天国か地獄


 22

 自分でも、大きな声を出してしまったことに驚いているようで。
 小さく咳払いをした志摩は、手でバツを作った。

「お尻は、ダメ」
「なんでお前が止めるんだよ」
「それは……その、齋藤はお尻が弱いから」
「知ってる」
「え?なんで知ってるの?」

 さらりと答える栫井に、笑顔を凍り付かせた志摩がこちらを見てきたが俺は必死に目を逸らす。

「とにかく、ダメって言ってるだろ。お尻はダメ、絶対ダメだから」
「し、志摩……」

 お尻お尻連呼しないでもらいたいが、志摩なりに俺のことを気遣ってくれているのがわかってなんだか嬉しくなる。
 ……それ以上の恥ずかしさには変わりないが。

 志摩は、自分のしたことに責任を覚えているのだろう。阿賀松と対峙するより前には既に志摩に裂傷を負わされていた。それを知っていたからこそ、志摩は必死に止めてくれたのだろう。
 そう考えたら、やはり、俺ばかりが楽でいるのは忍びない。
 志摩が直接的な原因であろうとも、その結果を作ったのは俺だ。ならば、ここで痛みに怯えて燻っている暇ではないのではないのだろうか。

「栫井がしたいなら、俺は……いいよ」

 そう口にした時、志摩の表情が一変する。表情を険しくした志摩は俺を睨んだ。

「齋藤何言ってるんだよ、あんだけ怖がってたくせに」
「でも」
「それに、まだ傷口だってちゃんと塞いでないんだからこんなところで大量出血起こされても困るんだけど」

 志摩の言葉が正論なのも分かっていた。
 栫井に何かしたいという気持ちも確かにあったが、二人に迷惑を掛けては元も子もない。
「う」と言葉に詰まる俺。

「……傷口ってなんだよ」

 どうやら志摩の言葉が引っ掛かったようだ。
 栫井にどう答えればいいのか分からず、口ごもる俺の代わりに答えたのは志摩だった。

「齋藤は俺を庇ってくれたんだよ」

 真っ直ぐと。表情から笑みを消した志摩は栫井を見据え、答える。
「俺を、庇って」と、小さく呟いた志摩に、栫井の眉間に皺が寄る。
 周囲の空気が僅かに凍り付くのを感じ、慌てて俺は二人の視線を遮るように志摩の前へ動いた。

「っ、志摩、あの、俺のことなら……いいから……」
「齋藤の嘘吐き」

 嘘じゃないよ。そう言いかけて、言葉が出なかった。
 恐らく志摩はそんな返答を求めていない。それがわかったから。

「……あんたは、誰にでも優しいんだな」

 そう、栫井の手が離れる。驚きのあまり、「栫井?」と振り返れば栫井は俺から顔を逸らす。

「……」
「え、あ、あの……しないの?」
「……萎えた」
「えっ?」

 驚いたら俺がやりたがってるようにしか思えないが、それでも驚かずにはいられなくて。
 あの栫井が、と思う反面やはり気を悪くさせてしまったのだろうかと不安になってくる。
 同時に、急激に恥ずかしさが込み上げてきて。

「意外だな、元副会長様であろう方が相手を気遣うなんて」
「誰が気遣ったなんて言ったんだよ」
「ああ、違うならいいや。そうだよね、まさか、あの栫井が誰かを思い遣るなんて思えないしね」
「し、志摩……」

 確かにそれは同意だが、だからってそんなことを面と面向かって言わなくてもいいのではないだろうか。

「さあ、どうする?齋藤。栫井は齋藤に魅力を感じないって言うけど俺は構わないよ。このまま中途半端に終わっても齋藤が気持ち悪いでしょ?」
「何言って……栫井がしないって言ってるなら、いいよ」
「良いよって何?まさか俺とは出来ないって言うんじゃないよね?」
「……」
「……冗談だよね?」

 みるみる内に志摩の表情が凍り付いていく。
 悪いと思ったけど、栫井に萎えられたということで俺もまた冷静になってきたようで。
 志摩には悪いが、「また違う機会に」と手を合わせれば今度こそ志摩の笑みが消えた。

「齋藤、あのさ、流石に俺も我慢の限界なんだけど。栫井栫井栫井栫井栫井栫井栫井ってさあ、俺は?俺には何もないの?」
「……」
「なんでそこで黙るわけ?」
「だっ……だって、別に志摩としても……」
「なに?3Pしたかったの?」
「ち、違うよ!けど、なんか、その……」
「齋藤、栫井には挿れていいよとか言うくせに俺とは嫌なんだ」
「ええと、その……」
「……」

