side:栫井
「……何故ここにいるんだと聞いている……ッ」
苛ついたような会長の声に反射で背筋を伸ばしてしまった時、伸びてきた手に胸倉を掴まれる。逃げる暇すらなかった。
「……ッ!」
力づくで引き摺られ、曲がり角を曲がったその先、見覚えのある扉が視界に付いた。
会長の、部屋だ。
そう思った次の瞬間には開いた扉の奥へと突き飛ばされる。
咄嗟に体勢を取り直したが、当たり前のように閉められる扉の鍵に血の気が引いた。
「そんなに、俺のことを邪魔したいのか」
目の前に立ちはだかる会長。
完全に締め切られ、防音壁で周囲から遮断された室内に会長の声が冷たく響く。
向けられた見下ろす目が怖くて、顔を上げることが出来なかった。
それでも、無視することは出来なかった。
見なかったこと、聞かなかったことにして逃げ出すにはあまりにも会長は大きくて、濃くて。
「……違います。会長の邪魔をするつもりなんてありません」
「だったら何故ここにいる。部外者の分際でコソコソ嗅ぎ回ってどういうつもりだ?」
「っ……忘れ物を……」
「何だと?」
「忘れ物をしたので、取りに来ただけです」
言い訳がましいと分かっていても、こう言うしかなかった。
裏切り者の自分が今更後ろめたさを感じたところでどうしようもない。分かっていたが、それでも、会長を前にすると罪悪感で押し潰されそうになる。こうして会長の前にいるというだけで、心臓が握り潰されるように痛い。
「忘れ物?お前がか?」
聞こえてきたのは乾いた笑い声だった。
瞬間、伸びてきた手に前髪を掴まれ、力尽くで上を向かされる。
「お前が忘れ物だって?わざわざ取りに戻るほど大切なもの、お前にあるのか。……平佑」
突き刺さる視線に、声が出なかった。
ごめんなさいも、許してくれも、何を言い返すことも許されない。その資格すらないのだから。
虚脱感。
この人には何をどう取り繕っても意味がない。
それは俺の中を大きく占めてるものがこの人だからだろう。何をしても、何を言っても、常に会長の手に心臓を握られているようだった。
駄目だ、ここにいては。早く、あいつに、齋藤に志摩亮太のこと伝えないといけないのに。
そう、思うのに動けない。
髪の先一本まで針で刺されたみたいに、呼吸すら儘ならない。
「お前はいつもそうだな。黙っていれば許してもらえると、分かってもらえると思ってその努力すらしない」
違う。そんなつもりはない。
俺はただ、会長に、言い返す言葉がないだけで。
「まただんまりか。何か言ったらどうだ、貴様の口は飾り物か?勝手に退学扱いされて、嫌事の一つや二つくらいあるだろうが」
頬を掴まれ、後頭部が壁に当たる。
後頭部の痛みよりも、会長の言葉が突き刺さる痛みの方が大きくて。
言いたいことは、ない。会長に恨み辛みもない。全部俺の招いたことだ。それを会長のせいにするつもりなんて毛頭ない、のに、会長はそう思わないという。
信じてもらえるとは思っていない。
信じてもらえなくても別に構わないと思う。そう会長が思うなら、俺はその意に添うように努力するだけだ。
「……ッ!」
瞬間、乾いた音とともに頬に焼けるような痛みが走る。
殴られた、と思うよりも先に、俺は会長を見上げていた。
会長は、顔を殴ることはなかった。毎日合わせることになるから、周りから詮索されたら面倒だから、理由は色々あるだろうが会長が俺の顔を殴るようなことはしなかった。何があってもだ。
だからこそ、俺は、言葉を失った。
痛みよりも、その行動が意味するそれに。
「……っ……ぁ……」
周りの目を気にする必要がない。
俺にはもう、それほどの立場がないから。
足元が崩れ落ちるような錯覚に、力が抜けそうになる。
「俺の目を見ろ。今、お前の前に立ってるのは誰だ」
頭皮ごと引き千切られる程の強い力に引っ張られ、真正面から覗き込まれる。
地を這うような低い声に、何も考えられなくなる。
「……会、長……っ」
「齋藤君を俺の元に連れて来い」
一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
もしかして、一緒に行動していたことがバレたのかと思ったが、違った。
「まだ、どこかにいるはずだ。この学園のどこかに。彼を探し出して連れてこい。なんとしてでもだ」
ああ、と思った。
分かっていたはずなのに。会長は最初から俺を物としか見てないって。わかっていたはずだ。俺がそれを望んで、それでもまた一緒にいたいと願ったのだから。
けれど。
脳裏に、齋藤の顔が浮かぶ。
齋藤は、会長に切られたと言った。俺とも、同じだと。けれど、全然違う。
あいつは、俺がずっと見てきたかった会長の笑顔を独り占めしてきた。
あいつは、こんなにも会長に思われてる。それが、純粋な好意ではなくても、俺に向けられたそれよりも比べ物にならなくて。
分かっていたはずなのに。
それでも、会長が喜んでくれるなら俺は喜んでその願いを叶えたいと思うのに。
思っていたはずなのに。
「お前みたいな愚図で役立たずの木偶の坊、俺以外相手にするやつなんていないだろう」
「……」
「俺の言う事を聞け、平佑」
あいつは、会長を見ないだろう。
志摩亮太のために走り回って、必死こいてるあいつの眼中に俺すら映っていない。
そんなあいつを会長に引き渡したところで、あいつも、会長も、誰も、何も得しない。
それは、俺自身もだ。
「お前にしか出来ないことだ。平佑」
期待させるような甘い言葉に、殴られた頬の熱が一層増す。
