天国か地獄


 09

「喉が乾いただろう。飲め」
「あ……ありがとう、ございます……」

 戻ってきた会長はそう言ってジュースの注がれたグラスを俺の前に置いた。
 緊張していたお陰で口の中は乾ききっていて、俺はそれを躊躇いなく口付ける。
 窓の外は既に暗い。
 阿賀松たちどうしてるだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、俺は喉を潤わせる。

 静まり返った生徒会室内。
 今ならば、と俺は後ろポケットに隠していたその存在を思い出す。今ならば、あの写真を会長に返せるのではないかと。

「あの、会長」
「どうした?」
「あの、俺……その……」

 グラスをテーブルに置いた俺は、後ろポケットから写真を取り出し、それを会長に渡した。

「ごめんなさい、早く返さないと……と思って……」

 その、と口籠る。何事かと目を丸くした会長だったが俺の持っているものに気づいたのか、それを受け取った会長の表情は硬かった。

「……」
「これだけしか、持ってこれなかったんですが……きっと会長の大切なものだから……」
「……見たのか……」
「っ、あ、あの、俺……ごめんなさい、その……」

 あまり表情が豊かではないかと人だと分かっていたが、みるみる内に笑みが消える会長に心臓はバクバクと高鳴り、嫌な汗が滲む。様子がおかしい。喜んでいるというよりも不愉快そうに眉間を寄せた会長は、どうみても怒っているようだった。

「……あいつが、これを見たのか?」

 あいつというのが阿賀松のことを指しているというのはすぐに分かった。
 気圧され、口籠っていると肩を掴まれる。
「答えろ」と肩を強く揺すられ、体が竦んだ。俺は慌てて首を横に振る。

「ち、違います、それは俺が勝手に見て……大事なものだろうから、返さないとって抜き取っただけで……!」
「……」

 否定すれば、安堵したようだ。肩を掴んでいたその手が離れ、会長は何も言わずにその写真を制服のポケットに仕舞った。
 一体どうしたんだ。
 突然様子が変わった会長に未だ心拍音は煩いままで、それを落ち着かせようと必死になっていたとき。生徒会室の扉が三回ノックされた。そして、

「会長、よろしいですか」

 現れたのは灘だった。俺はスタンガンのことを思い出し、咄嗟に身構えたが灘は俺のことなんて気付いていないみたいに会長だけに目を向け、そして呼び出す。

「……なんだ」

 ソファーから立ち上がった芳川会長は灘の元へ向かう。そこでようやく、俺は肩の力が抜けるのを感じた。

 生徒会室扉前。何やら灘と会長は話し込んでいるようだったが生憎こちらまでその話の内容は伝わってこなかった。
 暫くもしない内に、灘が生徒会室を出ていった。何かの報告だったのだろう、戻ってきた会長に先程までの異様な威圧感は感じなかった。
 それどころか。

「……すまない、わざわざあの男から取り返してくれたのだろう。ありがとう、齋藤君」
「……かい、ちょう……」

 そう言って、頭を撫でられてびっくりする。
 灘が何か言ってくれたのかどうかは分からない。しかし、前みたいに優しく頭部を撫でられれ先程とは別の意味で緊張する。
 今の短時間で会長の機嫌が良くなったわけではないだろう。だからこそ会長が何を考えているのか分からなくて、その笑顔がなんとなく怖かった。分かってくれたのだろうと思いたい。

「俺の方こそ……すみません。大切なもの、だったんですよね。それなのに、お渡しするのが遅くなってしまって」
「……気にしなくてもいい。こうして手元に戻ってきただけでも充分だ。もし、君がこうして俺に返してくれなければと思うと生きた心地がしない」

 そういう会長が嘘を吐いているようには思えない。それ程大切なものだったのだろう。

「そこに写ってるのって会長のご家族なんですか?」
「あぁ、そうだな。この写真以外まともに残っているものがないんだ」
「そう、なんですか……」

『また撮り直したらいいのではないのか』なんて言えるような空気ではなかった。会長の口ぶりからして何か理由があるのだろう。そこまで踏み込む勇気、俺にはない。
 どことなく重くなる空気。それに耐えきれず、俺は「あの」と話題を変えることにする。

