天国か地獄


 08

 それは一瞬のことのように思えた。
 気付けば辺りには見覚えのある景色が広がっていた。
 起き上がろうとしても思うように体が動かなかった。手足が縛られているのだろう。
 腹に力を入れ、捩るように上半身を起こした時。

「随分と眠っていたようだな」

 聞こえてきた声に、冷水を浴びせられたように背筋な凍り付いた。
 近付いてくる足音に、息が浅くなる。
 全てを思い出した。
 あの後、阿賀松たちとゲーセンへ向かう途中、バチリという音ともに全神経に電流が走り、そして。
 意識が飛ぶその瞬間、灘に体を支えられたのを思い出し、スタンガンを押し付けられた首筋の違和感に気がつく。

「……会、長……」

 恐る恐る口にすれば、目の前。やってきた会長はソファーの上に転がされた俺を一瞥する。
 冷たい目に、心臓が痛む。嫌な汗が止まらない。

「体は大丈夫か?灘が無茶をしてきたようだからな」

 伸びてきた手に、首筋を撫でられる。スタンガンを押し当てられた時のあの硬質な冷たさではなく、人の体温を持ったその指先の感触に体が震えた。
 仰け反れば、芳川会長はそれを無視して、そのまま頸動脈をなぞるように親指を這わせる。
 全身の毛がよだつようだった。

「跡にはなっていないようだな」

 徐々に首の付け根へと皮膚を上ってくる会長の指に、息が詰まりそうだった。
 平常でいなければ。そう思うのに、頭では分かっていても会長の指の動き一つで心臓を握り潰されそうな、そんな緊張感に体は石のように固まっていて。

「どうした?そんなに体を強張らせて」
「っ、……ぅ……」
「そんなに怯えるな。……それじゃあ、まるで俺が君に何かをしようとしているみたいじゃないか」

 そう、笑う会長。
 釣り上がる口端とは裏腹に笑っていないその目に、今度こそ言葉に詰まる。
 返さないと、写真を。そう思うのに、思うように動けない。動かせない。

「っ、……ごめん、なさい……」
「……なんのことだ?」
「会長を、騙すような真似をして……」
「真似だと?面白いことを言うな、君は。真似ではない、君は俺を騙したんだよ……あの男の口車に乗せられて」
「……ッ」
「……分かっている、君が進んで俺を裏切るはずがない。脅されて、酷い目に遭わされたのだろう」

 会長はまだ俺を信じてくれている。
 そのはずなのに、有無を言わせぬその威圧感に俺は会長の言葉に素直に頷くことが出来なかった。
 会長は俺の話を聞いてくれる。それ程喜ばしいことはないはずなのに。なのに。
「なあ、そうだろう?」と頬を撫でられ、ゾクリと肩が震えた。

「っ、ごめん……なさい……ごめんなさい、会長……っ」

 謝ることしか出来なかった。
 それ以外口にすることを許されない、そんな空気に、言葉を吐き出す度に全身の器官を圧迫されているようなそんな息苦しさを覚える。
 赤子か何かのようにそう言葉を繰り返すことしか出来なくなる俺をただじっと見下ろす会長は、やがて、俺の後頭部を掴み、抱き寄せた。

「……っ、会長……」
「人並み以上には君のことを理解しているつもりだ。……板挟みにされた君があいつの言う事を聞くのは無理もない。誰だってそうするだろう」
「……っ」

 淡々とした言葉は、俺の心に直接響く。
 怒られる、嫌われる、軽蔑されるに違いない。そう思っていたのに、一層そうしてくれた方がどれだけ良かっただろうか。余計胸がはち切れそうになる。申し訳無さでその顔を見ることも出来なくて、「ごめんなさい」と項垂れる俺に会長は後頭部を優しく撫でてくれた。

「……俺、阿賀松先輩に言われて、断われなくて……すみません、相談も、出来なくて、こんな……」
「分かっている。君も色々あったのだろう。だが、相手が俺ではなかったらどうなっていたか考えたか?」
「……嫌われるって、分かってました。けど……っ、ごめんなさい、会長……」