俺を動かすためだと分かっていても、揺らいでしまう自分がいた。
それでも、俺は、この人との距離に気付いてしまったから。
離れて、齋藤や志摩亮太みたいな馬鹿と知り合ってしまったせいで、会長のいない景色に慣れ始めてしまっていたせいで、俺達の間に出来ている溝がちょっとやそっと埋めただけでは修復不可能だということを知ってしまった。
俺がこの人のために動いても、この人は何も変わらない。変えることすら出来ない。なにも戻らない。
幸せになんて、出来るわけがなかった。
どうやったら、会長にとって一番いいのか。俺はそれに気付いてしまった。
「……ごめんなさい、俺には、無理です」
言葉を吐き出す度に喉がチリチリと焼けるようだった。
目の前の会長の顔が引き攣る。
それでも、俺は言葉を吐くことを止めなかった。
「貴方の周りには、俺よりも使える人間が他にもいます。……その人たちに頼んだらどうですか」
頬を殴られる。先程よりも強い力で。
頬骨が鈍く痛み、口の中にじわりと鉄の味が広がる。
それでも、俺は会長に目を向けた。
「逆らうつもりか」
「……会長に俺はもう必要ありません」
「それは俺が決める」
「決めたんですよ、貴方が。俺を不要だと」
「だから、俺の席がなくなったんじゃないですか。貴方が用意してくれた、最後の居場所が」あの次点で、既に決まっていた。俺が会長に取って、知憲君に取って必要のないものだと。
それでも、未練がましく知憲君の言葉を待っていたのは俺の方だ。「やっぱり傍にいてほしい」と、それだけでよかった。利用されてもいい、少しでも知憲君が幸せになれるならなんでもしてもいいと思っていた。
けれど、それは全部幻想だ。実際望んでいた言葉を吐かれたところで、気付いてしまった今虚しさしかない。
「何を言い出すかと思えばグズグズと……付け上がるなよ、平佑」
襟首を掴まれ、壁に叩きつけられる。背骨が痛い。肩甲骨も、ぶつけてしまったらしい。
不思議と、後悔も恐怖もなかった。
これが知憲君のためだと思ったら、何も怖くなかった。
けれど。
「俺は最初からお前に居場所を与えたつもりはない」
その言葉に俺は、ああ、と思った。
今まで見てみぬふりをしていたものを突き付けられたような、そんな感覚だった。
喪失感。ぽっかりと空いた風穴を塞ぐものすら見当たらない。
「しかし」
手が伸びる。喉を覆うように、その掌に首を掴まれた。
両手で器官を押し潰すように押さえられる。
「貴様に逃げ道を与えたつもりもない」
「働け、平佑。俺のために。それがお前の存在意義だろう」息苦しさに慣れていたつもりだったが、圧迫される喉に頭に血が上るのが分かった。
知憲君に殺される。それでも、良いかもしれない。
今までだったら、俺はそう思っただろう。けれど、俺を殺したところで知憲君の経歴に泥を塗るだけだ。
そうしたら、知憲君が求めていたものは遠くなる。
そんなことになるくらいなら。
「っ、……違う」
知憲君の手首を掴む。あの頃よりも大きくなった手。それでも、細い。
思いっきり掴み、引き剥がせば知憲君は目を見開いた。
「違う、俺は……もうあんたの言う事を聞けない」
笑ってほしかった。
昔みたいに接して欲しかった。
だから知憲君のお願いを聞いてきた。
その度に知憲君は笑ったが、それは俺が見たかった心の底からの笑顔ではなかった。
「つ……ッ!」
殴られる。拍子に壁に頭を打ってしまい、視界がぐらりと揺らいだ。それでも、近くにあった棚のお陰で体勢は保てることが出来た。
「口答えとはいい度胸だな」
「……」
「死ぬ覚悟は出来てるんだろうな」
「……」
ずっと、いつ死んでもいいと思ってた。俺のせいで、二人が死んだ日から。自分にそれ程の価値が見出だせなかった。
あのとき、俺が死んでいたら知憲君は幸せだった。こんなことにはならなかった。
ずっと汚れないままで、笑って暮らしていたはずだったのに。
「貴様は部外者で、退学になった腹いせに俺に襲い掛かる。つまりこれは、立派な正当防衛だろ?」
俺のために自分から汚れようとする知憲君に、言葉も出なかった。
歯痒かった。俺は、確かに知憲君が喜ぶためならなんでもした。けれど。これは。違うだろう。知憲君が求めていたものじゃないだろう。
「……ッあんたは……本当に、ダメな人だ……」
「口を慎め平佑!」
殴られるのも何発目かわからなくなって、それでも、伸びてきた知憲君の腕を掴めば知憲君は不愉快そうに顔を歪めた。
これは知憲君を容認してきた俺のせいだ。
だからこれは因果応報なのだろう。
棚の上、置かれていた花瓶を掴む。
そして、その陶器の底を思いっきり壁に叩き付けた瞬間、中の花と水、花瓶の破片が辺りに四散した。
「き、さま……」
「フリなんてする必要ありませんよ。……これで、立派な正当防衛になるんすからあんたはもう嘘を吐く必要もない」
割れ、尖った先端を知憲君の目先に突き付ける。
ちょっと、脅かすつもりだった。本気で歯向かおうなんて思ってもいないし、俺が知憲君に勝てるわけがない。
それでも、どうでもいい。勝ちたいんじゃない。
ただ、俺は、知憲君に。
「……俺を捨てて下さい。嫌いだって、死ねって言って下さい……っ」
「あんたに期待して振り回されるのは、もう懲り懲りなんだよ」お互いに、疲れるだけだ。
生産性もなく、報われないこの関係をどうか、知憲君の手で終わらせて欲しかった。
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