05※
まるで自分宛の電話に出るかのようなごく自然な動作で電話に応対する縁に、俺は言葉を失う。
「ん〜?何何?どうして俺が出てるとかそういうの、聞いてくれないんだ?ま、賢い君なら分かるだろうけど。……ああ、そうだな、こぉんな可愛い子をこぉーんな暗がりで一人にしてもし暴漢に襲われたりでもしたらどうすんだよ。お前もさ、少しくらい考えれば分かるだろ。」
「……でもま、安心しろよ。齋藤君は俺と一緒だから」笑う縁。止めなきゃ、早く、携帯を取り返さなければ。
そう思うのに、動こうとする俺に気付いた縁に腕を踏み付けられる。
「ッ、ぅ、ぐ」
「そんなに心配なら聞かせてやるよ、齋藤君の元気な声」
骨が軋み、地面の上、跳ね上がる俺の上に跨る。
その口元に、嫌な笑みが浮かんだのを見て汗が滲んだ。
まさか、と目を見張ったとき。縁の手にした携帯が顔の横に宛てがわれる。
「っ、や、め」
声を抑えなければ、灘に、余計な心配をさせないように。そう思うのに、縁の靴底が視界についた瞬間、先程の激痛が蘇り、堪らず声を漏らした。
条件反射で目を閉じる。しかし、いつまで経っても痛みはやってこない。
フェイントか、と目を開いた次の瞬間、思いっきり腹部の膨らみ目掛けて膝を落とされる。
あ、と思った次の瞬間。
限界まで張り詰めていた自分の中の何かが決壊する。
そして、勢い良く噴出する大量の水とその音に自分の叫び声も掻き消された。
ビチャビチャと音を立て自分の周囲に出来る水溜りの上、手足が落ちる。力が入らない。自分の中に残った水がまだ股を濡れしては滴り落ちる。気持ち悪さも不快さも分からなくなる程、その衝撃は強烈で。
「あはは!すっごいねえ、齋藤君!ここ最近で一番大きな声だったんじゃない?……ど?聞こえた?齋藤君の元気な声」
自分の体が自分のではないみたいだった。神経が麻痺しているせいか痛みはない。けれど、体へのダメージは確かに大きくて。
別の生き物みたいに、水溜りの上で痙攣を起こす体。そんな俺の上、縁はひょいと持ち上げた携帯を再び耳に充てがう。
「もしもーし……って、あれ、切れてるし」
そんな声すら遠く聞こえて。
まさか、灘。こっちに来るんじゃないだろうな。
嫌な予感が走る。
誰かに助けて欲しいという気持ちは合ったが、それ以上にこれ以上縁のせいで誰かが怪我するのを見たくなかった。
「……可哀想な齋藤君。だから友達は選ばないとって言ってんのにさぁ」
「……」
ふやけた皮膚。濡れた服が肌に張り付くのが気持ち悪いとかそんなことを考える程頭も働いていなかった。
朧気な頭の中、縁はこちらを覗き込む。
「……齋藤君?」
「……」
「起きなよ。何寝てんの?」
ほら、と頬を張られ、鋭い痛みによって飛び起きる。
どうやら殴られた後を叩かれたようで、針を刺すようなその痛みに麻痺し掛けていた神経に痛覚が蘇ったようだ。
「……ッ!」
「ああ、良かった。齋藤君、今焦点合ってなかったからビックリしちゃったよ」
そう、差して驚いた様子もなく変わらない態度で口にする縁。
感覚が戻ったのはいいものの、今度は焼けるような痛みが全身に広がり、それどころではない。
けれど、先程よりは、指の先に力が入る。荒治療だが、助かったのも事実だ。
「くたばっちゃったら、『これ』どうしようかと思ったんだ。……まだ感覚残ってるんなら、安心したよ」
『これ』と、縁は自分の股間に触れる。見て分かるほど勃起したそこに、暗に縁が何を言おうとしてるのかすぐに分かった。
「……っ、やめ……ろ……」
「ふうん、まだ元気そうだね」
濡れた下腹部、先程までホースを挿入され、ふやけたそこに縁の指が宛てがわれる。
ぐっと押し広げられれば、脳天に痛みが走る。まるで、皮膚が裂けるような、そんな乾いた痛みだった。
奥歯を噛み締め、俺は、力を振り絞って縁の手を掴んだ。掴む、というよりもそれは触れたに近いかもしれない。ろくに力が入らないのだ。
「ッ……俺に、触ったら貴方の負けだ……」
縁に触れることが出来たら俺の勝ち。
だから、縁は俺に触らせないために手袋をしてる。
それなのに、挿入するということは。
勝機が見えたような気がして、痛む喉を酷使して投げ掛ければ縁はクスクスと笑った。
「ああ……そうか。君は今が何時か分かんないのか」
「……ぇ……?」
「齋藤君、君、随分と長い間気絶してたんだよ」
「ほら」と、縁は袖を捲りあげ、そこに嵌められた腕時計を俺に見せた。
その盤上、現在時刻を刺す二本の針の位置を見て、目を疑った。
しかし、何度見てもそれは変わらなかった。長針が指し示す数字は、丁度『12』に重なっていて。
「ッ……」
声も出なかった。今までの間、確かに記憶が抜けていたこともあった。だけど、そんな、まさか。
だって、それなら俺は……負けた?
