20
ようやく歩くことに慣れていた体だが、やはり走るとなると話は別のようだ。
早く、もっと早く。そう気ばかりが急いてしまい、それに追い付けない体に鈍痛が襲い掛かってくる。
せめて、遅れを取らないように。
志摩の手を離してしまわないように、痛みを忘れるようにひたすら足を動かしていたときだった。
校舎3階。
いくつかの階段を登りきった時に、志摩はようやく足を止めた。
既に消灯時間の過ぎたそこは薄暗く、それでいて静かで、普段たくさんの生徒で賑わっている校舎とは違うように感じてしまうのも仕方ないのだろう。
「……ここまで来たら、大丈夫かな……」
離れる手。ようやく、休める。
そう思った途端、先程まで気合で我慢していた痛みが一気に襲い掛かってきた。
「つ、ぅ……ッ」
腹痛とも違う、疼くような痛みに堪らず蹲った時。
驚いたように志摩がこちらを振り返る。
「齋藤?どうしたの?」
「いや、大丈夫……ちょっと、結構走ったから体の方がビックリしたみたいで……」
「どこか座ろうか?」
こんなところで道草食っている場合ではない。
いつ会長たちが来るかも分からない。
警報はいつの間にか止まっていたし、先生たちも遅かれ集まってくるはずだ。
頭では理解できているが、自分の体に大分ガタが来ていることに気付いてしまった今、下手に虚勢を張ったところで志摩にまで迷惑を掛けてしまうことになる。
「……ごめん、ありがとう」
そして、場違いとはわかっていたがそんな状態にも関わらず俺のことを気遣ってくれる志摩が嬉しかった。
なるべく心配かけないよう笑い返す。
けれど、志摩の表情はどこか曇ったままで。
「……」
「……志摩?」
「なんか、調子狂うなぁ……」
ぽつりと、溜息混じりに呟く志摩。
つられるように「え?」と聞き返してしまえば、志摩はバツが悪そうに頭を掻く。
「本当は言ってやりたいことたくさんあったのにさ……齋藤の顔見たら全部飛んじゃった」
「……ごめんね」
「謝らないでよ。本当にごめんねって思ってないでしょ。俺があの時止めてもこうするつもりだったんだよね」
やはり、気付かれていたようだ。あの時はこうすることが最善だと思っていたし、正直、今でもその選択は間違っているとは思わない。
少なくとも、俺は会長と直接話すことが出来てよかったと思っている。
怖かったし、ショックだった。それでも、会長の本心が少し聞けただけでもよかった……そう思う。
「うん」と頷き返すが、勿論志摩が「はいそうですか」と納得してくれるわけがなく。
「……本当、バカだよね」
「そう言うと思ったから、相談出来なかったんだ」
「だから事後報告ってわけね」
自分勝手なことをしたと思う。
けれど、一つ一つ丁寧に説明してる時間も説得させる余裕もなかった。
弁解するつもりも、ない。
「齋藤が自分で持ち出すとか言い出した時、心臓停まるかと思ったよ。……正直、さっきだって芳川たちに囲まれてるの見て、俺は……」
それほど、志摩にも心配掛けたのもわかっている。
内容はともかく、一番親身になって考えてくれたのも事実だし、申し訳ないとも思う。
けれど、そこまで心配してくれてる志摩に嬉しくなっている不謹慎な自分も確かにそこにいた。
「痛むっていうのは、何かされたってこと?」
どうやら、痛がる俺が気になったようだ。
心配してくれる志摩にいつもの笑みはなくて、睨むようにこちらを見てくる志摩に慌てて否定する。
「いや、違うよ。本当に何もないんだ。ずっと走ってなかったから……」
「……そう」
深い溜息を吐きながら、志摩はその場に座り込んだ。
ネチネチ嫌味を言われるよりも何も言われない方が申し訳なくなってくる。
ごめんと謝ったところで志摩は喜ばないし、どう声を掛ければいいのだろうか。恐らく今俺が何を言ったところで志摩の様子は変わらないだろう。そう、暫くの沈黙の末、俺はとあることに気付いた。
「あの、志摩、栫井は……」
「え?栫井?……ああ、忘れてた」
「えっ?」
もしかしてまだ栫井に会ってなかったのだろうか。
八木のところに突撃してないかドキッとしたが、そんな俺を見越したように志摩は笑う。
「大丈夫、死んではないと思うから」
「な、どういう……」
「ま、見つかったら面倒だし、拾いに行こうか」
拾う?
