天国か地獄


 side:栫井

 マスターキーを手に入れることは簡単だった。
 部屋に忘れ物をしたから取りに来たと寮長に声を掛ければ、少し躊躇いがちに寮長はマスターキーを取り出した。
『俺も一緒に部屋まで行くから』と予想通りの言葉を口にする寮長をふん縛って口塞いで部屋に転がして鍵を奪うまで数十秒。
 寮長室を出た俺は念のためその部屋の扉に鍵を掛けた。
 人目が多いこの時間帯、なるべく誰にも会いたくなかった俺は非常階段を使って目的地である四階へ向かった。

 思ったよりも、事はすんなり済んだ。
 問題は、これからだろう。
 縁方人の部屋の前、俺はマスターキーを使ってその扉を開いた。

 薄暗い室内。まず、目に入ったのは壁に取り付けられた液晶画面に映し出された映像だった。

 生々しい声、濡れた音。前後見覚えのある男に挟まれて喘ぐそれが齋藤佑樹だと気付くのにそう時間は掛からなかった。
 それと、縁方人と……灘か?
 合成だろうかと思ったが、作り物にしては生生しすぎる。

「……齋、藤……」

 呆れていると、不意に、声が聞こえた。
 寝惚れたような、掠れた声。
 悪趣味な映像を流すディスプレイ前、椅子に括りつけられた人影を見つけた。

「……悪かったな、俺で」

 首までも黒い革のベルトで固定された志摩亮太は、眼球だけを動かして俺を見た。
 眠っていないのか、白目は赤く充血している。
 俺の姿を見るなり幽霊か何かを見たかのように、奴は目を見開いた。

「……なん、で……」
「あいつに頼まれたんだよ、お前を助けてくれって」
「……齋藤が……?」

 正直、目も当てられなかった。
 口を開けば嫌味ばかりをネチネチ口にしていたやつがこんな風になっていると、調子が狂う。

「……っ、なんだよ、この椅子……。趣味わりいな……」

 適当な棚の引き出しを開き、何かないかと探る。
 そしてようやく見つけたナイフを手にし、俺は椅子の拘束具を切っていく。

「怪我したくねぇなら動くなよ」

 なんでこんなことしなければならないのか今でも正直納得していなかったが、仕方ない。
 俺は両手首を押さえ付ける拘束具の金具に刃を突き立て、鍵を壊す。
 形ばかりに拘っているお陰で拘束具の性能はそこまで高くなかったのが幸いか、簡単に志摩亮太の拘束を外すことは出来た。
 けれど。

「……おい……?」

 ぼんやりと拘束が取れた手首を眺めていた志摩亮太だったが、いきなり立ち上がる。
 首を触り、手を何度か握りしめ、そして、こちらを向いた。

「なんで、齋藤が、お前なんかに……」

 向けられたその目に、防衛本能が働く。
 伸びてきた手。
 咄嗟に、「触んな」と突き飛ばせば、あいつは簡単に体勢を崩した。
 当たり前だ。長い間拘束されていたのだろう。赤く締め付けられた跡が残った手足を見てると奴がろくに動けないのは確実だ。
 それにも関わらず、尻餅をついた志摩亮太は何が面白いのか笑い声を漏らす。

「ふ、はは、あはっ、やだなぁ……もう、なんだよこれ、なんだよ」
「……」
「……齋藤、どうして俺に会いに来てくれないの……?」

 笑った、と思えば今度はぐずり始める。
 子供みたいだと思った。それも、厄介な。

「だから、今、あいつはお前のために……」

 面倒だが、こいつを捕獲するまでがあいつとの約束だった。
 とにかく、早く場所を変えなければ。そう思って適当に機嫌を取ってやろうとすれば、顔を抑えていたやつの目がぎょろりとこちらを向いた。

「……俺のため?俺のためって何?」

 伸びてきた手に、服を引っ張られる。
 その手を振り払おうと爪を立てるが、離れない。
 それどころか。

「ねえ……何、俺のためって……俺のためにこんなやつを寄越すの?俺だから?俺に、会いたくないの?齋藤……ッ?」

 こんな部屋に閉じ込められていたせいで頭がおかしくなっているのか、元々トチ狂ったやつだとは思っていたがここまで噛み合わないとは思ってもなかった。
 そんなの本人に聞け、と言う言葉を飲み込み、代わりに俺は奴を思いっきりぶん殴る。

「いい加減にしろ、この……馬鹿が……ッ」

 殴られた反動でへにゃりと座り込む志摩亮太。
 拍子に、手を離れたナイフが足元に落ちた。
 しまった、と思った時には遅かった。
 それを手にした志摩亮太は、ゆっくりと、溢れ出す鼻血を拭い、立ち上がる。

