天国か地獄


 03

「……」

 ……結局ここまで来てしまった。
 芳川会長の部屋の前、ポケットの中の薬をぎゅっと握りしめる。
 呼び鈴を押そうか。でも、いきなり押し掛けても不自然だ。それに、薬を飲ませるには何かに混入させないといけなくなる。
 こんなに都合よく会長が飲み物を用意してくれるだろうか。
 考えれば考える程自分のしようとしていることの大胆さに気付かされる。
 一番いいのは、会長が俺を不審に思ってくれることだ。

「齋藤君?」

 と、扉の前で右往左往していると、不意に背後から聞き慣れた声が聞こえてくる。
 慌てて振り返れば、今校舎から戻ってきたようだ、制服姿のままの芳川会長がそこに立っているではないか。

「か……会長……」
「どうした、そんなところでウロウロして。もしかして、俺を待っていたのか?」

 嫌な汗が滲む。まだ、考えが纏まっていないというのにまさかよりによってこんなタイミングだなんて。
 震えを堪えるように拳を握り締める。

「ご、めんなさい……いきなり来て……その、会長に、会いたくて……」

「迷惑、でしたよね」なるべく、怪しまれないように俺は言葉を紡いだ。どこで阿賀松が聞いているのか分からない。
 下手な真似は出来ない。
 そんな俺を怪しむどころか、芳川会長はふっと微笑む。

「……迷惑なわけがないだろう。君にそう思わせることが出来るなんて、男なら本望じゃないのか?」

 心臓が、握り潰されるようだった。
 俺に気遣ってか、そんなことを口にする会長の優しさが余計辛くて、俺は、ろくに会長の顔を見ることが出来なかった。

「飯は?食べたのか?」
「……はい……」
「そうか、なら……立ち話もなんだ。部屋に上がれ」

 どうして、どうして、優しくしてくれるんだ。俺に。
 いっその事、冷たくあしらってくれたら『俺なんかじゃ相手にされませんでした』と阿賀松に報告できるのに、どうして。

「……ありがとうございます……」

 罪悪感に胸が締め付けられる。
 俺は、芳川会長に迎え入れられるがまま部屋に上がった。

 会長の部屋の中は、以前と変わらない殺風景なままだった。
 ソファーに俺を残し、部屋の奥へ引っ込んだ芳川会長はトレーに二人分のグラスにジュースを注いで運んでくる。
 それを見て、『なんとかあれに薬を入れることが出来れば』と考える自分を殴り殺したい衝動に駆られた。

「それで、何かあったのだろう」

 グラスをテーブルに置き、芳川会長は向かい側のソファーに腰を掛ける。
 怪しまれているのかもしれない。向けられた、生暖かな視線がただひたすら痛くて、息苦して仕方なかった。
 芳川会長に素直に打ち明けられたらどれだけいいだろう。
 けれど、話したら会長は薬を飲まないだろう。
 そうなると、必然的に俺と芳川会長が繋がっているということが阿賀松にバレてしまう。

「どうして……」
「そりゃ分かる。……そんな顔をした君を見たら。深刻な話じゃないのか?」
「……っ」
「……少し待っててくれ。ちょっと、鍵を閉めてくる。……途中で誰かに邪魔をされたら堪らないからな」

 言うなり、立ち上がる芳川会長に全身が強張った。
 まさか、阿賀松とのことを勘付かれているのか。
 全身の汗が止まらない。
 そんな俺の横を通り過ぎ、玄関口へと向かう芳川会長の後ろ姿を俺は目で追い掛けた。

 俺のことは疑われていないのだろうか。
 分からないが、芳川会長が席を外した今しかない。
 俺は、小袋を取り出し袋を破る。そして、芳川会長が扉の前に立っているのを確認し、素早くそれを会長のグラスに流し込んだ。

 考える暇すらなかった。
 今しかないも思えば、勝手に体が動いていたのだ。
 こちらを振り返る前に袋を制服のポケットに隠す。
 そして、なんとか一連の動作を終えたギリギリのタイミングで、芳川会長は戻ってきた。
 何もなかったかのようにソファーに腰を掛ける会長は俺のしたことにも気が付いていないようだ。
 ……やってしまった。
 ここまできたら後に引くことは出来ない。
 俺は、芳川会長の意識をグラスから逸らすため、咄嗟に口を開いた。

「あの、会長……俺……っ」

 けれど、上手い言葉見つからない。
 それもつかの間、頭の中に阿賀松が浮かび上がり、閃く。
 ……これしかない。

「俺……阿賀松先輩と、同室になったんです」

 咄嗟に、口にした言葉は嘘でも誤魔化しでもない、事実だった。
 下手な嘘や誤魔化しでは会長に敵わないと察した俺は、敢えて本当のことをいうことにした。
 案の定、芳川会長は訝しげに眉根を寄せる。