志摩の口から次々と出てくる不吉な言葉に不安になりながらも、俺は志摩に案内されるがまま栫井を『拾い』に行くことにする。
◆ ◆ ◆
同様、3階男子便所前。
まさかと嫌な予感を覚えつつも志摩の後についていけば案の定男子便所の中へと入った志摩は個室横、用具入れの前で立ち止まる。
そして、
「か、栫井……っ!」
開かれた用具入れの扉、中に詰め込まれた栫井の姿に俺は絶句する。
ガムテープで口も腕もぐるぐる巻きにされた栫井は恨めしそうな目で俺達を睨んできていて。
何があったんだと聞くまでもない、横でニコニコしているこの男の仕業だろう。
慌てて俺は栫井の自由を妨げるガムテープを剥がした。両腕の拘束を外せば、栫井は自分で口のガムテープを剥がす。
そして、
「っ、ゴホ……ッ」
「だ、大丈夫っ?栫井……」
「大丈夫大丈夫、生きてるから」
咳き込む栫井を志摩は笑う。
確かに、志摩が栫井のことよく思ってないことは分かってたけれど。
「志摩、なんてことを……っ」
「だって説明するの面倒だったし、こいつすぐ特攻しようとするからさ、こうするしかないじゃん?」
「だからって……」
もう少しこう他にあったんじゃないのか。こんな監禁みたいな真似をしなくても、他に。
「第一、誰かさんがおとなしくしてくれていたらこんなにバタバタする必要はなかったんだけどね」
しかし、そう言われると何も言い返せなくなるからどうしようもない。
そう、俺が口ごもっていると。
「殺す……ッ」
ガムテープ拘束から開放された栫井の目は完全に据わっている。
栫井が本気で怒っているのは一目瞭然で、今にも志摩に掴み掛かりそうな栫井を掴み、引き止めた。
「か、栫井!落ち着いて!俺が……俺が悪かったんだ……!」
「……っ!」
ここで揉めてる暇はない。
とにかく栫井を落ち着かせようと思いっきりしがみつけば、一先ず、志摩に殴り掛かる真似はしなかったけれど。
「触んじゃねえ……!」
「っぁ、ご、ごめん……」
しまった、栫井は馴れ馴れしくすると嫌がるんだった。
墓穴を掘ってしまった。慌てて栫井から体を離し、それでも栫井の腕を掴んだまま俺は口を開く。
「ちゃんと説明するから、お願い、怒らないで……栫井……っ」
栫井には正攻法しか通用しない。
必死に頭を下げれば、毒気抜かれたように息を吐いた栫井。
その腕から力が抜けるのを感じ、分かってくれたようだと一先ず安堵する。
だけど、
「へー副会長さんは齋藤にお願いされると大人しく聞くんだねぇ。……あ、元か」
「……うっせーんだよ、お前まじ」
どうしてせっかく栫井が落ち着いてくれたというのに志摩はこうも煽る真似ばかりするのか。
「志摩」と慌てて仲裁に入れば、志摩はやれやれと肩を竦める。
「はいはい、自分の尻拭いは自分でしなよ。俺は今回のことはノータッチだから」
「……分かってるよ」
ここから先はちゃんと俺が話をしなければならない。
これからも栫井には付き合ってもらわなければならないから。
ここで怒らせて全てを台無しにするにはいかなかった。
「……栫井、あの、まず栫井に謝らないといけないことがあるんだ」
ぴくりと、栫井が反応する。
恐らく、栫井は俺のしたことを怒るだろう。
それでも、言わなければならない。その義務が俺にはあった。
「ごめん……あの、封筒、八木先輩が持っていったっていうのは嘘なんだ」
「本当は、まだここにある。俺が持ってるんだ」正確には原本は志摩が持っている。
けれどそこまで言う必要はない。寧ろ、言ったほうが栫井は気を悪くするに決まっている。