血の気が引く。全身の痛みよりも、心臓を握り潰すようなショックに目の前が眩む。
「っぷ……あはは!その顔……本当君のリアクションは面白いなぁ」
無邪気に笑う縁。
その声すら遠く聞こえた。
「これで、君は俺のもの。ならさ、もう何も気にする必要なんて無いんじゃない?」
確かに、気にすることは何もない。志摩は無事だ。
ならば、あとは目の前のこの男だけだ。そうすれば、俺達は。
そう考えれば大分気持ちに余裕が出来たが、それでも、それは俺が無事にこいつから逃げられた場合だ。
根本的な問題は、解決していない。
「ッ、や、め……ろッ」
膝裏を掴まれ、大きく広げられた下腹部。
覆い被さってくるような形で、自分の下腹部に手を伸ばした縁はそのままベルトを緩め、下着の中から膨張した性器を取り出した。
薄暗い中、濡れた亀頭が目につき、その生々しさに顔面が引き攣った。
「やめ……」
「……っやだなぁ、これ以上生殺しだなんて酷くない?」
暴かれた下腹部に宛てがわれる先端。
ぬるりとした先走りの感触が触れ、身の毛がよだつ。
逃げないと、と思うが覆い被さってくる縁に体を抑え付けられれば身を捩ることが精一杯で。
腕を掴み上げられ、片手で腰を持ち上げられれば関節が痛む。呻く俺に、唇を舐めた縁は微かに息を吐き、そして躊躇いもなく体重を掛けてきた。瞬間、目の前が白く点滅する。
声を上げることも出来なかった。力任せに奥深く挿入される性器に先程までの責め苦で既に傷だらけになっていたそこは悲鳴を上げ、神経が引き千切られるような激痛に息すら儘為らない。
「……ッ、が、は……ッ!」
「っあぁ、どうしよう、入っちゃった。君の中……っ」
言いながら、俺の腰を抱き寄せた縁はそのままぐっと下腹部を密着させてき。
それだけでも、潤滑油のない今臓器が潰れるような圧迫感と痛みを伴うというのに、熱く、膨張した縁のそれは硬直する内壁を割って一気に奥まで貫く。瞬間、自分のものとは思えない声が喉奥から漏れる。
「っ、あぁ……想像してたよりも狭くて……熱いなぁ……ちぎれちゃいそうだよ……っ」
「抜っ、ぃ、ひッ、う、ぅう……ッ!」
「……っ、どうしたの?そんな顔して、泣いちゃってさぁ、悲しいなぁ。どうせなら君もよくなって欲しいのに……っ」
「ぁ゛ッ、あ、嫌だ、動くなッ!」
自分が何を言ってるのかも、縁が何を言ってるのかも分からなかった。ただ、叩き付けられ、揺さぶられる度に下半身に波打つような衝撃が走り、何も考えられなくなる。
恋人でも相手にするかのように優しく抱き締められたかと思えば、息を吐く暇もないピストンに頭の中までもぐちゃぐちゃに犯されてるみたいな錯覚を覚えた。
「っ、ん……っ、は、堪んないなぁ……やっぱり俺達体の相性最高だよ……ねぇ、齋藤君……っ」
「っ、嫌だ、助けッ……助けて……っ」
誰に?なんて、思いつかない。それでも、助けを請わずにはいられなかった。このままでは本当にどうにかなってしまう。
気持ちよさも苦痛も、全部、分からなくなって、俺は。
「……し、ま……っ」
ここにはいない。助けてほしいとは思わない。それでも、名前を呼ばずにはいられなかった。志摩のことを考えるだけで、少しだけ、気が落ち着くようなそんな気がしたから。
けれど。
「……」
縁の笑みが消える。
それでも、俺は、その名前を口にすることを止めなかった。止められなかった。
夢現の中、志摩の存在を確かめるため、俺は何度も口にする。それが縁の気に障ったようだ。
「志摩、しま……っ、し……」
志摩、と口を開いた時。
伸びてきた手が首を押さえつける。抱き締めた時の優しい手付きではない、喉仏を潰す勢いで掌全体で首を締めるくる縁に、息が、詰まる。
それだけではない。
「ん゛ん゛ッ、ぅ、ぐ、ぅうッ!」
呻く俺を黙らせるよう唇を重ねる縁に目を見開く。
息苦しさと下半身への激しいピストンに酸素が奪われ、次第に目の前が霞んでいく。
開いた唇に割って入ってくる舌を噛み切りそうになるが、それ程の力、俺には残っていなかった。
