01
壱畝が同じクラスになった。
その事実に思っていたよりも冷静な自分がいた。
同じ校舎内、同じ学園の敷地内にいるという時点で俺には然程変わりない。
それよりも、俺は、阿佐美のことを考えていた。
阿佐美も気付いているのだろう。
何度かこちらを振り返る阿佐美は目が合えば、『後でね』と小さく微笑んでくれた。それだけが、俺にとっての救いだ。
ほっとする反面、頷き返そうとした矢先に隣の志摩に机を蹴られた。びっくりして顔を上げれば、「ごめん、ぶつかっちゃった」と志摩は口にする。
そういう志摩の目が怖くて、俺は何も言わずに視線を逸らした。
そして、授業の終了を告げるチャイムが校内に響き渡る。
各々動き出すクラスメート達に混ざって、慌てて席を立った俺は阿佐美の元へ向かった。
「……詩織、あの……」
恐る恐る声を掛ければ、立ち上がった阿佐美は俺に口を寄せる。
そして、周りには聞こえないくらいの声量でそっと呟いた。
「先に職員室に行ってて」
そう、一言。
え、と思ったが、「そっちの方が怪しまれないと思う」と付け足す阿佐美に納得する。
先程から志摩の視線が痛いのだ。
「壱畝君、次移動教室だけど場所は分かる?」
「うーん、一応案内はしてもらったんだけど、まだ把握しきれてなくてさぁ」
「なら、僕達と一緒に行こうよ」
「まじ?それ助かる」
壱畝はというと、持ち前の愛想の良さで早速クラスメートたちを取り込んでいる。その御陰で俺達にまで気が回っていないようだが、地獄耳なやつのことだ。
今の内に行動を起こす他無い。
「分かった。……それじゃあ……」
「ごめんね、力になれなくて」
阿佐美は口にする。
カモフラージュだろう。
俺は首を横に振り、誰かに何を言われる前に教室を後にした。向かう先は職員室。
ようやく壱畝と離れられるんだ。
壱畝と同じ空間から抜け出した今、ようやくまともに息が吸えているようだった。
◆ ◆ ◆
学園内、職員室前。
次の授業の準備のため、忙しなく歩いていく教師達を目で追いながら俺は阿佐美がやってくるのを待った。
阿佐美が一言言ってくれたら、あいつから解放される。根本的には何も解決していないが、それでも、一先ずは安眠は約束されるだろう。
胸がドキドキと高鳴る。
早く、早く来ないだろうか。
行き交う生徒や教師の中に阿佐美の姿を探す。
けれども、いつまで経っても阿佐美はやってこなかった。
そして、とうとう次の授業の開始を告げるチャイムが廊下いっぱいに響いた。
人のいなくなった職員室前通路。
ただ一人、俺はそこに突っ立っていた。
「……」
何かあったのだろうか。
もしかして、志摩に誤魔化していたことがバレて阿佐美に絡んでいるのだろうか。
不安になったが、今教室に戻って入れ違いになったらと思うとその場から動けなくなる。
しかし、授業が始まってしまった今職員室の教師達の怪訝な目が痛い。
俺は、逃げるように職員室から死角になる場所へと移動した。
阿佐美が来たらすぐに対応出来るようにしなければと構えていたが、とうとう、最後まで阿佐美がやってくることはなかった。
その代わり。
「何してんだよ、ユウキ君。ボケーっと突っ立ってさぁ……誰か待ってんのか?」
含み笑いを浮かべた阿賀松に、俺は息を呑んだ。
その言葉がただの当てずっぽうに聞こえなかったからだ。
「……詩織ちゃんなら、来ねえよ」
「……え……っ?」
「だから、俺が代わりに来てやったってワケ」
意味が、わからなかった。
阿佐美が来ないのではないのかということは、予定していた休み時間の内に姿を現さなかった時点で薄々感じていた。
けれど、なんでそれで阿賀松が来るのか。それが俺には理解できなくて。
「……代わりって……もしかして……」
嫌な予感が過る。まさか、阿賀松が俺を引き取るなんて言い出すんじゃないだろうな。
俺のことを疎ましがってる阿賀松がそんなことを言い出すわけがないと思うが、それでも、阿賀松はいつだって俺の予想を裏切る。
