02
縁方人、縁方人、縁方人、縁方人。
頭の中で青い髪がちらついては消え、それ以外なにも考えることが出来なかった。
「……どこにいるんだ……どこに……」
一分一秒が惜しかった。
こうしてる間にも志摩に何かがあればと思うと気が気でなくて、ふらつく足元。俺は鉛のように重い体を動かし、校舎を後にする。
そういえば、以前志摩の携帯に電話を掛けた時、縁が出た。
もしかしたら出るかもしれない。
そう思って慌てて携帯を取り出す。電源が15%を切った表示が目についたが、それよりも俺は縁に電話を掛けることを優先させる。
電話帳から志摩の名前を選び、迷わず発信ボタンを押す。
しかし、いくら待っても受話器の向こうから聞こえてくるコール音は変わらなかった。
そんなに上手くはいかないということか。
脱力しそうになるのをぐっと堪え、それならばと俺は真っ暗な校庭へと足を進ませた。
ここへ来るだけでも大分時間が掛かってしまったような気がする。
けれど、仁科の言葉を信じるならば縁は外にいるはずだ。
こんな広い敷地を闇雲に探すとなるとどれだけの時間が掛かるか分からない。
けれど。
あの、何かに怯えるような志摩の顔が離れなかった。
そうだ、俺は諦めるわけにはいかない。
とにかく、縁の行動を考えて、探す場所を絞ろう。
そう、必死に考えてみるがが何も思い浮かばない。
思い返してみれば、俺は縁のことを何一つ知らない。
阿賀松の隣にいることが多い、何考えているか分からない人。男が好きで、それを隠そうともしない人。思ってもいないことも平気で口にする人。
……俺は、縁の行きそうな場所も好きなものも何も分からない。
そうしていたのか、ただ単に俺が知ろうとしていなかっただけなのか、分からない。
けれど、今となっては俺の知ってる縁そのものが縁自身かどうかも分からなくなっていて、結局、手掛かりは何一つもない。
広い校庭を突っ切って歩く。吹く風は生暖かくて、曇っているせいか星も月も見えない夜空は酷く暗く見えた。
……雨が降りそうだ。
湿った空気の中、不意に、自分以外の足音が聞こえた。
それは微かな砂利を踏むような音で、咄嗟に、俺は音のした方を振り返った。
「っ、……」
瞬間、構えた腕を掴まれる。
力強い指、それよりも、俺は包帯でぐるぐる巻きになっているその手に驚いた。そして、息を飲む。
「……齋藤君」
なんで、なんで、灘が。
一瞬俺が幻覚を見ているのだろうかと思った。
狭い視界の中、そこに立っている人は確かに灘だった。
「っ、な、だ……君……?」
「おい、勝手に……っ」
どうしてこんなところに灘が、と思った矢先。
聞こえてきた声にハッとする。
苛ついたようなその声には聞き覚えがあった。
まさか、と思い、声のする方を振り返れば、そこには栫井がいた。
「かこ、い……」
「お前、その顔……」
驚いた、というよりも呆れたように目を丸くする栫井に、自分の顔がどうなっているのかを思い出す。
腫れて熱を持ち始めてる顔中に血液が集まるのが分かった。
他の生徒に見られても、どうも思わなかった。けれど、栫井や灘に見られたと思うと……情けなくて、恥ずかしかった。
「……齋藤君、誰にされたんですか」
「……、これは、その」
「縁方人ですか」
「……っ」
頷くことも、首を横に振ることも出来なかった。
俯いたまま何も言えなくなる俺から何かを汲み取ったのか、灘は何も言わずに踵を返す。
そして、歩き出す灘を栫井は肩を掴んで引き止めた。
「おい、待てよ。どこに行くんだよ」
「縁方人を見つけ出します」
「いい加減にしろ、段取りが違うだろ」
「この場合は臨機応変に対応すべきかと」
「……あんたの場合は私怨に走ってるだけじゃねぇのか」
冷たい栫井の言葉に、灘は「私怨ですか」と小さく呟いた。そして、栫井の手を振り払う。
「確かにそうかもしれませんね」
二人の間に、言葉にし難い空気が流れる。