「……でも、会長って兄弟がいらっしゃったんですね」

「は?」と、会長が目を見開く。
 その反応になんとなく違和感を覚えたが、俺は写真を指した。

「え、でも……そこに写ってる男の子って、会長とご兄弟ですよね」
「……違う」
「……ぇ……っ」
「……こいつは、俺の兄弟ではない。たまたま遊びに来ていた、従兄弟だ」

 ああ、しまった。と思った。会長から滲み出る拒絶のオーラ、それは肌に痛みを感じる程まで色濃くなっているのは明白で。後悔したところで撤回は利かない。

「……そう、なんですか……」

「すみません。変なこと聞いちゃって……」元から会長はあまり自分のことを話すような人ではなかった。俺の言葉に答えてくれる会長に甘えすぎていたかもしれない。
 青褪める俺に、何事もなかったかのように会長は「それよりも、齋藤君」とこちらに向き直る。

「今日は一日そこの仮眠室を使っていけ。君を手荒な真似して連れ去ったお陰で阿賀松の奴らが君を探しているようでな」
「……先輩……が?」
「まあ、本人は高見で見物してるだけだろうが面倒だ。あいつらに捕まったら君がどんな目に遭うか心配だ。朝までここにいろ」
「……」

 ああ、そうか、俺。
 あんな形だったが、阿賀松たちには何一つ知らせてもいなかった。もしかして逃げたと思われてるのだろうか。そう考えると全身の血の気が引く。

「齋藤君、聞いているのか?」
「あ……は、はい!」

 覗き込んでくる会長に少しびっくりする。……けど、そうか、会長が味方になってくれるなら心強いかもしれない。
 不信感を完全に払拭できたわけではないが、それでも一人よりも遥かにましだ。
 けれど。

「……でも、いいんですか……?会長に迷惑が掛かりませんか?」
「そんな他人行儀はやめてくれ。それに、元はと言えば俺のせいでもある。一応、ここは大事な書類もあるからな、他に比べてセキュリティもちゃんとしてるから安心しろ」
「……」

 阿賀松がマスターキーを自由に使えることを考えれば、セキュリティなんて意味も為さない。
 この学園で本当に阿賀松の存在を気にせずにゆっくりと休める場所があるかすら怪しいが、もし、あるとすれば……。

「だから、君は何も考えずに休めばいい」
「会長は……」
「俺か?俺はそうだな、周りの様子が気になるから一度外を見てくるつもりだが」
「……あの、一緒にいてもらっていいですか」

 男相手に何を頼んでいるのかとつくづく思うが、それでも一人でいるよりか会長が傍にいてくれた方が安心であることは違いない。
 案の定、会長は呆れたような顔をして、居た堪れなくてその顔を直視することは儘為らなかった。

「……」
「ごめんなさい、無理言って。……あの、ダメだったら別にそれでも俺は……」

 会長だって男にこんなこと頼まれても嬉しくないはずだ。今更ながら恥ずかしくなって俯いたとき、ぽんと頭を撫でられる。
 驚いて顔を上げたとき、そっと上半身を抱き寄せられた。
 会長の熱が、吐息が、近い。そう思うと自然と体が強張ったがそれも束の間、優しいその手に後頭部を擦られれば緊張の糸が緩む。

「ダメな訳がないだろう。……齋藤君がそれを望むなら、俺は君が安心して眠れるようずっと傍にいる」
「……いいんですか?」
「勿論だ」
「ありがとうございます、会長」
「気にするな。それに甘えられるのは嫌いではない。もう少し君は強欲になってもいいんだぞ」
「そ、そんなこと……」
「そうだな、それが齋藤君だ」

 頭上で、ふっと会長が笑う気配がした。そして会長は俺の髪を撫で付ければ、そのまま手を離す。

「そうだ、着替えだが丁度君のサイズに合うものが仮眠室のクローゼットに仕舞ってあるはずだ。それに着替えればいい。着替えたら脱いだものは俺に渡せ」

「クリーニングに出させないといけないからな」と続ける会長に俺は「分かりました」と頷き返す。
 会長はたまに怖い。何を考えてるのか分からないが、それでも俺を守ってくれているのだという安心感があるからか、頼もしくあるのも事実だ。
 我ながら現金なやつだ。
 しかし一人では何も出来ない今、こうして誰かに寄生することが一番の最善策に思えるのだ。