「ぅ、んん゛ッ!」
下半身が別の生き物みたいに跳ね上がる。
縁の性器がそこに触れた瞬間のことだった。
呆気なく自分の性器から放出される精液は腹部にぼたぼたと落ちる。縁はそれを一瞥しただけで、腰の動きを止めることもなくそれどころかそこばかりを抉るように腰を動かしてきた。
「っ、ふ、ぐッ、ぅ゛うッ!」
圧迫される器官。緩まるどころか強まるその圧力に全身の筋肉が強張り、それは下半身も例外ではなかった。
吐息混じり、うっとりと目を細めた縁は夢中になって腰を振る。その度に首を締める指先に力が加えられ、咥内に滲み出す唾液を絡め取られ、口の中でぐちゃぐちゃと音を立て舌同士を擦り合わせられる。
セックスと呼ぶにはあまりにも独善的で。
「っん゛、んん、んん……ッ!」
摩擦される舌が、食い込む指が、根本までグリグリと挿入してくる腰が。
辺りに充満する血の匂いに、殴られた顔面に熱が集まる。傷口が開いたのだろうか、至るところがじんじんと痺れ、疼く。
思考がふわふわする。何も考えられなくて、ただ、縁の先走りと血でねちゃねちゃと嫌な音を立てる下半身が特に熱いのだけは分かった。
「……っ、は、……ふ……っ」
ちゅぽ、と濡れた音とともに舌が引き抜かれる。
同時に、新鮮な空気が口いっぱいに広がり、それを吸おうと呼吸を繰り返すが器官を潰されている御陰でろくに空気は入ってこなくて。獣か何かのように浅く呼吸を繰り返す俺に、縁は顔を寄せる。
「……齋藤君、口、開けて」
嫌だ。というのが本音だった。
それに逆らうように唇をぎゅっと結べば、喉仏を押し潰される。
コリ、とした感触に背筋が震える。
その目は据わっていて、本気で潰され兼ねない。そう悟った俺は恐る恐る口を開く。
「っ、ん、ん゛ん゛……ッ!」
瞬間、口の中に挿し込まれた舌を伝い唾液が流し込まれる。口いっぱいに広がる縁の味に、慌てて吐き出そうとすれば、濡れた俺の唇を舐め、縁は笑う。
「飲めよ、全部」
「ちゃんと喉の奥まで流し込むんだよ」と、首を締めていた指先は俺の顎先を撫でた。
なんで、こんなやつの言いなりにならなきゃいけないんだ。思ったが、覗き込んでくるその目に見られると本能的に逆らえなくて、俺は、ゆっくりと口の中の唾液を飲み込んだ。
ゴクリと上下する喉仏を見詰めていた縁。
俺が口を開けば、空になったそこを確認し、笑う。
逃げる暇も無く、体全体を押し潰されるようなセックスにそろそろ全身の感覚も麻痺してくる。
痛いのか苦しいのかさえも分からず、ただ、口、体いっぱいに広がる縁の感触だけが鮮明で。
「ぁ、う゛、ひ……ッ」
「っ、あー……締まる締まる……っ、やばいなぁ、俺、イッちゃいそうだよ」
「……っねぇ、中に出していい……?」頬を軽く叩かれ、俺は、目の前の縁を睨み付ける。
熱で蕩けたような目。
囁かれる言葉にぞっとし、俺は、押し潰される器官から息を吐き出すように唸る。
「ゃ、め……ろ……ッ」
口を動かし、辛うじて発する言葉は確かに縁に届いたであろうはずなのに。
俺の腰を掴んだ縁は、俺の言葉を無視して腰を打ち付ける。瞬間、力任せに奥を突き上げられ、目の前が白ばんだ。
「えっと、何?聞こえないんだけど?沢山出してって言ったの?」
「ッ、ち、が」
「そんな可愛いこと言われちゃ断われないよなぁ……ッ」
やめろ、と開いた口から声すら出なかった。逃げようと捩った体を抱き締められ、密着した下腹部、最奥にまで届いた膨張した性器が確かに痙攣する。
「……っ、零さず、飲み干せよ……っ」
視界いっぱいに映るのは翳った縁の顔。その口元には歪な笑みが浮かんでいた。
次の瞬間、体内いっぱいに広がる熱。
「あ゛、ぁ、ア」
熱い。というよりも、中に出されているのが縁のものだと思っただけで身が凍るようで。早く掻き出したくて、それでも逃れられないようにがっちり掴んでくる手の中、ひたすらその感触を堪えることしか出来ない俺に縁は息を吐く。