 そもそも俺からしてみればするだとかしないだとかそんな言葉がこうして普通に交わされてるこの状況自体どうかと思うのだけれど、今更なのかもしれない。
 口籠れば口籠るほど志摩の機嫌が悪くなっていくのが目に見えるようで。
 確かに、志摩にだって助けてもらってるし、でもどうしよう。
 あんまり下手なことを言うべきではなかったな。後悔したところで仕方ない。

「あのね、今まで我慢してきたけど俺……」

 志摩が何かを言い掛けた時、腰を軽く浮かせた俺はそのまま志摩にキスをする。
 咄嗟のことで、唇から外れてしまったがそれでも志摩を驚かせることは出来たようだ。

「……今度、二人きりの時なら、いいから」

 あくまで栫井には聞こえないよう呟けば、志摩は目を見開いたまま動かない。

「……」
「……志摩?」

 そして、みるみる内に志摩の耳まで赤くなっていく。
 志摩が照れてるのを見て、自分がとんでもなく恥ずかしいことをしていることを再確認し、こちらまで恥ずかしくなってくる。

「……っ、もう……齋藤のそういうところ、すげー嫌い……」
「ご、ごめん……そうだよね、いきなり……」
「もう一回」
「え?」
「もう一回キス、してくれたら……許す」

 え。
 予想していなかった志摩の言葉に一瞬頭の中が真っ白になる。

「ほら、早く」

 自分だって恥ずかしがってるくせに、どうしてそうも余計恥ずかしくなるようなことを強要してくるのだろうか。
 甚だ恥ずかしいが、というかめっちゃ興味なさそうにガン見してくる栫井の目が辛くて、居た堪れない。
 でもまあ、キス、くらいなら。
 そう思ってしまう自分も相当毒されているのかもしれない。
 そっと志摩の肩に手を置けば、すぐ目の前には志摩の顔があって。

「あの、志摩……目、閉じてよ」
「齋藤すぐ誤魔化すから開けとく」
「う、うう……」

 ええい、こうなったらヤケクソだ。ぎゅっと目を瞑り、恐る恐る志摩の唇にキスを落とした矢先だった。
 伸びてきた手に、後頭部を掴まれる。

「ん、ぅう……っ!」

 ぬるりとした舌の感触が唇をなぞる。必死に唇を結べば、割り込んでくることこそなかったものの皮膚を滑るように頬から顎先まで舐め上げられ、全身が粟立つ。

「っ、ん、っうぅッ」

 首の付け根、輪郭を確かめるように甜められる。
 これでは話が違うではないか。

「っ、し、ま」
「ん……分かってるよ、キスだけだから」
「っちょっと、待っ、志摩……ッ」

 首筋を伝い、ゆっくりと落ちていく舌先。
 凹凸まで丹念に舐められれば舐められるほど舌が通った箇所が焼けるように疼き始め、脳味噌が熱くて堪らなくて。
 志摩の手が胸元に伸びた時、ハッとした俺は咄嗟にその手を掴んだ。

「それはキスって言わないよ……!」

 流されそうになってしまったが、なんとか理性を取り戻すことに成功する。
 志摩の肩を掴み、引き剥がすが志摩はあくまであっけらかんとした様子で。

「やだな、キスだよ。友情のキス」

 いけしゃあしゃあとよく言えたものだ。
 こういう時の志摩の性格はなかなか羨ましいが、感心している場合ではない。

「ぁ、も、志摩っ、本当っ、怒るから……!」
「いや、寧ろ怒りたいのはこっちなんだけどね」

 その何気ない一言が胸に刺さる。
 そうだ、志摩にはたくさん心配も迷惑も掛けてしまっているのだ。
 そう思うと、何も言えなくなってしまって。

「ご……ごめん、なさい」

 咄嗟に、志摩から手を離す。
 すると、志摩は不快そうに顔を顰めた。

「……」
「……志摩?」
「あー、もうやだ、本当やだ。ムカつく」

「俺ってこんなに甘かったっけ」と髪を掻き毟る志摩に、また怒らせるようなことをしてしまったのだろうかと不安になってくる。
 俺から離れるように立ち上がる志摩。
 お陰で大分窮屈さからは開放されたが、離れていく志摩が逆に不安になってきて。