元々仲が良さそうな二人ではないと思っていたが、自分のせいで険悪なムードにさせてしまったと思うと申し訳なかった。
「あの、俺は……大丈夫だから」
二人のことは気になったが、このまま一緒にいてはまた空気を悪くしてしまうかもしれない。
そう思い、慌ててその場を立ち去ろうとすれば栫井に腕を掴まれ、ぐっと引き寄せられる。
「か……栫井」
「大丈夫なら、俺の腕振り払っていけよ。……大丈夫なんだろ」
「……っ」
冷ややかな声。けれど、それはただの意地悪ではないだろう。
試すような言葉に、俺は身を捩って栫井の腕を振り払おうとするが、皮膚に食い込む指先はちょっとやそっとじゃ離れない。
悪戦苦闘する俺に、栫井は溜息を吐いた。
「こんなんで大丈夫とか強がんなよ。……本当、ムカつく奴」
遠慮ない言葉だが、いつもよりかその言葉が柔らかく聞こえたのは栫井が俺のことを心配してくれている、そう自惚れた思考を働かせてしまったからか。
狼狽えていると、肩を掴んだ栫井はそのまま俺に肩を貸し、ゆっくりと歩き出す。
「か、栫井……っ」
「うるせぇ、なんだよ」
「あの、離し……」
「嫌だ」
即答だった。
あまりにも有無を言わせぬ栫井の言葉に絶句する俺に、栫井は吐き捨てる。
「放っとけっつってもしつこく付き纏ってきたのはどいつだよ。今更離してやるかよ」
「……ッ」
「暴れんなよ、お前重いんだから」
なら、降ろしてくれればいいのにと思ったが文句言いながらも降ろしてくれない栫井の優しさが胸に染みる。
「お前も来い、灘」
「言われなくてもそのつもりです」
「……チッ、余計な一言が多いんだよお前は」
……二人は相変わらずだが。
俺は栫井に手伝ってもらい、近くの部室棟へ向かうことになった。
◆ ◆ ◆
「……で、言いたいことは」
部室棟前。
棟自体既に施錠がされていたため、入口横のベンチに腰を下ろす俺達。
正直こうしてる今でもどこかで縁に見られてるような気がしてならないが、それでも、栫井の言葉に現実に引き戻される。
「……あの、灘君の怪我はもう大丈夫なの?」
「無問題です」
「……そうじゃねえだろ」
他に言うことあるだろ、と言うかのように睨んでくる栫井に俺は口籠る。
これは、俺の問題だ。下手に二人を巻き込んでしまったらと思うと何を言えばいいのか分からなくなるのだ。
「齋藤君」
そんな中、灘に名前を呼ばれる。
相変わらず何を考えているのか読めないが、それでも向けられた視線に威圧を覚えずにはいられなかった。
「縁さんは一緒ではないんですか」
そう、一言。この二人相手に誤魔化すことが出来るとは思っていない。
けれど、やはり、向けられる視線は痛かった。
「……一緒じゃないよ。俺も、探してるんだ」
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「……」
「……齋藤君」
灘の視線に、息が苦しくなる。
言えたら、どれ程楽になれるだろうか。一言、『助けてほしい』と吐き出せばいい。
分かっていたが、そのせいで二人の身に何かがあればと思ったら恐ろしくて言えなかった。
「ごめん、本当……二人を巻き込みたくないんだ……っ」
頭を下げる。
静ま返った部室棟の前、栫井の溜息が響く。
「ここまでしといて、今更綺麗事かよ。……本当腹立つ」
「……ごめ……」
「うるせぇ、喋んな」
うんざりしたような、低い声。
栫井が気分悪くするのも無理もない。
立ち上がる栫井を止めることも出来なかった。
ごめん栫井、ごめん。口の中で何度謝ったところで栫井には届かない。
けれど、今回ばかりは――。
「……灘」
「なんでしょうか」
「そいつ捕まえとけ」
え、と固まるのと「了解です」と灘が頷くのはほぼ同時だった。
隣から伸びてきた手に腕を掴まれ、抱き寄せられる。
