08.5
風が冷たい。湿気た空気。
雨が降りそうだと思った。
無人の部屋から足を返し、中庭までやってくれば目的の人を見つけることが出来た。
ベンチに腰を掛け、木々に囲まれて本を読む姿は以前と変わらない、ずっと見てきた姿で。
「……知憲君」
恐る恐る、声を掛ければ、文書をなぞっていたその眼がこちらを向いた。
「お前は……ええと、確か……平佑か」
名前を呼ばれただけなのに、胸が苦しくなる。
もう二度と呼ばれないだろう。思っていただけに余計そう感じるのかもしれない。
「……メモを見なくても、俺のことを覚えててくれたんですね」
「俺の事を馬鹿にするな。覚えてるぞ、ちゃんと。……お前は甘いものが好きだったろ?」
「そうですね……好きですよ、すごく」
甘いものが好きなのは貴方で、俺はただそれに付き合っていただけだ。俺は、甘いものなんてヘドが出るほど嫌いだ。
けれど、彼がそういうのなら俺は甘いものも好きになれるかもしれない。そう思えた。
「本を読むなら部屋で読んだ方が集中できるんじゃありませんか」
「いや、なんとなくな。外の空気は、嫌いじゃない。それに、外に出て日光浴をしろと煩いんだ」
「……」
「それに、ここはなんだか落ち着くしな」
知憲君は微笑む。
記憶力が低下して、知憲君は物忘れが酷くなる代わりに穏やかになった。
ここ最近、その症状は悪化してる。メモを取っても、メモを取った事自体忘れることもあればメモを見てもそれがなんなのか理解すること出来なくなってきた。
俺のことだって、あと二日も顔を出さなければとうとう思い出せなくなるだろう。
医者は言った。
それでも、俺は、今この時だけでも知憲君が穏やかな気持ちでいることができるのならそれでも構わない。
そう、思っていたのに。
「そろそろ部屋に戻りましょうか。……俺、ご一緒しますから」
用意してきた上着をその肩に掛けたとき、知憲君はこちらを見上げ、笑った。
「ああ、悪いな。……ありがとう、平佑」
ああ、と思った。
ずっと、知憲君に心の底から笑って欲しかったはずなのに。知憲君が俺に笑い掛けてくれるはずがない。そう思っていたからこそその笑顔が余計辛くて、気が付けば、俺は。
「……平佑、お前、なんで泣いてるんだ?」
「ごめんなさい……俺……っ、すみません、会長……」
俺のせいだ。全部。俺が、あの時、もっと早く知憲君の異変に気付いていたらよかったのに。俺のせいで、知憲君は知憲君じゃいられなくなった。
生徒会長として皆に愛されて卒業するという夢を叶えることも出来なくなった。
俺のせいだ。そう思うと申し訳が立たなくて、どれほど謝っても頭を下げても、知憲君はただそれを受け入れてくれる。余計、自分が惨めで堪らなかった。
「……よく分からんが、そんな顔では戻りにくいだろう。もう少し、散歩に付き合ってくれ」
「……ッ」
そう言って、知憲君は俺の手を取った。
優しくされればされる程、首を締められているようで、呼吸すら儘ならなかった。
なのに、掴まれた手は確かに暖かくて。
これが俺の罪だというのなら、俺はそれを重んじなければならない。
許されることがないだろう。
それでも、貴方が目を覚ますまで、俺は。
END
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