 ぽんぽんと優しく頭を撫でられただけで今まで我慢していたものが溢れてくるようだった。
 これ以上この人に甘えてはならない。そう分かっていても、包み込んでくれる会長の懐の深さに俺は、逆らうことが出来なくて。

「……君は、俺に嫌われてもいいと思っていたのか?」
「……っ、嫌われたいと思いません。でも、こんな真似をして、今まで通りに接してくれるとは……思いません……」
「……そうか……まあ、そうだろうな。普通は」

 含みのあるようなその言葉に、どういう意味なのだろうかと顔を上げたとき、背後に回された会長の手に拘束していた紐状のそれを解かれる。
 締め付けるものが無くなり、自由になった自分の手を見つめれば会長は薄く笑った。

「君は俺の可愛い後輩だ。……君を簡単に嫌いになるわけがないだろう。たかが眠り薬一つ、可愛いものだ」
「会長……」
「それに元凶は君を恐喝したあの男だ。そうだろう?」
「……っ、それ……は……」

 会長が許してくれる。そのはずなのに、何故だろうか。尋ねられ、俺は思うように口が動かなくなる。
 阿賀松の言いなりになったことが原因なのは確かだ。それなのに、それに頷いてしまえば取り返しの付かないことになってしまうそんな気がしてならないのだ。

「……まだ、本調子ではないみたいだな。無理もない。……暫くここに人は来ない。もう少し休んでいくといい。ああ、そうだ。君が好きだと言っていたジュースがあるんだ。用意してこよう」

 そんな俺に気付いたのかどうかは分からない。そう言いながら俺から体を離した会長が立ち上がった時、ごとりと音を立てて何かが会長から落ちる。
 それは、見たことのあるものだった。
 ハサミのような形をした、そのくせハサミのように尖ってはいなく短くて厚みのある金属の……ああ、そうだ、確かニッパーと呼ばれるものだ。

「会長、何か……」

 何故会長のポケットからそんなものが。と思うよりも先に、落ちたそれを見たときの会長の冷たい目にゾッとした。
 それは一瞬のことで、先程と変わらない小さな笑みを浮かべた会長は「ああ、ありがとう」と言いながらそれを拾い上げた。
 何故だろうか、胸騒ぎがする。

「会長、あの、今のは……」
「ああ、これか。君は見たことないか?金属など硬いものを捻じ曲げるために使うんだ。……しかしもう必要がないな、元にあった場所に仕舞わなければならないな」

 いつもと変わらない笑顔。声。
 それなのに、先程見せた会長の表情が脳裏から離れなくて、俺は、上手く笑い返すことが出来なかった。

「少し待っててくれ。すぐに飲み物を用意してくる」

 そう言って、何事もなかったかのように生徒会室を出ていく芳川会長。

 喜ばしいことなのに、釈然としないのは何故だろうか。
 そんなはずはないとわかっているのに、ニッパーを見た瞬間それを自分の体の一部を捩じ切られる想像をしてしまうのだ。
 許されない。許されていいことではない。そう頭の中で嫌ってほど自分のしたことの重大さを考えてるからか、考え過ぎだと言われても俺はこうして無事でいられる自分自身が信じられなかった。

 尻のポケットを弄れば、会長の家族写真はまだ入ったままだったことに安堵する。
 会長は俺のしたことを全部阿賀松のせいだと思ってる。
 それなら、これを返し易い。
 思いながら、一先ず俺は足首を束ねる縄を解くことに努めた。


 ◇ ◇ ◇



「一人にして大丈夫ですか、彼」
「問題ない。この状況下で一人で抜け出すなんて危ない橋を渡るとは思えないからな」
「……意外でした、貴方が許すなんて」
「別に許したわけではない。あの時、俺を拒絶したならどうしてやろうかとも考えた。……だが、あの様子からしてまだ完全にあいつの犬になったわけではなさそうだからな。こちらに転ぶ可能性は高い」 
「齋藤君には利用価値があると」
「そんな非人道的な言い方はやめろ。俺はただあの男が自分が飼い慣らしたつもりの犬に喉笛を食い千切られる様を見たいだけだ」
「…………」

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