「志摩、どこに」
「ちょっと、頭冷やしてくる」
「頭?」
「相手してくれるならいつでも待ってるから」

 そんな軽口を叩く志摩に「え」と固まった時、志摩は笑う。

「……そんな気ないんなら早く休んどきなよ」

 そんなことだけを言い残し、志摩は倉庫を出ていってしまう。
 志摩がいなくなっただけでこれ程までに静かになるものなのだろうか。
 薄暗い倉庫内。
 おずおずと栫井から退けば、目があった。

「……」

 徐に視線を逸らす栫井は何もいわない。
 よく考えてみたら、自分もすごいことを考えていたと思う。
 けれど、気遣ってくれた栫井の気持ちはありがたかった。

「……あの、栫井」
「……」
「やっぱり、少し気になるから……志摩の様子見てくるね」

 志摩の言う『相手』をするつもりはないが、やはり、周りに誰もいないという可能性もなくもない。
 一人にするのが恐ろしかった。
 それは栫井も同じだけれど、ここが一応安全な場所と分かっているからか、きっと栫井は居てくれる。そんな根拠のない自信を持っていた。

「すぐ戻ってくるから」

 言い訳がましいだろうか。栫井は最後まで何もいわなかった。
 その代わりに、目を伏せる栫井。行け、ということだろうか。分からなかったが、俺はそっと立上り、そのまま倉庫を後にした。

「……すぐ、ね」

 扉のあった場所を潜り抜けたとき、微かに栫井の声が聞こえたがわざわざ引き返してウザがられてもあれなので、俺はそのまま志摩を探しに行った。
 目的の志摩は、すぐに見つけることが出来た。すっかり暗くなった校庭の隅、建物を背に座り込む志摩は俺の方を見て、少し意外そうにして……笑った。

「……ああ、本当に来たんだ」
「別に、他意はないよ。……けど、こんな状況で外を一人で彷徨くのは危ないと思ったから……」
「俺が居なくなったら困るから?」

 拗ねた時の試すような物言いも相変わらずだ。
 言ってほしいことがあるのなら直接言ってくれればいいのに、それをしないからこそ質が悪く思う。

「……困るよ、志摩がいないと」
「栫井がいるだろ」
「もしかして志摩……まだ根に持ってるわけ?」
「俺的には根に持ってないと思っていた齋藤にビックリだよ」

 確かに、栫井を手放したくないとはいえあからさま過ぎたかもしれない。そうは思ったけど、事情を知ってる志摩は許してくれる。そう考えてただけに俺は甘かったのだろう。
 けれど。

「俺と栫井、どっちに居てもらいたい?」
「……質問の意味がわからないんだけど」
「そのままだよ。栫井か俺か、どちらかしか選べないとしたらどうするつもり?」
「その質問は、おかしいよ」

「俺には志摩が必要で、俺と志摩の目的のためには栫井は不可欠な存在だって……そう言ったのは志摩の方だろ」そう、志摩を見詰め返せば志摩は笑った。
 とてもじゃないが嬉しそうにはみえない。

「なんだ。分かってるんだ、ちゃんと。……あいつの肩ばかり持つからてっきり何もかも忘れてしまったのかと思ったよ」

 立ち上がる志摩。面と面向かって並ぶと、やはり気圧されそうになってしまう。
 けれど、ここで怯んではいけない。
「志摩」と、相手を見上げれば伸びてきた手に肩を掴まれる。

「……齋藤、もう一度約束して」

 真っ直ぐに、こちらを覗き込んでくる志摩。
 薄暗い空の下、陰がかった志摩がどんな表情をしているのか分からなかったけれど、それでも笑ってはいないことは確かで。

「何があっても俺のことを見捨てないって、ずっと、側にいてくれるって……約束して」

 約束、お願い、何度そんな言葉を口にしたのか分からない。
 俺達は契約付けたなにかがなければ信頼を結べないのだろう。
 手を繋いでもちょっとした衝撃で離れてしまいそうで、それがわかってるからこそ、何度でも手を取ってはそんな言葉を口にして再確認して。

「それで安心するなら……何度も約束するよ。俺は、志摩を裏切らない。絶対に」

 絶対なんてものがないというのは分かっている。
 けれど、今こうして志摩の手を取って約束したくなるのは紛れもない事実で。

「……ふふ、どうだろうね」

 志摩の手を握り締めれば、志摩は笑う。今度は自然な笑顔。
 俺達の約束事には書類もなく血印もなく簡単に破ることもできるものだと分かっているのだ、俺も、志摩も。
 それでも、今はこうして並んで話せていることで十分だった。少なくとも、俺は。