そんな灘の動作にも驚いたが、折られていない方の手だとわかっていても痛々しい手の包帯を見ると振り払うことも出来なかった。
「っ、栫井、あの、灘君……っ」
「言いたくなきゃ言わなきゃいい。……こっちも好きにさせてもらうだけだ」
そう言うなり、栫井は歩き出した。
「栫井っ」
薄暗い闇の中に消えていく栫井の後ろ姿に、必死に呼び掛けるが栫井には届いていないようだ。
もしかしたら縁を探すつもりなのか、わからなかったが、それでも栫井が一人で行くことがただ不安だった。
どこで縁が見てるか分からない今、どこで会長と鉢合わせになるか分からない今、どうにかして止めないと。そう思うのに。
「灘君、離して……ッ止めないと……」
「貴方は何をそんなに焦ってるんですか」
「……それ、は……」
「一人よりも人数が多い方が見つけ出す可能性は高くなる。違いますか」
冷静な灘の言葉は、いつも以上に鋭利な刃となって突き刺さる。正論だった。けれど、ただの人探しとは訳が違うのだ。
「……違わない……けど、ダメなんだ、本当……これは俺の問題だから……栫井に何かがあったら……」
「本人が言ったでしょう。栫井君は自分でやってることです、貴方が気負う必要など一欠片もないはずですが」
灘の言いたいことは分かる。
それが一番お互いのためにいいと分かっていても、それでも何かがあってからでは遅いのだ。それを散々知らされてきた今、俺は灘の言葉に首を縦に振ることは出来なかった。
「……っ、それでも、駄目だ……」
息を吐き出すように言葉を口にする。
灘は何も言わない。呆れたのだろうか、馬鹿なやつだと。
何も言えなくなる俺に、不意に灘の掴む手が緩んだ。
「栫井君が会長以外のために動くことは滅多にありません」
そう、灘は口を開く。
静かな声が夜の空気に溶け込むようだった。
いきなり何を言い出すのだろうかと目を丸くすれば、不意に視線が絡む。
「そんな彼がこうして齋藤君のために動いてる姿が見れました。君には感謝してます」
「灘君……」
「なので、もし何があっても君と栫井君は俺が守ります」
それは、突拍子もない灘の宣言だった。
無表情のまま、恥ずかしげもなくそんな言葉を口にする灘に俺は今度こそ度肝を抜かれる。
驚きのあまり何も言えなくなる俺に、灘は不思議そうに首を傾げた。
「こう言えば、君は喜ぶと思ったのですが」
「……喜べないよ、そんなの」
自分を顧みない灘のことを考えれば、その言葉はただ恐怖でしかなかった。
あの灘に気を遣わせてると思ったら胸が痛いが、それでも、冗談でも笑えない。骨の折れる音がまだ耳の奥に反響しているようだった。
「それはすみませんでした。これでは本末転倒ですね」
そう、ハンカチを取り出した灘はそっと俺に差し出してくる。
少し驚いて、よっぽど俺が酷い顔をしていたのだろうと理解した。
「あの……泣いてないよ、俺」
「ええ、ですが今にも泣き出しそうだったので」
「……」
灘は、ずるい。その言葉に胸が抉られるみたいに苦しくなって、視界が歪む。張り詰めていた糸が切れてしまいそうな、そんな感覚に襲われた。
けれど、涙は出なかった。
自分がどこまでも不甲斐なくて、遣る瀬無くて、落ち着いていられる灘が羨ましかった。
「どうしたら、俺、灘君みたいに落ち着いた人になれるかな」
「俺みたい、ですか」
「俺は、誰一人守ることが出来ない」
約束したのに、下手したら危険な目に遭わせるかもしれないと分かっていたのに失敗して、これでは役立たずも良いところだ。
自分に縁に勝る力があれば、何があっても落ち着いていられる精神力があれば。……俺でなければ。
頭の中でずっと悔やんでいた、志摩が選んでくれたのが自分だったことを。
弱音を吐いても仕方ないと分かっていても、灘は黙って聞いてくれるからか、つい甘えてしまう。
それでもやっぱり灘は眉を寄せることもなく、ただ静かに俺の言葉を聞いて、そしてぽつりと呟いた。
「それは間違いです」
