めた頃。
「やることがないと退屈だろうと思って俺なりに色々用意してみた」
そう言うなり、どこに隠していたのか紙袋から参考書や教科書ノート筆記用具をドンドン取り出す芳川会長。
その参考書の山の上に、知恵の輪、パズルもそっと置かれるではないか。
「こ、これは……」
「君がどういうものが好きか分からなかったからな。この中から好きなものを使ってくれて構わない。眠くなったら仮眠室で眠ってもいい」
暇潰しのチョイスが会長だ。
どこまでも真面目な会長に少しだけ微笑ましくも思えたが、内容はどうであれここまで用意してくれた会長に申し訳なくなってくるわけで。
「すみません、気を遣わせてしまって」
「構わない。本当は俺が君の相手をできたらいいのだろうが、今朝は全校集会があってな、その準備に出なければならないんだ。……悪いな」
「いえ、そんな」
そうか、今日は全校集会の日か。
壁掛け時計に目を向ければ、既に登校時間になっているではないか。
「終わればなるべく早く戻ってくる。それまでの代わりと言ったらあれだが、君の面倒を見るように知人に頼んでいる。何かあればそいつに言ってくれ」
「知人、ですか?」
「ああ」と一言。会長が頷き返した時だった。
こんこん、と先程の灘に比べて強めのノック音が二回、生徒会に響いた。
「……どうやら話をすれば、というやつか。来たみたいだな」
「入れ」と扉に向かって声を掛ければ、ほぼ同時に勢い良く扉が開いた。
そして、
「失礼しまーす!」
開いた扉から現れたのは見たことのない生徒だった。
白い肌にと長い睫毛、どこぞの女装野郎とはまた違う中性的な整った顔立ちをしたその人物は会長と同じくらい、いや下手したら五味ぐらいあるのではないだろうか。なかなか結構な男らしい骨格をしていた。
男にしては手入れの行き届いた艶やかな黒い髪。それを自然に流したその美丈夫を見て、芳川会長は笑う。
「連理(れんり)、早かったな」
連理と呼ばれた男子生徒は会長の言葉にニッと笑った。
「当たり前じゃないの!なんたってトモ君のお願いなんだからっ!」
そう言って、頬に手を当てた連理は「うふふ」と笑った。そう、うふふと。
……うふふ?
「……ッ!!……ッ!?」
「連理、その呼び方やめろ。……あと、齋藤君が驚いている」
聞き間違えだろうか。俺がまだ寝惚けているのかもしれない。
そう自分の手の甲の皮を摘む。痛い。夢ではないなら聞き間違えかもしれない。
俺は連理に向き直り、頭を下げた。
「…あ、えと……初め、まして……」
「あら、あらあら〜!貴方が噂の齋藤君ね〜!初めまして、アタシは連理貴音(たかね)よ!」
「よろしく仲良くしましょう、ユウちゃん!」と連理貴音は俺の手を握り締め、人良さそうに笑った。
男よりも男らしい骨っぽい手に低い声。なのに、女性よりも女性らしい動作で距離を詰めてくる連理に俺はカルチャーショックを覚えていた。
宇宙の片鱗を見たようなそんな俺に、「連理、触りすぎだ」と見兼ねた芳川会長が連理の手を離す。
「齋藤君、こういうやつだが面倒見だけはいいんだ。なんでも言ってやっていいぞ」
「トモ君が褒めてくれるなんて珍しいじゃない!そうなの、アタシ、ユウちゃんみたいないじらしい男の子が好きなのよ〜!なんでも言ってね!」
今まで俺の周りにいなかったタイプだったからこそ余計びっくりしたが、どうやらいい人のようだ。芳川会長とは対照的に表情が豊かなのだろう、にこにこと笑う連理に次第に自分の緊張も解けていくようだった。慌てて俺は頭を下げる。
「よろしくお願いします、連理先輩……!」
「あぁ〜んもう連理先輩なんてそんな堅苦しい呼び方ナシナシ!アタシのことは気軽に貴音って呼んで!」
「た、貴音……先輩……」
「連理、あまり怖がらせるなよ」
「分かってるわよ!トモ君、そろそろ行かないと遅れちゃうんじゃないの?アタシの武蔵ちゃん泣かせたら許さないわよ〜!」
「五味は貴様のものでもないがな」
「まあいい、じゃあ後は頼んだぞ」と、壁掛け時計を一瞥した会長は連理に目配せする。
どんな人が来るか不安だったが、栫井や灘よりは接しやすい人でよかった。となると、後は会長に余計な心配を掛けないようにするだけだ。
「あの、が、頑張って下さい……!」