 俺は会長に扉を開けてもらい、仮眠室に移動した。
 ――仮眠室内。
 言われた通りにクローゼットの下部の引き出しを開ければ、確かにそこには畳まれたスウェットが置いてあった。
 確か、前にもこんなことがあったな。
 会長がわざわざ寝間着を新調してくれたことを思い出しながらそれを広げる。

「し、下着まで……」

 これは新品のようだったが、何故こんなものがここにちゃんとあるのかはあまり深く考えない方がいいかもしれない。取り敢えず、俺は着ていたシャツを脱ぎそれに着替えることにしたのだけれど。
 阿賀松の服を着ていたせいだろう、ちゃんとサイズが合ってるその服を着ると驚く程動きやすい。
 着替えたのはいいが、これを会長に渡すのは忍びない。脱いだ阿賀松の服を眺めていると、不意に扉がノックされる。そして、芳川会長が顔を出した。

「着替えたか?」
「はっ、はい……」
「なら貰おう」

 そう手を差し出されれば、それを断ることも出来なかった。「すみません、お願いします」とそれを渡せば、ラベルに目を向けた会長は不思議そうに目を細める。

「君のものにしては随分とサイズが合っていないようだが」
「……えと、その……阿賀松先輩に、借りたんです……服……」
「そうか。それなら君に合わないのも無理がないな」

 そう言って、簡単に畳み直す会長。それ以上追及されずにほっとしたが、会長がどう思ったなんてあまり考えたくはなかった。

「それじゃあ、俺はクリーニングに出してくる。すぐに戻ってくるから君は先にベッドに入っていてくれても構わないぞ」
「は、はい……!」

 言うなり、そのまま仮眠室を出ていった会長。会長はああ言ったが、ここで寝るのは正直落ち着かない。会長がいなくなった仮眠室内は酷く静かで、手持ち無沙汰になってしまった俺は一先ずベッドに移動することにした。
 どうなるのだろうか。これから。
 程よく硬いベッドマットに腰を下ろす。流されるまま流されて、行く先も見えない。取り敢えず、授業、授業に出なければならないが……。
 どうしても壱畝と阿賀松の顔が脳裏を過ぎってしまい、気が滅入る。

「……」

 逃げてばかりはダメだと分かっている。分かっているが、目の前にしたら足が竦んでしまうのだ。
 自己嫌悪から逃げるようにそのまま横になり、シーツを被る。慣れない布団は柔らかく、洗いたてのような清潔感に包まれると自然と鬱々とした気持ちが軽くなった。……そんな気がした。

 少しだけ、ほんの少しだけ目を瞑るつもりだった。どうやら俺はいつの間にかに眠っていたみたいだ。遠くで扉が開く音に気付き、そこで眠っていたことに気づく。

「……会長……?」

 怠い体を起こし、入ってきた人影に呼び掛ければその人は申し訳なさそうに眉尻を下げて笑う。

「……すまない、起こしてしまったようだな」
「いえ、俺の方こそ……すみません、先に寝ちゃって」
「気にするな。疲れていたのだろう。そのまま寝ていてくれて構わないぞ」

 そう言って、俺にシーツを掛け直してくれた芳川会長はそのままベッド横の椅子に腰を掛ける。そしてこちらを眺めている会長に、俺は一抹の疑問を抱いた。

「……あの、会長は……」
「なんだ?」
「会長は、眠らないんですか?」
「ああ、俺は君を見守るという役目があるからな」

 そう、会長は笑う。
 穏やかなその笑顔に一瞬『なるほど』と流され掛けたが、よく考えなくてもそれはおかしい。だってそうだろう。確かに一緒にいてほしいとは言ったが俺はそのつもりで頼んだのではないのだから。

「……それじゃあ、会長も疲れますよ」
「気にしなくていい。それに、眠れないのは珍しいことではない」
「それなら俺が椅子で寝ますから、会長はベッド使ってください」
「……君は……。言ってるだろう、俺のことは気にしなくていいと。君にはベッドで眠ってもらわなければ困る」

 会長も会長で譲るつもりはないようで、「でも」と口籠る俺に会長は「ああ」と何か思い付いたように口を開く。

「それなら、一緒にベッドで眠るか」
「……え……?」

 会長が何を言っているのか、気付くのには大分時間が掛かった。そしてその意味を理解した瞬間、顔面に血液が集まった。
 そんな俺を見てぎょっとした芳川会長は慌てて「真に受けるな、冗談だ」と言ってくれたが、俺は会長がそんな冗談を言うような人だとは思わなかった。
 それなら、俺がしなければならないことは一つだ。