「ったく、本当なんで俺が伝言なんてやらなきゃなんねーんだよなぁ。同じ方向に用があるっつったってもさぁ、あいつ、俺をなんだと思ってんだよ」
面白くなさそうに唇を尖らせる阿賀松。
……どうやら、阿佐美に頼まれたのは伝達だけのようだ。
内心ホッとしたが、だとしたらなんで阿賀松に伝達を頼んだのかが気になってくる。
「あ……あの、詩織は……どうして先輩に……」
「あ?」
「い、いえ、なんでもないです!……スミマセン……」
「……お前、詩織ちゃんに何頼んでたわけ?」
ギクリ、と体が強張る。
隠し通せないと分かっていたが、それでも、言い淀んだ。
相手は阿賀松だ。どこまで口にすれば良いのかわからない。
「別に……そんな、大したことは……」
「はぁ?何ィ?俺に隠し事するつもりかよ」
「そういうわけじゃ……」
「なら、言えるよなぁ。それともなんだ?……やましいことでもあんのかよ」
先ほどまでまだ機嫌がいいと思っていたが、中々答えようとしない俺に苛ついたようだ。向けられる鋭い視線に全身が竦んだ。
……下手に誤魔化したら、本当に何されるか分からない。
観念した俺は、阿佐美にお願いしたことをそのまま阿賀松に打ち明けることにした。
「……あの、実は、また詩織に相部屋になれないか相談していて……本当は今朝の内に一緒に申請出そうと思ってたんです」
「なんで?」
「なんでって……」
「なんでまた詩織ちゃんと相部屋になりてえの?」
阿賀松の疑問は最もだ。
言葉を端折ったせいもあるだろうが、阿賀松からしてみれば俺が阿佐美に固執してるように思われてるのかもしれない。
俺は、壱畝のことを話そうか迷った。
けれど、相手は阿賀松だ。弱味を握られると厄介なのも事実で。
「……自分勝手だと分かってますが、俺は、やっぱり詩織じゃないと……」
「お前、今度来た転校生と相部屋になったはずだよなぁ。確か、壱畝遥香っつったなぁ」
「……っ!」
「中学校が同じところだったが、もしかして知り合いなのか?」
文字通り、言葉を失った。
そこまで調べられてるとは思わなかったからだ。どうして知ってるのか、と口に仕掛けたが、阿賀松のことだ。壱畝の名簿を盗み見たのだろう。
何も言えなくなる俺に、阿賀松はこちらを覗き込んでくる。そして、笑う。
「お前……詩織ちゃんがいいとか嘘だろ」
「っ、そんなことは……」
「どうせ姑息なお前の考えることだ、ただ昔の知り合いから逃げたいがために詩織ちゃんを利用したいんだろ?あいつなら、強引に言い包められそうだなってさぁ」
そんなことない、違う、俺はちゃんと阿佐美に、阿佐美とがいいから。
そう断言したいのに、見下げるその目に見据えられただけで言葉が詰まった。
「っ、ご……ごめん……なさい……」
心の底では、優しい阿佐美なら俺のお願いを断らないでくれるだろうと期待していたのも事実だ。
言葉は悪いが、阿賀松の言ってることは図星だった。
自分で認めてしまうと、次に込み上げてくるのは阿佐美に対する後ろめたさだった。
顔を上げられなくなる俺に、頭上で阿賀松が小さく笑う気配がした。……ような気がした。
「くく……ッユウキ君は本当、嘘が下手だよなぁ?」
「……っ」
「詩織ちゃんは騙せても、俺には無理だから。……いや、あいつのことなら、多分気付いてんだろうけど」
笑う阿賀松。
怒っていないのだろうか、と恐る恐る阿賀松を見上げた時、「そーだ」と阿賀松は声を上げた。
その声量に驚いて、咄嗟に後退った時、阿賀松に腕を掴まれた。
「いい事思い付いた」
「い……いい事……?」
「そうと決まれば……おい、行くぞ」
全くついて行けてない俺を無視して、阿賀松はさっさと歩き出す。半ば強引に引き摺られる俺は益々意味が分からなくて、転ばないように慌てて足を進める。
「あの、いい事って……」
「それはついてからのお楽しみに決まってんだろうが。……ほら、何チンタラ歩いてんだよ!」
「す、すみません!」