何かがおかしい。そう思ったのは、出したあとも動こうとしない縁に嫌な予感を感じたからだ。それはすぐに的中する。
「う、そ……ぇ……待……ッ」
射精が終わり、腰を高く持ち上げられ、ようやく抜いてくれるのかと内心安堵した矢先だった。
縁の肩が震えたかと思ったその次の瞬間、精液が溜まった腹の奥にまた熱が注がれる。
精液特有のどろりとした感触とは違うそれは今までに感じたことがないもので、それもすぐに、それがなんなのか気づいた俺は青褪めた。
「何、し」
「言っただろ、零さずに飲めって」
頬を紅潮させた縁は蕩けたように笑う。
いっぱいいっぱいになった体内からは受け止めきれなかった混ざり物が溢れ出し、それにも関わらず縁は引き抜こうとしない。腹の中響く嫌な水音に、意志とは裏腹に熱で満たされていく腹部。それがなんの熱なのか、考えたくもなかった。
「抜い、て……ッ抜けって……!!」
「ッ……齋藤君……俺の全部を受け止めてよ」
「ぁ、あ、やめ、抜……ぁ、あぁ……――ッ!!」
藻掻く俺の体を抑え付け、人の体の中に放尿しきった縁は満足そうに笑い、萎え切った性器を引き抜いた。
栓をなくした肛門からは中に溜まっていた尿と精液がどろりと溢れ出した。
何をされても、まだ大丈夫だと思っていた。
辛うじて保っていた人としてのラインを躊躇なく踏み躙られたようなそんな喪失感に、全身から力が抜けた。
今更だと縁は笑うけど、それでも、俺はとうとう自分が人ではなくなったような気がして、水浸しになった泥の上、動けなくなる俺を見下ろした縁は「なんで泣いてんの?」と笑った。
「はぁ……やっぱ、結構、やばいな……」
どれくらい時間が経ったのかすら分からない。
何度目かの射精かも分からないくらいぐずぐずになった腹の中の違和感の塊にも慣れ始めた頃、縁のシャツの腹部が赤く滲み始めていることに気付く。
身嗜みを整えながら、
「どっちが先に死ぬか競争でもする?」
笑えない冗談を口にする縁に何を言い返す気力もなかった。
そんな俺に怒るわけでもなく縁はただいつもと変わらない調子で口にした。
「……まあ、時間はまだ沢山あるんだからね」
「あるわけねぇだろ」
縁がベルトを締め直した時だった。
その背後で影が動いたと思った次の瞬間、月明かりに照らされた何かが鋭く光る。
尖ったそれがナイフだと気付いた時、縁の首を掻き切ろうとした寸でのところで縁がナイフを握る手を掴んだ。
「へぇ、これは驚いたな。……どうやって抜け出した?」
一瞬幻覚かと思った。
だけど、「亮太」と、小さく背後に立つそいつの名前を口にする縁にこれは俺だけの幻覚ではないことが分かる。
鬼のような形相で刃渡りのあるナイフを手にした志摩に、俺は再会したことの喜びよりも不安が込み上げてきて。
「……ッ方人さん……」
「なんだその玩具は。まさか、それでチャンバラごっこでもするつもりか?無理無理、お前が俺に勝てると思ってんの?」
「あの弱虫亮太君が」そう、志摩の腕を捻り上げる縁。
その煽りに、志摩の目が見開かれる。それは見たことのない、怒り一色の表情だった。
そこにいつもの余裕も笑みもない。
「うるせぇんだよ、このド変態が……ッ!お前を殺す!何がゲームだよ、ふざけんじゃねえ……ッ!ルールがちげぇだろ!」
「し、ま……」
張り上げる声が辺りに響く。泥濘んだ泥の上、辛うじて起き上がるが、まるで俺の姿なんて目に入っていないかのように志摩は縁に食って掛かる。
そのことにショックを抱くよりも、志摩の『ルール』という単語が引っ掛かった。
「口悪いよ?君。齋藤君が怖がってるじゃん、ほら、その刃物も俺に貸しなよ。亮太が持ってたら危なっかしくてありゃしねえ」
「齋藤には手を出すなって言っただろ!」
「んー、何言ってるのかよく分かんないんだけど……最初から、俺が齋藤君に手を出しちゃいけないなんて言うルールないからね。というか、そもそも齋藤君を試してもいいって言ったのはお前だろ?亮太」
「……え……?」
耳を疑った。
志摩が?俺を?……試す?……なんで?