「あ、あの……」
「ん?」
「……会長が、それでいいなら俺は……それでも構いません……」

 時間が止まったかのように静まり返った仮眠室内。自分の心音だけがやけに煩く響いて、ろくに会長の顔を見ることが出来なかった。
 断られたならそれでもいい、そう思っていたのに、会長の言葉を待つこの時間がただひたすらに長く感じるのだ。

「……君は、本当に末恐ろしいな……」

 やがて、芳川会長は椅子から立ち上がり、着ていたブレザーを脱いだ。それを壁掛けハンガーに引っ掛ける。
 もしかして、と顔をあげれば、目があった会長は仕方ないとでも言うかのように、それでも気を悪くするでもなく微笑んだ。

「誘ったのは君の方だからな。……後から狭いと文句を言っても俺は聞かないぞ」
「は、はい……!大丈夫です!」
「そうか。その言葉、忘れるなよ」

 そう言って、シャツのボタンに手を掛ける会長。
 会長が着替えるのだと気付き、慌てて俺は寝返りを打って会長に背中を向ける。そしてじっと会長を待っているのだが、なぜだろうか。普段ならば人前で着替えることの方が耐え難いと思っていたはずなのに、誰かが近くで着替えてるということにそれ以上に緊張している自分がいた。
 衣擦れ音に混じって聞こえてくる、自分の心臓の音がぢ耳障りで。
 隅に移動して会長がベッドに入ってくるのを待っていると、やがてベッドが小さく軋む。会長だ。

「……おい、そこまで隅っこにいかなくてもいいんだぞ」
「ご、ごめんなさい、でも、邪魔じゃないかと……」
「邪魔も承知で誘ったのだろう。それならもっと図々しく大の字で寝てくれてもいいんだぞ」
「それは……」

 それはそれでどうかと思うのだが。
 遠慮するなと言ってくれているのだろう。恐る恐る会長に向き直れば、ベッドに入ってきた会長はぽんぽんと自分の横を叩く。

「もっとこっちに寄れ。そのままでは君が落ちてしまいそうで心配で眠れんからな」
「……」

 薄暗い仮眠室内。
 言われるがまま、ずりずりと這いずるように会長の横に移動すればすぐ傍に会長の顔があるではないか。
 布団の中、手のやり場に困った俺は自分の腕を掴んでやり過ごすことにする。そして、改めてちらりと会長の方を見たとき。

「……会長、眼鏡……」

 サイドボードに目を向ければ会長の眼鏡が置かれているのを見つけた。眼鏡を外した会長はなんだろうか、やっぱり眼鏡を掛けている時の印象が強くて、俺はまるで知らない人と寝ているみたいで落ち着かなかった。そんな俺に気付いたのか、芳川会長は困ったように笑う。

「なんだ。流石に眠るときまで掛けないぞ、俺でも」
「……いえ、なんか、新鮮で……」
「そうか。だが俺の顔を見てる暇があったら目を瞑れ。眠たいのだろう」

 子供でもあやしてるかのように俺の頭をぽんぽんと優しく撫でてくる会長。なんだか上手くはぐらかされているようだが、眠たいのも事実だった。

「……会長は、目を瞑らないんですか?」
「俺は君が眠るのを見てから眠る。だから、君が起きていると心配で眠れないんだ」
「わ、分かりました。眠ります……!」

 そう言われると眠るしかないではないか。
 慌ててシーツを被って目を瞑るが、すぐ頭上で芳川会長の呼吸が聞こえてきて緊張する。
 阿賀松や阿佐美の時とは違う、何かされるという心配はないはずなのになんだろうか、この緊張は。
 もぞもぞと何度か動いて定位置を探していると、会長が小さく笑うのがわかった。

「子守唄でも歌ってやろうか?」
「だ、大丈夫です……!」
「そうか。……ならゆっくり眠れ」

 ぽんぽんと背中を優しく叩く会長。
 やはり、会長には弟がいたのではないだろうか。そう思うほど、会長の手は優しくて俺はすとんと眠りに落ちる。

「……おやすみ、齋藤君」

 夢現の中、そんな芳川会長の言葉を聞きながら。

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