「志摩の方こそ……」
「ん?」
「……俺のこと、見捨てないで」

 俺は、志摩を裏切ることは出来ない。志摩に助けてもらった恩もあるけれど、それ以上に、きっと俺は志摩がいなければダメだと思うから。
 一人では誰かに立ち向かうことすらできないことを知ってるから。
 志摩が居てくれたら、なんだって出来そうなくらい、勇気付けられることを知ってしまったから。
 伸ばした手を、志摩に両手で握り締められる。暖かい体温が包み込む感触が心地よくて、それ以上に、絡み付いてくる指先はちょっとやそっとじゃ離れそうもなくて。

「分かってるよ、齋藤」

 近付いてくる志摩の顔に月明かりに照らされる。
 鈍く光る志摩の目は、しっかりと俺を捉えていて。

「俺は齋藤の味方だよ。……齋藤が俺の味方である限り、ずっとね」

 何度も何度も聞かされてきた言葉。
 前は、呪文のように絡みついてくるその言葉が、怖かった。けれど、今は何よりも心強くて。
 近付いてくる志摩の顔。唇に触れる感触に、俺は返事の代わりに目を閉じた。
 友情というには不純で、恋愛感情と呼ぶには足りなくて、自分たちの関係が歪で、脆いのか分かっていた。
 だからこそ、結び付けるなにかが欲しかったのかもしれない。
 相手を強く引き留められるなにかを。だけど何も持ち合わせていない俺たちは、自分を使って、手を汚して、行動で示すことしか出来なかった。


「これからどうする?」

 校庭の片隅。
 どれ程時間が経過したのかもわからなくて、流れる沈黙の中、何気なく口にすれば志摩も同じことを考えていたようだ。

「とにかく、状況を整理するべきじゃないかな」

「何があったか説明してよ」と、隣に座る志摩は促してくる。
 そう言えば、逃げることに夢中になって志摩にちゃんと説明できていなかった事を思い出し俺はざっと大まかなことを話すことにした。
 会長と話したこと、阿賀松のこと、一つ一つ話せば志摩の表情は険しくなっていくばかりで。

「問題は……やっぱり阿賀松か。何を仕掛けてくるか分かったものじゃないな」

 全てを聞き終わったとき、志摩は溜息混じりに口にする。
 阿賀松のことは、俺も気にしていた。だからこそ芳川会長と相打ちしてくれないものかと思っていたが、どうやらやはり一筋縄ではいかないようだ。
 本当に阿佐美が出てきたとしたら余計、ややこしくなる。ヘタしたらまた阿佐美をハメるだけになってしまう。
 阿賀松本人を直接潰さなければ、永遠にイタチごっこだ。
 八木のことも裏切ってしまうことになり、唯一会長の書類が手元に残っていることくらいだろうか、良かったことといえば。
 余計悪化したとも思えないこの状況。どうにかならないのだろうか。
 栫井のことを匿うとしても、いつまでもこんなコソコソしてるわけにはいかない。
 ならば。

「俺……少し考えたんだけど、朝になったら停学解除してくるよ」

 そう、口にしたときだった。
 志摩は驚いたように目を丸くする。

「正気なの?」
「阿賀松の出方が分からない今、炙り出した方がいいと思うんだ」
「ちょっと待ってよ。それって……つまり齋藤が囮になるってこと?」

 僅かに、志摩の声が震えた気がした。
 それでも、俺は首を縦に振る。

「俺が八木先輩の部屋から資料を盗み出したのもバレてるんだし、逃げ回ったところで多分……結果は変わらないと思う」

 結局逃げ場を失い、ジリジリ追い詰められていくだけだ。
 どちらにせよ捕まってしまうくらいならば、それを覚悟して自分から動いたほうがまだいい。
 それが寿命を縮めてしまう結果になろうとも。
 どうしようもなく、ただ黙って首を締め上げられていくのは嫌だった。
 そう思えるのは、この体が自分のものだけではないと分かったからだろうか。死ぬくらいなら、志摩の役に立ちたかった。

「……それで、どうするつもり?」

 けれど、志摩の表情は険しいままで。
 心なしかその言葉は刺々しい。

「志摩には……今度、阿賀松が俺に何かした時、その証拠を掴んで欲しいんだ」

 恐らく今度は病院送りでは済まないだろう。そんな気はしていた。
 怖くないと言えばウソになる。それでも、何かをしたかった。このまま黙ってやられるのを待っていることだけはしたくなかった。
 けれど、