とは言っても気の利いた言葉なんて何も思い浮かばない俺にとって、そう声掛けるのが精一杯で。ふ、と微かに笑った会長は俺の頭を撫でてくれた。
「ああ、君も少しの間の辛抱だからな」
「ちょっと何それー!アタシがユウちゃん我慢させてるみたいじゃない〜!」
そんな連理に応える代わりに軽く手を振った芳川会長はそのまま生徒会室を後にした。
「これでお邪魔虫はいなくなったわね」
会長がいなくなったあとの生徒会室にて。
向かい側のソファーにどかりと腰を下ろした連理はにやっと笑う。
「あ、あの、貴音先輩って……会長のお友達なんですか?」
「お友達というよりも、そうね、一応アタシは親衛隊の総隊長やってるのよ」
「そうなん……えっ?!」
「ふふ、驚いた顔してるわね〜!可愛いっ!」
きゃっきゃっと楽しげに笑う連理。総隊長。親衛隊というと以前一悶着あったお陰でろくなイメージがないが……つまり連理はその中でも一番偉い人ということになるわけで……。
「え、ええと、そ、総隊長さん……?」
「ま、正確に言えば臨時なんだけど〜ほらトモ君のとこの親衛隊、色々問題があったでしょ?親衛隊がトモ君のいうことを聞かなくなったから解散させるかどうかってところまで話がいったんだけど、親衛隊の子たちがそれは嫌だ〜って泣いちゃうからその代わりにアタシが親衛隊全て管轄に置いて管理することになったのよね〜」
「そ、そんなことが……」
会長が何やら親衛隊と揉めているのは聞いていたが、そこまでことが及んでいたとは思ってもいなかった。
とはいえ、親衛隊のことを何も知らない俺からしてみれば連理の言葉が全部違う世界のように思えて仕方ない。
「ま、アタシはトモ君のことも知ってるしトモ君にとっても扱いやすかったんじゃないのかしら。本当は武蔵ちゃんの親衛隊長だったんだけど、武蔵ちゃんとトモ君に頼まれたからね〜。本当面倒くさいったらありゃしないわ。なんで他人のケツまでアタシが拭わなきゃなんないの?って感じ」
「あ、アタシが愚痴ってたってのはトモ君には内緒ね。あの子、怠慢は許さんとか言ってすーぐ掴みかかってくるから」そういたずらっ子のように笑う連理。笑うと綺麗と言う言葉よりもどこか爽やかな印象を受けた。
「……そうだったんですか」
意外だ。
会長と連理、二人共全然タイプ違うというのに会長が嫌いな親衛隊という立場でありながらもこうして頼みごとをシたりされたりする仲ということはある程度信頼し合ってるのだろう。
会長と一緒に過ごすことが多くなって、知ったつもりで板が俺は会長のことを何一つ知れていないということか。
当たり前だが、それでもなんだろうか。会長との間に壁のようなものを感じずにいれなかった。
そんなことを考えてる自分が恥ずかしくなって、咄嗟に俯けばテーブルの上、置いていた手を連理に握り締められる。
「やぁ〜もぉ〜!そんな顔しないで!親衛隊って言ったって別に貴方からトモ君を横取りするつもりはないわ!確かに良い男だけど、人ヅラがいいだけのあんな冷たい男こっちから願い下げよ!」
なにか綺麗に誤解されてるが、気を使ってくれているのだろう。
大きな手のひらが暖かくて、大きな口を開けて豪快に笑ってみせる連理に釣られて俺まで笑ってしまう。
「……ありがとうございます、貴音先輩」
「いいのよいいのよ!それよりも、今度は貴方の番よ、ユウちゃん」
「……え?俺ですか?」
なんだろうか。連理の目がいやに輝きだし、嫌な予感を覚えた俺が逃げようとしたとき、ガシッと手首を掴まれた。
強い力。言動行動のせいで忘れそうになっていたが連理はどう見ても男だ。しかもその腕力は男子高生平均を遥かに上回っているとみた。
「アタシね、貴方のことにすごい興味あるのよ。貴方のことは噂で聞いてるわよ!あのトモ君をここまで入れ込ませるなんてなかなかやるじゃない!」
「え、ええと、俺は、その……」
「せっかくの機会よ、洗いざらい吐いてもらうわよ〜!」
「ひ、ひィ……ッ!」
逃走も話題変更も失敗した俺は結局連理にトモ君もとい会長との馴れ初めから所謂恋話というやつだろう。根掘り葉掘り聞かれて芳川会長が戻ってきた頃には冷や汗とか諸々の脱水症状のお陰で口の中がカラカラに乾ききっていた。
恋話、恐るべし。
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