「……齋藤の匂いがする」

 そう、ぽつりと。
「は?」と口にしたのと同時に、伸びてきたやつの手に胸倉を掴まれた。
 乱れた前髪から覗く、冷めた目に嫌なものが込み上げてくる。

「なんでお前から齋藤の匂いがすんの?」

「なぁ」と、奴が口にした瞬間。
 顔のすぐ横を何かが通る。
 壁に突き立てられた鋭い銀色に、見開いた自分の顔が映り込んでいた。


 ◇ ◇ ◇

 走る。これでもかってくらい、全力で。

「……っ、……」

 あいつは拘束されていて正解だ。お陰で突き飛ばすことが出来たか、掴まれた腕が軋むように痛む。
 なんであんなやつを助けようとしているのか、俺には齋藤の思考が理解出来ない。したくもない。
 けれど、少なからず今のあの状態の志摩亮太には近付かない方が吉だろう。

『だから、その……志摩を、よろしくね……!』

 頭に響く、あいつの声。
 その声に、俺は無理だと口の中で呟き返した。

 目的は果たした。縁方人の部屋から出ることが出来た今、簡単に縁方人に捕まることはないはずだが。

 足を止め、適当な物陰に隠れる。
 後を追い掛けてきたのだろう、向こう側の通路、足を引き摺るように歩く志摩亮太が見えた。
 そして、俺はやつが通り過ぎていくのをじっと待った。

 ぼんやりとした横顔、今なら背後から襲えば大人しく捕まるんじゃないかと思ったが、ポケットに手を突っ込んだまま歩くやつに違和感を覚えた。
 まさか、あいつ、ナイフをそのまま持ってきてんじゃないだろうな。

 気のせいだとは思いたいが、ぶつぶつと何かを口にしながら歩くやつのポケットが微妙に膨らんでるのを見て、嫌な予感がした。

 下手に動いて刺されたりでもしたら堪ったものではない。
 それにあの目には見覚えがあった。
 どうなっても構わないという、ヤケを起こしたときの目だ。

「……チッ……」

 無視することもできる。が、このままでは確実に面倒なことになる。
 学園がどうなったって俺にはもう関係のないことだが、それでも、あの人が創り上げてきたこの学園の秩序を乱すことだけは許せなかった。

 俺は携帯端末を取り出し、灘に電話を掛ける。
 1コールもしない内に、灘は電話に出た。

『はい』
「志摩亮太を連れ出した」
『了解です』
「齋藤に代わってくれ」

 もしもそっちに向かったら厄介だ。
 錯乱状態の志摩亮太のことを伝えようと思ったが、灘から返ってきた言葉は俺の予想してなかったものだった。

『齋藤君は今、校門前にいる縁方人の元へ向かってます』
「一人でか?」
『ええ。俺は監視室から縁方人の動向を齋藤君に伝えるということになってますので』

 あいつ一人で大丈夫かと不安になったが、それよりもこっちも問題だ。
 学生寮にはいないということは間違いないが、志摩が外へ出てしまったときのことを考えれば大丈夫とはいい難い。

『どうかしましたか。息が乱れてるようですが』

 なるべく平静を装っていたつもりだったが、灘には隠せないようだ。

「志摩亮太……あいつ、齋藤齋藤言って手ェつけらんねーんだよ。……どうにかして欲しいんだけど」
『残念ながら俺も齋藤君も手がいっぱいです。頑張って下さい』
「……おい」

 どうせそんなことだろうと思ったが、確かに一人で大丈夫と言ったのは俺だ。それにこいつに頭を下げて頼み込むってのも癪に障る。

『まだ学生寮ですか』
「ああ、四階だけど」
『……栫井君、今すぐその場を移動してください』
「あ?」

 カタカタカタ、と受話器の向こうからキーボードを叩く軽快な音が聞こえてきた。
 そして、微かに灘の声音が変わる。

『後方に……』

 灘が、何かを言い掛けたのと背後で床を蹴るような靴の音が聞こえたのはほぼ同時だった。

「――……平佑?」

 あ、と思った時には手から携帯が滑り落ちていて。
 カツンと音を立て、通路を滑る携帯端末を目で追う。
 見慣れた、革靴。
 その靴底が、落ちた携帯端末を踏み付ける。

「……何故、貴様がここに居る」

 聞くだけで、全身が金縛りにあったみたいに動けなくなった。
 レンズ越し、その目を向けられると呼吸の方法が分からなくなる。
 会いたくなかった。
 会いたくなかった。こんなところで、こんな姿、この人にだけは見られたくなかった。

「……か……い、ちょ……う……」

 久し振りに顔を見られたことに対する安堵よりも、出来ることなら会いたくなかったと思っている自分自身への恥と自己嫌悪で俺はろくにあの人の顔を見ることが出来なかった。

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