天国か地獄


 06

 気が付けば、俺は阿賀松の部屋、そのベッドの上に帰ってきていた。
 どうやって帰ってきたのか、あのVIPルームで何があったのかろくに覚えていないがヤケに喉がヒリつくように痛むのだ。
 寝返りを打とうとして反対を向いた俺は一瞬心臓が停まりそうになった。
 寝息を立てて眠る阿賀松。
 どうやら、阿賀松と同室になったということは夢じゃないようだ。
 だとしてもなんで同じベッドで眠らなければならないのだろうかと思ったがもとよりこの部屋にはベッドは一台しか見当たらない。それも男二人並んで寝ても大分余裕のあるこの馬鹿でかいベッドがだ。
 一人で寝るには勿体無いのではないのだろうか、なんて思いながらも体を起こす。
 流石に、阿賀松の顔を見たら二度寝する気になんてなれなかった。
 トイレに行こうとベッドを降りたとき。
 ドンッ!と物凄い音が居間の方から聞こえてきた。

「……っ、……」

 それは一度だけではなく、ドンドンドンと乱暴に壁を叩くようなそんな音に部屋全体が振動している。そんな気がするほどの物音で。
 誰か来たのだろうか。思ったが、阿賀松はすやすや眠っていて起きそうにない。
 どうしよう、どうしよう、と一人で狼狽えていると何かが体当たりするような音が聞こえてきた。
 それに驚き、咄嗟に俺は「先輩」と阿賀松を揺り起こす。
 何度か揺すれば、「んんー」と唸りながらも薄く阿賀松は目を開いた。

「……るせえー」

 低い声。完全に不機嫌だ。
 けれど、このまま放っておくわけにもいかない。

「す、すみません……っあの、誰か来てるみたいなんですが……」
「……ユウキ君、出てきて」
「えっ?お、俺が出ていいんですか……?」
「適当にあしらうくらいできるだろうが……」

 言いながらも、枕に顔を埋める阿賀松の語尾はむにゃむにゃと消えていく。
 そして暫くもしない内にまた規則的な寝息が聞こえ始める。
 こんな状況で眠れるとかどんだけ肝座ってんだよ。
 呆れる反面羨ましくさえある。
 けれど、こんな荒々しいノック、絶対にまともな客人ではないはずだ。気が進まないが、阿賀松に言われた今従うしかない。

 ――阿賀松の部屋、玄関口。
「はい」と、慌ててその扉を開いたとき。
 小さな隙間から入り込んできた指にギョッとする。
 それも束の間、大きく開かれた扉から阿賀松の部屋の外へ引きずり出された俺は、そこに立っていた人物に青褪めた。
 それは、そいつも同じだった。

「ッ、齋藤……ッ!!」

 真っ赤に手を腫らした志摩は、現れた俺の姿を見るなり目を大きく見開いた。
 なんとなく、嫌な予感はしていた。
 けれど、それが今だというのは神様、少しタイミングが悪すぎではないだろうか。

「っ、なんで、ここに……」
「それはこっちのセリフなんだけど……」

 あからさまに怒りを滲ませる志摩に、俺は狼狽えていた。
 狼狽えることなど何一つないのに、阿賀松に無理矢理部屋に連れてこられたと言えば志摩も納得するはずだ。そう思うのに、約束を破って阿佐美を頼ったことに対する後ろめたさからその目を直視することできなくて。
「齋藤」と、伸びてきた手に胸倉を掴まれそうになった時だった。