あんなに縁から逃げたがっていた志摩が縁と一緒くたになって俺を試すということ自体が考えられなくて、もしかしてこれも俺の混乱させるための縁方人の策略だろうかと思ったがそれもすぐに打ち砕かれる。
「俺は、齋藤を殺していいって言った覚えはない」
縁の言葉を否定しない志摩にショックを受ける暇もなかった。
志摩の腕をあらぬ方向へと捻る縁に、ほんの一瞬、志摩の手が緩む。そしてその隙に、縁は志摩のナイフを取り上げる。
「ああ、そりゃ、悪かったね。でもまぁ……」
「どうせお前は死ぬんだからいいだろ」ナイフを握り直す縁に、さっと血の気が引いた。
助けないと、危ない、志摩が。
そう思うのに、思うように体が動かない自分がただ腹立たしかった。
「わざわざ用意してくれて悪いなぁ。そろそろ手が痛くなってきてたところだったんだよ。本当、出来の良い後輩持って俺は幸せ者だな」
「っ、やめろ!」
志摩の顔面に向かってその切っ先が向けられた時、がむしゃらに手を伸ばし縁の足にしがみつく。
寸でのところで狙いは外れたが、苛ついたように舌打ちをした縁に睨み付けられる。
「邪魔すんじゃねえ!」
思いっきり腹部を蹴り上げられ、糸が切れたみたいに体が地面に落ちる。ふわふわして、痛みなのかすら分からなくて、それでもただ遠くで志摩が俺の名前を呼んでるのは確かに聞こえた。
「……ックソ野郎……!」
「おいおい今更真人間ぶんなよ。せっかくなんだし、お前も楽しめよ。昔みたいに仲良く遊ぼうぜ」
「その代わり、今度のネタはお前だけどな」志摩がこちらに気を取られたほんの一瞬、志摩の胸倉を掴んだ縁はそのまま脇腹に膝を打ち込む。
「ッ、ぐ、ぅ……!」
瞬間、何かが折れるような嫌な音が聞こえた気がした。
悲痛な声とともに前のめりになる志摩に目の前が真っ暗になる。
「相変わらず左がガラ空きなのは変わんねえのな」
「志摩……志摩……ッ!やめろ、やめろっ!志摩に、手を出すな……ッ!」
「約束だろ?齋藤君。俺達のこれからにこいつは必要ない」
やめろ、やめろ、やめてくれ、頼むから。
噎せる志摩の口から赤い液体が溢れるのを見て、背筋が寒くなった。これ程までに歯がゆい思いをしたことがあっただろうか。助けたいのに、身代わりになりたいのに、縁はこちらを見ようともせずに志摩の前髪を掴み、無理矢理起き上がらせた。
「ずっとその生意気な面ぐちゃぐちゃにして見たかったんだよなぁ、俺。君のお陰だよ、齋藤君。君のお陰でこんな場を設けることが出来たんだから」
「ッ、殺せるもんなら殺してみろよ、その前にアンタのことぶっ殺してやる……ッ」
「相変わらず、口だけは達者だなぁ。兄貴譲りか?」
弱音を吐かない志摩に、俺は、心強さ以上に不安感しかなかった。どこまでも好戦的な志摩の性格は時折俺を勇気付けてくれていたのも事実だ。だけど、そのせいで志摩が痛め付けられるのならば弱くたっていい、みっともなく命乞いしてくれた方がましだ。そう思う俺の目の前、ふらりと志摩が姿勢を直したかと思えば思いっきり縁の顔面に頭突きを食らわせた。
「が、は……ッ」
骨同士が擦れるような鈍い音ともに、縁が後退る。そして、その拍子にその手からナイフが落ちるのを俺は確かに見た。
「ッ、クソガキ……ッ!」
泥濘んだ泥の上。
鼻を押えた縁は志摩の後頭部を抑え付け、思いっきりその顔面に膝を叩き込む。