そう一言。
きっぱりと切り捨てるような口調で、灘は俺を真正面から見据える。
「俺は誰かを守ろうと思ったことはありません」
「っ、え……」
「自分がそう思うようになったのは君がいたからです」
ざくりと、音を立てて突き刺さった灘の言葉に心臓から熱いものが溢れ出すのが分かった。
俺の口を緩くさせるためなのか、純粋な言葉なのか、分からなかった。
それでも、一人でも自分の取った行動で影響を与えられたのだと思うと、何も考えることが出来なかった。
「なに、言って……そんなこと……」
なにを言えばいいのか分からなくて、灘の真っ直ぐな視線が辛くて俯けば「齋藤君」と名前を呼ばれる。
「先程の言葉を撤回します。栫井君が君のために動いていると言いましたが、それは自分も同じです」
「な、だ……君……」
「……すみません、こういう時どう言えばいいのか俺には分かりかねます」
「ですが、利用出来るものがあれば利用すべきだと思いますが」そう、相変わらずの調子で続ける灘はやっぱり灘だった。
無骨で無機質、それでも、真っ直ぐな灘の言葉一つ一つが暖かくて、鼻の奥がつんと痛む。
顔が熱いのは、怪我だけのせいではないはずだ。
涙を飲み込むように、俺は俯いた。
震える拳に、灘の手が触れる。ああ、もう、ダメなのに。ダメなのに、差し伸ばされる手がどうしても暖かくて、俺は――。
「……十二時までに縁先輩を見つけないと、志摩が……殺されるかもしれないんだ……」
……もう、後戻りは出来ない。
辺りに静寂が走り、灘の動きが止まる。
「志摩……志摩亮太ですか」と、尋ねられ、俺は頷き返す。
やっぱりと思ってるのだろうか、特に狼狽えるわけでも驚くこともなく、腕時計を確認した灘はすっと目を細めた。
そして、その目はこちらを向いた。
「その話、詳しく聞かせて下さい」
◆ ◆ ◆
灘に正直に打ち明けた。
話してる最中、どこかで縁が聞き耳を立ててるのではないかと気が気でなかったがそれでも、最後まで話し終えたあと酷く体の力が抜けるようだった。
くぐもって聞き取りにくいであろう俺の言葉も、一言も聞き逃さないように傍でじっと聞いてくれていた灘は俺が話し終えると同時に微かに息を吐いた。
「低俗で悪趣味でナンセンス。……縁方人が考えそうなことですね」
冷めた目。変わらない淡々とした声だが、その言葉に先程までの感情は篭っていなかった。突き放すような一言に、俺は何も言えなくなる。
灘には、俺が負けたときに縁に引き取られることまでは言えなかった。志摩が人質に取られていると言った時の灘の目を見てしまったからだ。これ以上、下手に刺激しない方がいいと思ったのだ。
流れる沈黙の中、俺は言葉を探す。俺は、正直虱潰しに探す以外の選択肢がない。だから、少しでも灘の知恵を借りれればと思ったのだ。
けれど。
「……ということですが、どうしますか、栫井君」
不意に、そう部室棟の影に向かって声を掛ける灘にぎょっとする。
え、と振り向けばそこには栫井が立っていて更に度肝をぬかれた。
「っ!か、栫井……」
「どうするも何も、お前は決まってんだろ」
「ええ。俺が聞いてるのは君がどうするのかということです」
「他人の心配より自分の体の心配しろ。……俺は勝手にするだけだ、お前に指図されるつもりはないからな」
当たり前のように現れ、何事もなかったかのように俺の隣に腰を下ろす栫井に俺は言葉を失った。
「か、栫井、いつから」
「最初から。……どうせ俺がいたら話さねえと思ったから二人きりにしてやって盗み聞きした」
悪びれた様子もなく、髪を弄りながらそんなことを口にする栫井に今度こそ言葉を失う。ハメられた。
灘を見るが、灘も灘で特に気にした様子もない。
騙されたが、それでも、嫌な気はなかった。寧ろ、そこまで俺のことを考えてくれていたのだと思うと、少し喜んでる自分がいることも確かだった。