「ちょっとちょっと、うちの齋藤君に手を出さないでくれる?」

 聞き覚えのある声とともに、志摩の背後に立った縁はその手を掴み上げる。

「……方人さん」
「……本当、油断も隙もねえな」
「縁先輩……ッ!」
「ごめんね、せっかくのところこいつがお邪魔しちゃって」

 こいつ、というところで志摩の腕を後ろ手に捻る縁。あらぬ方向へ間接を曲げられ、顔を顰めた志摩はそれでも構わず、縁を突き飛ばす。
 そして、

「っ、齋藤」

 俺の手を掴んだ志摩はそのまま距離を詰めてきた。

「どうせまたあいつに無理矢理連れてこられたんでしょ?なら、俺が連れて出してあげるよ。だから、ほら」

「行くよ」と、囁かれ、強く腕を引っ張られた。
 俺の返事を聞かずにさっさと歩き出そうとする志摩。
 前々から強引なやつとは思っていたが、それでも今この状況はあまりにも分が悪すぎるのだ。

「待って、志摩っ」

 俺が志摩を止めるよりも先に、と縁に肩を掴まれ、無理矢理志摩から引き離される。
 そして、俺と志摩の間に立つように割入ってきた縁は大きな溜息を吐いた。

「だーかーらお前は少しは人の話を聞けって!そもそもそんなことして俺が見逃すと思うわけ?」
「……思いませんね」
「なら、もう少しさぁ……」

 言い掛けた矢先だった。傍、通路の隅に佇む観葉植物の根っこを掴んだ志摩は鉢ごと縁の上半身に投げ付けた。
 広くはない通路内、避けることができなかった縁はその泥を被る。

「……テメェ……ッ」

 低い声。髪に掛かった泥を振り落とす縁、前髪の下、その双眼が鋭く細められるのを見て血の気が引く。
 そんなこと知ったこっちゃないとでも言うかのように志摩は「齋藤」と俺に手を伸ばしてくるが、俺は動けなかった。

「齋藤っ?!何してるのっ?早く……っ」

 否、動くことが出来なかった。
 ゆっくりと開く扉。そこから現れたその人に、その場の空気が一気に重くなるのが分かった。

「なぁにピーピー騒いでんだぁお前ら?お陰で眠れねえじゃねえかよ」

「どうしてくれんだよ、亮太」と、俺の肩に手を置いた阿賀松は目の前の志摩を見据え、笑う。
 それはいつもの笑みとは違い、不快感を孕んだようなそんな冷たい笑顔で。
 触れられた肩、そこがやけに重くて、俺は呼吸することすら儘ならなかった。

「っ、なんでもないです」
「なんでもはねえだろう?なぁ、亮太」

 阿賀松の注意が志摩に向けられる。
 やつに真正面から対峙した志摩が何か言おうと口を開いたとき、俺は耐えられずに「志摩は」と声を上げた。
 その声の大きさに、縁も志摩も驚いたような顔をしていたがそれは俺自身も例外ではなかった。

「志摩は、その、ただ、用事があっただけで、もう帰るそうです。だから、もう大丈夫なので……」

 このままでは志摩が目を付けられてしまう。元はと言えば、いなくなった俺を志摩は探しに来てくれたのだ。
 そんなことを阿賀松に知られたら、何をされるかわかったものではない。
 だから、とにかくその場を穏便に済ませようと務めるが。

「ちょっと、齋藤……っ」
「へえ、そうなのか?方人」

 不自然に泥で汚れた縁に何を言うわけでもなく、尋ねる阿賀松に縁は笑った。それは先程までの冷たいものとは違う、明るい笑顔で。

「ああ、そうだよ。こいつは俺に用があんたんだよな。ほら、責任取って部屋まで送ってやるよ」
「ふざけるな……おい!齋藤っ!どういう……ッ」
「亮太」

 そう、声を荒げる志摩の肩を掴んだ縁はその耳元に口を寄せる。

「齋藤君が機転利かせてんのが分かんねえのかな、お前」

 縁の唇の動きから、やつがそう志摩に言い聞かせているのがわかった。
 それでも納得できないといった様子の志摩はこちらを、いや阿賀松の横で突っ立っている俺を睨んでいた。