「阿賀松と?……何故だ。この間、君は阿佐美君と……」
「そのつもりだったんです、けど、相部屋のことが阿賀松先輩にバレてしまって……それで、成り行きで……」
「……君は、それでいいのか?」
「……よくは、ないと思いますけど……俺にはどうすることも出来ませんから……」

 飲んでもらわなければならないという気持ちと、失敗してもいいからなんとか会長は俺の目の前で薬を口にしませんようにという気持ちが俺の中で拮抗していた。
 どちらにせよ、俺の口から会長に告げることは出来ない。
 会長に託すしかない、そう、語尾を飲んだ時。

「……そう考えるのはまだ早いんじゃないのか?」
「え?」

 どういう意味ですか、と顔を上げたとき。
 テーブルの上に置いていた手に、芳川会長の手が重ねられる。その暖かさに固まったとき。

「あいつと同室になるくらいなら、俺が君を引き取ろう」

 真っ直ぐに、こちらを見つめるその目に、今度こそ言葉を忘れた。
 冷やかしでもなければ、その場限りの軽口でもない。その求めていた言葉の重みに、胸の奥がずしりと重くなる。
 罪悪感だ。俺は、この人になんて真似をしたんだという、自分自身への嫌悪と会長への裏切り行為にこれでは、自分で自分の首を絞めているようだ。なんて、思わずにはいられなかった。

「そんなことになれば阿賀松からの風当たりもキツくなるかもしれない。……けれど、俺は君の力になりたい」
「かい、ちょ……」
「決めるのは、君だ」

 会長の手が、グラスに伸びる。
 あ、と、咄嗟に俺は会長のグラスを持つ手に自らの手を伸ばした。
 飲んではいけない、と。
 けれど、間に合わなかった。
 手を伸ばした先、ごくりと喉仏を上下させる芳川会長は俺を見た。

「どうした?いきなり立って……」

 と、言い掛けた矢先だった。
 会長の手からグラスが滑り落ちる。
 ごとりと音を立て、カーペットの上にシミを作るジュースに、俺は、全身からの血の気が引いていくのを感じた。

「……っ齋藤、君……」
「……」
「……何を、した……ッ?」

 喉を抑えた芳川会長は俺を睨む。その声は、掠れていて。
 愕然とし、何をすることも応えることも出来ずにいた俺の目の前、ソファーの背もたれに凭れかかった会長はそのままずるずると落ちていく。
 芳川会長の目に映っていた俺はどんな顔をしていたのだろうか、想像付かないがしたくもなかった。
 もしかして本当に毒薬じゃないんだろうなと、慌てて芳川会長に歩み寄ったが整った寝息が聞こえてきて安堵する。
 けれど、これで、本当に俺は取り返しのつかないことをしてしまったんだ。
 けれど、まだ間に合う。

 眠る芳川会長を一瞥し、俺は、立ち上がる。
 薬は飲ませたけど、阿賀松に伝えなければまだ『まし』だ。これ以上この人に負担を掛けることは出来ない。いくら、阿賀松に裏切り者と言われようともやっぱりそれだけはしてはいけない。
 覚悟を決め、鍵を開けて部屋の扉を開いた時だった。

 ぬっと開いた扉の隙間から白い指が滑り込んできて、そのまま大きく扉を開かれる。
 そして、扉の向こう側、そこに立つそいつを見て、俺は言葉を失った。

「よぉ、随分と早かったじゃねーか」

 最初から待ち伏せていたのだろう。
 そう笑って、阿賀松伊織は芳川会長の部屋へと土足で部屋に上がり込んできた。

「なんで、ここに」

 まさかこんな近くで聞き耳を立てているとは思ってもいなかっただけに、余計、阿賀松の登場に声が震える。

「なんでって、そりゃあ……可愛い恋人が男の部屋に行って二人きりになってんだぞ?放っとけるわけねぇだろ」

 そう、笑う阿賀松。それが本心からのものでないというのはすぐに分かった。
 そして、「退けよ」と一言。狼狽える俺を押し退け、芳川会長の部屋へと土足で上がる阿賀松にぎょっとする。

「先輩……っ」
「おーおーよく眠ってんなぁ。このまま海にでも沈めてくるかァ?」

 その何気ない一言に、耳を疑った。硬直する俺に、「冗談だっての」とやつは愉しそうに笑う。

「眠ったまま、気持ちよく死なせるつもりはねえよ。どうせなら死んだ方がましだって思ってもらわねえとな」

 フォローのつもりなのだろうか。
 そう、口にする阿賀松。その口元は相変わらず歪な笑みを浮かべたままだが、その目が笑っていないことに気付き、俺は何も言えなくなる。
 阿賀松が何故会長をそんなに嫌っているのか、否、恨んでいるのか俺には理解できない。けれど、俺は阿賀松の行動を止めることは出来なかった。