阿賀松に振り回されるのはいつものことだけど、今度は余計嫌な予感がした。だって、あの阿賀松が楽しそうに笑っているのだ。
俺の記憶が確かだったら、阿賀松が笑ってるときは大抵ろくなことを企んでいないと相場決まってる。
そして、阿賀松に引っ張られるがままやってきたのは学生寮だった。
阿賀松の部屋の扉が目に付いた時点で「あ」と思ったが、まだ別の可能性があるかもしれないと必死に考えるも束の間、自室の扉を開いた阿賀松は俺の背中を突き飛ばす。
力づくで入室させられた俺は床の上で転びそうになり、なんとか受け身を取る。そして、唖然とする俺に向かって阿賀松は一言言い放った。
「お前、今日から俺の部屋で寝ろよ」
俺は、これ程までに気まぐれという性格を畏怖したことはないだろう。
「寝るって……」
「そのままだよ、ユウキ君。部屋、代わりてーんだろ?」
どこまでが本気なのか分からない阿賀松なだけに、俺は何も応えることが出来なかった。もし本気だとしても、俺にとってその申し出は良いものではないのは間違いない。
寝る間も阿賀松と一緒だなんて、考えただけで血の気が引いた。
それでも壱畝に比べたら、とも思ったが俺からしてみればただ殴る蹴るの壱畝よりもそれに加えて人をオナホかなんかと思っている阿賀松の方が質が悪い。
「好きにしろよ。有りがてーだろ?」
「……っでも……」
「俺がいいっつってんだよ。喜べよ」
喜べるわけがない。
これからのことを考えただけで生きた心地がしない。
押し黙る俺に、視線を合わせるように阿賀松は座り込んだ。
「喜べよ、ユウキ君。嬉しいですって笑えよ」
伸びてきた手に胸倉を掴まれ、そのまま無理矢理引き寄せられた。
俺に与えられた選択肢は、ひとつしかなかった。退路も、見当たらない。
強張る顔面の筋肉を無理矢理動かし、俺は、笑みの形を作った。
「う……嬉しい……です……」
良いのか悪いのか分からないが、本能的に、阿賀松に逆らうことが出来ないのだ。
冷たいその目に見据えられただけで頭が真っ白になって、俺は、促されるがままその言葉を口にした。
満足したのか、目を細めた阿賀松はそのまま俺の口元に唇を寄せ、舌を這わせる。
阿佐美がどうして阿賀松に伝達を任せたのか、間に合わなかったのか、分からない。
けれど、俺が阿賀松の意見を飲んでしまった時点で何もかもが手遅れになってしまったのだけは分かった。
「っ、先輩……」
ボタンを緩めたシャツの襟元から入ってくる阿賀松の手に、慌てて身を引いた俺は背後、覆い被さってくる阿賀松を見上げた。
このまま付き合わされたら何時間経つか分かったものじゃない。
だから、なるべく阿賀松の気を損ねないように恐る恐る言葉を探る。
「あの、先輩……俺、荷物を取りに一度部屋に戻りたいんですけど……」
「……荷物?なんで?」
「なんでって、その服とか、教科書とかもまだそのままなんで……」
「面倒臭え。新しいの用意すればいいだろ」
取り付く島もなかった。
確かに、その手もあったかと納得してしまいそうになるがそれにしてもだ。
「やっぱり、俺、一回戻って……」
「戻って鉢合わせになったらどうすんだよ。変に後残した方が面倒だろ」
「それじゃあ……」
「あークソ、うるせぇな。俺が気にするなって言ってんだから気にするなよ」
「それともなんだ、俺のことが信用できねえわけ」出来るわけがないだろう。なんて、口が裂けても言えるわけない。
慌てて首を横に振れば「なら良いだろ」と、阿賀松は苛ついたように俺の項に唇を寄せ、噛み付いてくる。
「っ、せん、ぱい……」
戯れてるだけだと分かっていても、皮膚に食い込む尖った歯の感触を意識しないわけにはいかない。
阿賀松が動く度にやつの前髪が当たり、酷くこそばゆかったがそれもすぐに胸元を弄る指によってどうでもよくなる。
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