「……齋藤……ッ!」
「……っ」

 このままでは、また何を言い出すか分からない。
 縁と志摩のことが気になったが、それよりも先に俺にはすべきことがあった。

「先輩、早く、あの、部屋に戻りましょう」

 いち早く阿賀松を部屋に戻すこと。
 それは、俺にしか出来ないことだろう。
 そう思って、阿賀松の腕を軽く引っ張れば何を思ったのだろうか。振り払われるかと思った手は絡め取られる。
 そして。

「ああ、そうだな」

 軽く額に唇を落とされ、前髪を撫でられる。
 普段しないような、まるで恋人相手にでもするかのような優しい手付きにギョッとしたとき。
 それを見ていた志摩が、目を見開いているのを見てしまい、俺は言葉に詰まった。
 それを無視して、俺の肩を抱くように阿賀松は部屋の奥へと俺を押し戻す。

 してやられた、と思った。
 扉が閉まり、完全に志摩の声も聞こえなくなったとき、阿賀松に体ごと扉に押し付けれられる。

「随分と積極的だな、今日は」

 元より、俺が早く阿賀松をあの場から引き離そうとしたことに阿賀松は気付いたのだろう。だから、面白がってあんな志摩の神経を逆撫でするような真似を。
 そう思うと、やはり食えない相手だというのが分かった。

「……っすみません、先輩と……早く二人きりになりたかったので……」
「その面でそんなこと言われてもなぁ、説得力の欠片もねーんだけど」
「……ッ」

 自分がどんな顔をしているのかなんて分からない。けれど、相当酷い顔をしていたに違いない。
 俺は何を応えることも出来なかった。

「……興醒めだ」
「っ、え……」
「誘うんなら、もっとましな口説き方考えろよ」

 そう一言、俺の前から退いた阿賀松は欠伸混じり、再び部屋の奥に引っ込んでいく。
 瞬間、ドッと全身の緊張が緩み、堪らず俺はその場にへたり込みそうになる。
 もっと、責められるかと思った。
 けど、褒められたことではないのは間違いない。
 ――志摩。
 志摩は大丈夫なのだろうか。気になったが、俺に合わせて阿賀松から庇ってくれた縁のことを信じるならば、きっと。
 会長だけではなく、志摩にまで顔向けが出来なくなるなんて。志摩はきっと俺に失望しただろう。
 ……もういいや、と俺は阿賀松のあとを追って部屋に戻る。
 今は何も考えたくなかった。


 部屋に戻ってきてからというものの、再びベッドに潜った阿賀松は先ほどと同じように寝息を立てていた。
 本当にただ煩かったから様子見に来ただけのようだ。
 それにしてもよくあんな騒ぎの後にすぐ眠れる。俺は変に目が冴えてそれどころではないというのに。
 ベッドに腰を下ろしたまま、眠る阿賀松を眺めていたときだった。
 サイドボードの上、無造作に置かれていた阿賀松の携帯端末が振動を始めた。
 通知か何かだろうと思ったが、そのバイブはなかなか止まらなくて。
 もしやと思い端末を覗き込めば、そこには【じいさん】とだけ表示されている。
 もしかしなくても、電話だった。

「せ、先輩……電話が鳴ってるんですけど……」
「……知らねえよ……出といて」
「えっ?!」

 またかよ、と堪らず絶句する。
 着信相手からして阿賀松の親族相手に初対面どころか俺みたいなのが出ていいとは思えない。
 なんとかして出さなければと、携帯端末を手にした俺は寝返りを打つ阿賀松にそれを見せた。

「でも、あの、これ、もしかして理事長からじゃ……」

 阿賀松の祖父と言えば、この学園の理事長だと以前志摩に聞いたことがある。
 じいさんと理事長が同一人物か分からないが、俺の言葉が阿賀松の気を惹くことに成功したようだ。