「涙ぐましいよなぁ、好きな子のためにこんなに必死になっちゃってさぁ!青春ごっこか?楽しそうじゃねえ……のッ!」
それからはあまりにも一方的な暴行だった。
抵抗出来るはずなのに、本気で抵抗もせずまともに縁の攻撃を食らう志摩は見ていられなかったが、すぐにその意図に気付く。
文字通り顔を血で濡らした志摩は口元を拭い、皮肉げに笑った。
「ッ、あんたには無理だよ……ッあんたみたいなのを好きになってくれるやつなんかいるわけねーだろ……ッ」
「ッ……黙れよ……」
それは、笑顔というにはあまりにも痛々しく引き攣った歪な笑みだった。そして、ほんの一瞬、志摩と目が合う。
志摩は、縁の気を引いてくれてるのだろう。わざと自分に矛先が向くように仕向けて。
痺れる手足を無理矢理動かし、俺は泥の上を這いずるように落ちたナイフに手を伸ばした。
そして、縁の後方、落ちていたそれを握ったときだった。
「動くなよ、齋藤君」
「……ッ」
「一歩でも動いたら亮太の骨を砕くよ」
それは、いつもと変わらない柔らかくて、そして冷たい声だった。
志摩の腕を掴んだ縁は、こちらを尻目に口にする。そこに、笑みはない。
本気だ。
「っ、齋藤……ッ」
腕を捻り上げられた志摩だが、その目に怯えた色はない。
それどころか、力強い光さえ感じるその目に、俺は小さく頷き返した。
痛いのも苦しいのもどうだっていい、体がぶっ壊れようが今動かなければきっと後悔する。それだけは確かに分かっていたから、俺は。
「動くなって言ってるだろッ!」
立ち上がり、ナイフを構えたその瞬間、志摩を突き飛ばした縁がこちらを向いた。瞬間、伸びてきた手に手首を掴まれる。骨が折れそうな程強い力だった。
殺される、とナイフを握り直す。そして、縁の背後。
「よくやったね、齋藤……っ!」
どこで拾ってきたのか手頃な大きさの石を手にした志摩は、躊躇いもなく縁の後頭部を殴り付けた。
鈍い音とともに、目を見開く縁の額から一筋の血が流れる。
「っ、ぐ、ぅ……ッ」
膝を着き、頭部を押える縁は俺の制服の裾を掴む。
お前だけでも道連れにする、そう言うかのような目だった。
そして、俺は、伸びてきた手の甲に思いっきりナイフの先端を突き立てた。
「齋藤、君……ッ」
「……っ、言いましたよね……俺は、貴方を殺すって……」
赤く、腫れた縁の顔はどんな表情をしてるのかすら分からない。
それでも、確かに、やつは笑った。そんな気がした。
「あぁ、なるほどね……君は、そっちを選ぶんだ……」
濃厚な血の匂いの中、喉を鳴らす縁はどこまでも楽しそうで。
覚束無い指先で、縁が自分の手の甲に貫通したそれを引き抜こうとしたときだった。
「齋藤っ!」
志摩に、名前を呼ばれる。
一瞬、視界が暗くなった。それが影が掛かったせいだと気付き、顔を上げた俺は目を見開いた。
そして、
「っ、ぐ、ァ」
突然現れたそいつは、縁の手の甲に突き刺さったナイフを引き抜いた。
「……ッ、お前……」
驚いたのは、俺や志摩だけではなかった。
手を押さえ、顔を上げた縁は目を見開く。
「随分と楽しそうなことしてんなぁ、ユウキ君。俺も混ぜてくれよ」
夜の闇に溶けるような漆黒の髪。
赤く染まったナイフを指先でくるくると回すそいつは、相変わらず品のない笑みを浮かべていた。
「阿賀松、先輩……」
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