「ともかく、時間がありません。無闇やたらと探すよりもある程度候補を絞り込む必要があります。監視カメラを確認出来れば早いですがそのためには職員室に戻らなければなりません」
「それはお前に任せる。連絡は取れるな?」
「はい」
「なら俺は志摩亮太を連れ出す」
何でもないように、そんなことを言い出す栫井に俺は耳を疑った。栫井が?志摩を?聞き間違いだろうか、と栫井を凝視していると、俺の視線に気付いた栫井は「なんだよ」と不愉快そうに眉根を寄せた。
「ムカつくけど、あいつには散々な目に遭わされた借りがあるからな。……やすやすと殺されて堪るかよ」
「っ、栫井……」
「……あんまないんだろ、時間」
「ええ、残り五時間十五分です」
「ま、五時間もありゃ余裕だな。おい、灘」
「齋藤を連れて行け」と、一言。
顎でしゃくる栫井に、灘は「了解です」と一言返す。
恐らく、俺が邪魔なのと怪我人である灘は何かがあったときのため一人にしない方がいいと考えた結果なのだろうが、そうなると必然的に栫井は単独になってしまう。
「あの、栫井は……」
「学生寮にいるのは間違いねえんだろ。足手まといがいたら余計面倒になりそうだからな、お前らは足手まとい同士仲良くしとけ」
そんな言い方、どうせそんなことだろうと思ったが敢えて突き放すような物言いをする栫井を知ってしまった今、放っておけないのも事実で。
それに、縁の部屋を一人で行くのは危険だ。
そう思うのに、灘は「齋藤君、そういうことなので仲良くしましょうか」と俺の肩に触れる。
灘はどうも思わないのだろうか、栫井の考えに。
「……ッでも、それじゃ栫井は一人に……」
「アンタらみたいなヘマはしねえよ」
「そうですね、栫井君は逃げ足とサボるための抜け穴を探すのは長けてますから安心です」
「お前には敵わねえよ」
言い切る灘とそれに対し皮肉じみた笑みを浮かべる栫井に
俺は言葉を失った。ああ、なるほど。と。
信頼関係。俺にはないそれがこの二人にあるのだ。心配するだけではなく、あいつなら大丈夫だと信じること。
それが、俺には出来なかった。
少しでも相手の負担を減らしたくて、必死に藻掻いた結果押し潰されて全てを台無しにしてしまった。
誰かを困らせたくなかった。誰かに少しでも楽になってもらいたかった。だけど、その人がためと思って取った行動は俺が信じることが出来なかったからだ。
あいつなら大丈夫だと。
「では、俺達も行きましょうか」
立ち上がる灘に促される。
釣られて立ち上がった俺は、立ち去ろうとしていた栫井の腕を掴んだ。
「栫井……っあの、何かあったらすぐに逃げていいから……!だから、その……志摩を、よろしくね……!」
大切なことは、相手を信じること。
誰かに心から重大なことを頼むことが来るとは思わなかった。
本来ならば俺が行くべきなのだろうとわかったが、縁を優先しなければならない状況だ。
俺は、栫井を信じる。
涼しい顔して酷いことをするし、言うけど、それでも誰かのために一生懸命になれる栫井を、俺は信じる。
きょとんとした栫井と目があって、ほんの一瞬流れる空気が止まったような気がした。
そして、栫井は俺の胸倉を掴み、ぐっと顔を寄せてくる。
怒られるのだろうかと身構えた瞬間、額にちゅっと柔らかいものが触れた。
「言われなくてもそのつもりだから」
そう、にっと笑った栫井はすぐに俺から手を離す。
呆然とする俺を無視し、俺を灘へと押し返した栫井はしっしと手を振った。
「……さっさと行け。もたもたして時間切れになっても俺のせいにすんなよ」
「はい。まあ、大半が貴方のせいになるでしょうが」
おまけに灘にもしっかり見られていたようだ。
恥ずかしげもなく見送ってくる栫井に酷く居た堪れなくなりつつも、俺は灘とともに校舎に向かって歩き出した。
広く、どこまでも深い夜の闇。
さっきまではあれ程怖かったそれが、今では少し明るく感じた。
←back