天国か地獄


 1

 痛む全身を酷使し、トイレから出れば学生寮は授業を終えた生徒たちで賑わっていて。
 そんな中、現れた俺を見た三年たちはぎょっとして、すぐに俺から目を逸らした。
 そして敢えて触れないよう、気付かないフリをして各々目的を持って動き始める。
 今の状況、無視されるのは有り難かった。けれど、悪目立ちしていることには間違いない。

 ふらつく足元。壁伝いに歩いていると、不意に後方から声を掛けられる。

「おい、お前……」

 肩を掴まれ、つい反射でその手を振り払おうとした時だった。そこにいた人影とぶつかりそうになり、寸でのところでなんとかぶつからずには済む。
 そして、そこには。

「……仁科……せん、ぱい」

 まさかこんなところで会うなんて。
 最悪だ、慌てて顔を逸し、仁科から逃げようと歩き出すが、肩を掴まれてしまう。

「どうしたんだよ、その面……ッ!おい、ちょっと止まれ!」
「……ッ」

 そして、回り込んだ仁科に顔を覗き込まれれば、カッと顔が熱くなった。
 こんな顔を見られたくなかったというのが本音だ。
 けれど、今の俺では仁科からすら逃げることも出来なくて。

「俺は、大丈夫です……」
「大丈夫じゃないだろ、こんなに腫れて……。ちょっと待ってろ、そこまで行けるか?」

 そこまで、というところで近くの自販機の傍にあったベンチを指差した。
 このまま見逃してくれるつもりはないようだ。
 時間のことが気になったが、こんな状態ではどうしようもない。俺は仁科の言葉に甘えることにする。

 ベンチに座れば、仁科は腕にぶら下げていたビニール袋から色々な医療品を取り出した。
 絆創膏に傷薬、湿布に包帯。まるで俺が怪我していることを知っていたかのような仁科の準備の良さを不審に思わないわけがない。

「っ、あの……これ……」

 流石の仁科でもいつも持ち歩いているわけでもないだろう。それについ今しがた買って揃えてきたかのような新品だ。
 恐る恐る尋ねれば、仁科は「ああ」と思い出したように口を開ける。

「縁さんから連絡来たんだよ。齋藤の怪我を見てやってくれって」

 良かったな、とでも言うかのように笑う仁科の言葉に一瞬、頭を殴られたようなショックが襲い掛かる。
 腸が煮え繰り返る。というのはこういうことを言うのだろう。
 あの男が、笑いながら人の顔面を殴打するあの男がわざわざご丁寧に手当の用意をさせているということがただ、癪だった。気遣い、というよりも挑発なのだろう。目の前にいる仁科のお陰で平静を保つことが出来たが、正直、屈辱だった。
 そして仁科からしてみれば、縁がただのいい先輩のように映っているのだと考えると、余計。

「詳しいことは聞かねぇけど、取り敢えず、今はじっとしてろ。……すぐ済ませるから」

 そういって、そっと俺の顔に触れた仁科は慣れた手付きで俺の顔面の傷を手当してくれた。
 さっきまで焼けるように熱かった顔も大分落ち着いてきたが、今度は喋る度に顔面の傷が痛んだ。
 まるで自分が怪我したかのような顔をして消毒する仁科が少しだけ可笑しくて、俺はろくに目を合わせることが出来なかった。
 仁科は、阿賀松辺りにやられたのだと思ってるのかもしれない。だから、何も言わないし聞かないのだろうう。

 目を閉じ、俺は仁科に任せることにした。
 縁が頼んだと思うと胸の辺りがムカムカしたが、それでも、大分楽になっていくのが体感で分かった。

「……本当はちゃんと冷やした方が痕にならないんだが」

 傷口にガーゼを被せ、テープで固定した後、最後に仁科は俺の掌の傷を手当してくれた。
 既に出血は収まっていたが、真っ赤になっていた俺の掌を見たときの仁科の顔は忘れられたいだろう。
 俺の顔に目を向けた仁科はそう申し訳なさそうに口にした。
 本当は傷を洗った方がいいとも言われたのだが、そんなことをしてる時間すら惜しかったのだ。

「いえ、これで充分です。……ありがとうございました」
「……齋藤」
「すみません、お手数お掛けしてしまって」
「いや、俺はいいんだが、お前……」

「あの、一つ聞いてもいいですか?」

 仁科の言葉を遮り、俺は尋ねる。
 仁科は何か言いたげだったけれど何も言わず、その代わりに「なんだ?」と俺に聞き返してくれた。

「縁先輩は、どちらから先輩に連絡寄越したかって分かりますか?」
「え?……いや、特に聞いてなかったなぁ……けれど、音声がちょっとガサついてたからもしかしたら外じゃないか?……わかんねーけど」
「……そうですか。ありがとうございます」

 外。馬鹿みたいに縦に積み上げられた建物たちを調べるよりも学園敷地内、外部の方が少ない。
 いい事を聞いた。
 ベンチから立ち上がったとき。

「……っ、齋藤……」

 仁科に呼び止められる。

「……なんですか?」
「いや、悪い……なんでもない。なんでもないんだが……」

 歯切れの悪い仁科の表情には不安の色がありありと現れていた。もしかしたら俺の身を案じてくれているのだろうか、と思うのは自惚れだろうか。
 気にはなったが、聞き返したところで答えてくれなさそうだ。

「……俺はこれで失礼します」

 そう、仁科に頭を下げ、もう一度「ありがとうございました」とだけ口にし、その場を後にした。
 縁の思い通りになるのは嫌だったが、仁科のお陰で大分熱が引いたのは有り難い。先程までの目眩もなく、今度は一人手に歩くことも出来た。相変わらず他人の視線は痛いが、今度は然程気にしなかった。
 ガーゼと包帯で遮られた視界。狭くなった視野は邪魔なものが見えなくて少し気が楽だった。


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