「悪いけどそんな作戦俺は賛同出来ないな」
「……志摩」
「穴だらけだし、それなら齋藤が囮をする必要はない。栫井がいるじゃん」

 志摩ならばそう言うと思っていた。
 だから、俺は。

「……栫井には他に役目があるだろ」
「……っ!」
「阿賀松に栫井を使ったら、誰が芳川会長をハメるんだよ」

 そもそも、阿賀松はそれ程栫井を気にしている様子はなかった。
 それは恐らく栫井が会長にとって視界にも入っていない存在と知っていたからだろう。
 あの調子では会長は栫井に手を出すだろう。
 邪魔だから。用済みだから。そんな理由で、栫井に。それならば、俺がするべきことは一つしか無い。

「はは……怖いな、齋藤」

 志摩の頬が引き攣るのが見えた。
 引かれるのも無理はないと思う。本当は、いまだって出来ることなら穏便に済ませたいと思う。
 けれどここまで来てしまったいま正当法では二人に敵わない。
 目には目を、と会長は言っていた。今になってその言葉の意味がよく分かる。

「あいつを使うのは悪くないと思うよ。けれど、あまりにも分が悪すぎる」

 けれど、志摩は俺と違いあくまで慎重だった。

「齋藤、いつも俺に言っていただろう。『落ち着け』って。今こそ齋藤が落ち着く番だよ」
「そんなこと、言ってられる暇はないんだ」
「だからって焦ったところで死に急ぐだけだよ」

 まさか、志摩にそんなことをいわれる日がくるなんて思ってもいなかった。
 驚いて志摩の横顔を見れば、こちらを向いた志摩は笑う。

「齋藤の考え方は単純明快でいいと思うよ。けれど、別に齋藤である必要はない。要するに阿賀松が誰かに手を出せばいいんだろ?」
「……それじゃダメなんだ」
「どうして」
「阿賀松だけがここに残ってると思っていた。……けれど、違うんだ。阿佐美もまだいる」

 二人と少なからず関わった俺でさえ、阿賀松を阿佐美を見分けることが出来なかった。
 庭園で会ったあれが阿賀松の可能性もある。
 それほど似ている二人に、そこら辺の誰かが見分けられると思わなかった。

「……会ったの?」
「分からない、阿賀松が阿佐美のフリをしてるのかもしれないし阿佐美が阿賀松のフリをしているのかもしれない。……だから、確認する必要がある」
「関係ないよ、この間みたいに今度は阿佐美詩織という人間を退学させればいい」
「そう思っていたけど、それじゃダメなんだ。阿賀松だったらきっと『阿賀松伊織』という人間の勝手にしたことといって全て逃れるよ」
「……だから、齋藤が調べるって?」

 志摩の声のトーンが下がる。
 怒られるだろう、力づくで止められるかもしれない。それでも、俺は頷き返す。

「……他にも、何かないか考えよう」
「志摩」
「俺は、反対だよ。これ以上齋藤を囮にさせることは出来ない」
「どうして……」

 志摩のよく口にする効率的な作戦なのに。
 口籠る俺に、志摩は呆れたように息を吐く。そして、睨むように俺を見た。

「約束したよね、齋藤……俺と一緒にいてくれるって」
「……っ!だ、だけど……」
「もう俺との約束を破るつもり?」

 約束。その単語に、何も言い返せなくなる。
 志摩は、阿賀松と会長がいなくなったらそれで喜んでくれると思っていた。
 そもそも、そのために俺達は協定を結んだようなものだ。けれど、志摩は、喜んでくれなかった。

「とにかく、今日はもう寝なよ。……疲れてるままじゃろくに動くことも出来ないよ」
「……志摩」

 志摩は戻らないつもりなのか、と視線で訴えれば志摩は諦めたように微かに笑った。

「……わかってるよ、俺も戻るってば」

 その言葉を聞いて、ほっとする。もしかしたら怒ってどこかへ行ってしまうのではないだろうか、そんな不安に駆られただけに、余計。

「齋藤と話てるとド肝抜かれるからね、眠気覚ましには丁度良いね」

 そんな軽口をたたきながら立ち上がる志摩。
 どういう意味だと聞き返そうと思ったが延々とネチネチ小言を聞かされてしまう気がして、俺は敢えて何も言わずに倉庫へ戻ることにした。

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