 眠ってる芳川会長を無理矢理起こし、その制服のポケットから何かを取り出した阿賀松。
 革のパスケース、生徒手帳だろう。無遠慮に会長の生徒手帳を開いた阿賀松はニタリと嫌な笑みを浮かべた。
 そして、

「ユウキ君、帰るぞ」

 芳川会長の生徒手帳を自分のポケットに仕舞った阿賀松は、こちらを振り向くなりそんなことを言い出した。
 まさか、もう用が済んだのだろうか。てっきり部屋を荒らしていくのだろうと思っていただけに、あっさりと立ち去ろうとする阿賀松に驚いた。

「んだよ、その目。『もう帰るんですか?』って顔してんぞ、お前」
「いえ、あの……わかりました……」

 俺がここで引き止めるのもおかしな話だ。
 頷き返せば、阿賀松は「おう」とだけ返し、さっさと芳川会長の部屋を出ていく。
 俺は、その後ろ姿を追おうとして、不意に芳川会長のことが気になり背後を振り返る。相変わらず眠ったままの芳川会長はまだ目が覚める気配はない。

 ごめんなさい、と今更謝罪したところでもう遅い。
 俺は、後ろ髪を引かれながら阿賀松とともに会長の部屋を後にした。


 ――学生寮四階、通路。
 人気はちらほらあったものの、芳川会長の部屋から出てくる阿賀松を見るなり近くにいた三年たちは慌てて顔を逸らす。
 そして、たった今不法侵入した上物を盗んだばかりだというのに阿賀松は素知らぬ顔をして堂々と歩いていく。
 俺は、罪悪感と後ろめたさのあまり顔を上げることが出来なかった。

 そして、戻ってきた阿賀松の部屋。
 慣れた手付きで扉を解錠した阿賀松は、まだこの部屋の敷地を跨ぐことに抵抗を覚えている俺を睨み「何してんだよ」と促してくる。慌てて俺は阿賀松の部屋に上がった。
 芳川会長の部屋にいたからか、余計、阿賀松の部屋の甘い香水のような匂いがキツく感じる。

「……」
「どうしたんだよ、浮かねえ面して」

 こんな犯罪の片棒を担ぐような真似をして、浮かれられるはずがないだろう。喉まで出かけた言葉をグッと飲み込み、俺は「すみません」とだけ謝罪する。
 対する阿賀松はどうやら上機嫌で、そんな俺の態度に目くじらを立てることはなかった。

「しかしまあ、本当にお前には甘いみてぇだな。あいつ」
「……」
「てっきり、ユウキ君ことだからあいつに適当にバラして逃げてくるかと思ったんだけどなぁ……」

 頭上、伸びてきた手にびくりと構えるが、殴られるような痛みなどはなく、くしゃりと髪を撫でられ、二重の意味で驚く。
 顔を上げれば、こちらを覗き込む阿賀松と徐ろに視線がぶつかった。

「……よくやった」

 褒められる、というにはあまりにも雑で、グシャグシャに撫でられる頭部に喜びよりもいつこの大きな手に頭蓋骨を握り潰されるのかという緊張感で俺は無意識の内に呼吸を止めていた。
 口を硬く結んだまま、縮み込む俺に阿賀松のこめかみがピクリと反応する。

「んだよ、人が褒めてやってんのに。ちょっとは可愛げのある真似できねえのか?」
「あ……ありがとう、ございます」

 こんなことをして、褒められたところで喜べたものではない。けれど、せっかく上機嫌な阿賀松をわざわざ怒らせるような真似もしたくない。
 精一杯、笑ってみるが見事顔面の筋肉が引き攣る。

「……」

 ああ、やばい。怒られるだろうか。阿賀松の顔から笑顔が消えるのを見て、冷や汗が滲み出す。
 撫で回していた手が、俺の頬に触れ、体が跳ねる。

「あ、あの」
「……」
「阿賀松、先輩……っ」

 無言の圧力に耐えきれず、後退りすれば背中に壁が当たる。追い込まれた、と青褪めた時。ぎゅっと、頬を抓られる。

「っ、ひ、ゃひ」

 頬の肉が千切れる、と言うほどの痛みではなかったが突然頬を摘まれ心臓が止まりそうになる。
 何事かと、咄嗟に阿賀松を見上げた時。
 その手もすぐに離れた。

「ちょっとは隠せよ」

 そして、そうつまらなさそうに吐き捨てた阿賀松は俺の前から退き、そのまま部屋のソファーにどかりと腰を下ろす。
 どうやら俺のノリの悪さに興味が失せたらしい。
 必要以上に構われるよりかは遥かに気楽だが、それでも、なんだろうか。最後の阿賀松の言葉がやけに耳に残ったのだ。

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