「……」

 薄く目を開き、こちらを凝視した阿賀松はそのまま俺から携帯を奪い、起き上がる。
 そして、

「……すみません、遅くなりました。……どうかされましたか?」

 俺は一瞬耳を疑った。
 だって、あの阿賀松が敬語で話しているのだ。驚かずにいられるはずがない。
 それも聞いたことがない、育ちのいいお坊っちゃんのような丁寧な言葉遣いに呆気に取られてると、阿賀松はそのまま寝室をあとにした。
 やはり、理事長の前ではちゃんとしているということなのだろうか。
 俄信じ難いが、他人の前ではまるで好青年のように立ち振る舞う、そういうやつを知ってる分、納得せざるを得ない。

 阿賀松がいなくなり、再び静寂が訪れる寝室内。
 俺はサイドボードの上に置きっぱなしになっていた生徒手帳を見つける。
 もしかして、と思い中を覗けばそこには芳川会長の名前が表記されていた。
 まさか置きっぱなしになってるなんて思いもよらなくて、同時に、あからさまにそこに置かれた生徒手帳に嫌な予感を感じずにはいられなかった。
 わざわざ人を遣ってまで奪ったものをこんなところに置きっぱなしにするだろうか、あの阿賀松が。
 俺なら鍵付きの引き出しの中にでも仕舞っておくだろう。
 けれど。

 これを芳川会長に返せば。罪の償いには足元にも届かないが、それでも。
 なんて思いながら手帳の学生証を抜いた時、同時に何かが手帳の中からひらりと落ちる。
 それは、写真のようだった。
 折られたその写真は大分古いもののようで、そこには優しそうな女性と男性、その間に満面の笑みを浮かべてピースした少年と、その陰に隠れるように立つ暗そうな少年が映っていた。

 これは、家族写真だろうか。
 二人の少年の顔も表情は違えどその顔立ちはどこか似通っている。
 兄弟なのだろうが、この写真が誰の生徒手帳から出てきたものだと考えるとそれはすぐに分かった。

 ……会長、だろう。
 どちらの少年が会長なのかは分からないが、それでも、ここに仕舞っているということは大切なものに違いないだろう。
 そう、写真を眺めていたときだった。
 ドアノブがカチャリと音を立て、開くのを聞き、咄嗟に俺は生徒手帳をサイドボードに戻す。
 間一髪、開いた扉から戻ってきた阿賀松は俺の不自然な動作に気付かなかったようだ。

「あーくそ、二度寝しようと思ったのに目が醒めた」
「……」

 咄嗟に、写真と学生証をポケットに隠す。
 サイドボード前、佇む俺に阿賀松はゆっくりと近付いてきた。
 バクバクと高鳴る心臓がただ痛く、無意識に息を止めている自分がいた。
 そして。

「……何してんだ?お前」
「……あの、俺の制服、どこにあるのかなって思って探してたんですが……」
「制服ぅ?」
「えと……そろそろ授業に出ないとまずいかな、って」

 適当に誤魔化せば、阿賀松は「出なくていいだろ、別に」とあっけらかんとした調子で答える。
 思い付きだったが、予想外の答えに俺はなんだか鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
 何を言い出すんだ、この男は。他人事だと思って。

「でも、そんなわけには……」
「そんなに気になんなら勉強なら俺が教えてやるよ」
「え……っ?」

 本気で言ってるのか、それともただの戯れなのかは分からない。それでも、そんな問題ではないことだけは俺でも分かった。

「ま、いいや。なんか寝てたら腹減ったな……飯食いに行くか」

 大きな欠伸をしながら、着ていた服を脱ぎ始める阿賀松にギョッとした。
 着替えるのなら着替えると言ってくれ。
 慌てて顔を逸らす。

 そして、自分だけ服を着替えるなりさっさと部屋を出ていく阿賀松。
 俺も行くべきだろうか。
 阿賀松が出ていった寝室の中、俺は学生証だけ生徒手帳に戻す。
 阿賀松に何されるか分からない。
 それでも、なんでだろうか。これだけは会長に返さなければならない気がした。
 学生証ならともかく、この写真は隠すように入っていたし阿賀松は気付いていないかもしれない。思いながら俺は阿賀松を追って寝室を後にした。

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