だって、今の俺の言葉だけでもこんなに怒っているのだから。
「……俺を、騙したのか」
突き刺さる視線が痛い。
それでも、俺はそれを真っ直ぐ受け容れる。
逸らしてはいけない、そんな気がしたから。
「最初は本当に渡すつもりだったよ、それで……栫井を囮にするつもりだったんだ」
「それなのに、齋藤が余計な嘘ついちゃったせいでせっかくの作戦も台無しだよ」
「…だけど、それでもやっぱり全部栫井に負わせるのは嫌だったんだ」
甘いね、と志摩が溜息を吐く。
志摩にも勝手なことはしたと思ってる。けれど、自分の判断を間違っているとは思わなかった。
「……囮って、どういう意味だよ」
静かに尋ねられた。向けられた怪訝そうな目に、固唾を飲む。
ここまで言ってしまったんだ、言ってしまえ。
「芳川会長と関係がある栫井が封筒を盗み出したと阿賀松先輩たちに思わせようと思ったんだ」
「何だと?」
「……こうでもしなきゃ、阿賀松先輩たちを動かすことが出来ないと思ったから」
「そんなことしたら、余計……」
「分かってるよ。……だから、今、直接会長のところに話をつけてきたんだ」
「直接?」と、栫井の目が見開かれる。
問題はどこまで言うべきか。
会長を嵌めようとしたことは言わない方がいいだろう。
栫井はまだ、会長のことになると平静でいられないような気がしたから、余計。
「勿論丸腰じゃ相手をしてもらえないから……あれを使って、だけどね」
あれ、という言葉に僅かに志摩が反応する。
栫井も俺の言葉が何を指しているのか気付いたのだろう。
コピーも封筒も会長に渡してしまったが、コピーも取っているし写真も抜いている。会長の手に渡ったところで然程痛手にはならない。
「会長には阿賀松先輩たちの動向のこともどこまで知ってるかも全部、伝えてきた」
「……会長は、なんて」
「『そうか』とだけ言っていたよ」
「……」
押し黙る栫井が何を考えているかわからなかった。
本当は、会長は納得してなどはいない。最後の最後まで会長は俺を疑っていた。
会長に阿賀松を仕掛ける作戦も、阿佐美の介入により成功するかどうか分からない。
分からないが、少なくとも俺達の手にはまだ手札がある。問題は、阿賀松伊織の動きだ。
「ごめん、せっかく栫井には八木先輩のこと、協力してもらったのに……こんなことになってしまって」
「うるせえんだよな。……別に、俺が勝手にしただけだから、あんたには関係ないだろ」
「栫井……」
許してくれるというのか。
分からなかったが栫井がまだ俺の話を聞いてくれている、その事実に安堵した。
それと同時に、どんどん自分が道を踏み外しているような気がしてならなくて、後ろめたさを感じずにはいられなくて。
「話は終わった?」
「え、あ、うん……」
「なら、そろそろ場所を移動しようか」
「あんまりここにいるわけにはいかないからね」と、廊下の外へと目を向ける志摩。
確かに、先程よりも校舎内が騒がしくなっているのが分かった。
「でも……」
だとしても、どこに行くというんだ。
実質退学処分の栫井と停学中の俺はセキュリティ面で引っ掛かることは間違いない。
不安を覚えたが、志摩の態度は相変わらず飄々としたもので。
「そうだね、問題児二人連れだから大人しく学生寮には戻れないだろうしね」
そう言って、志摩は他人事のように笑った。
「いい場所があるんだ」
「……いい場所?」
「うん、とてもいい場所」
その笑顔に、なぜだろうか、ただならぬ嫌な予感を覚えた。
「栫井も、来てくれるん……だよね?」
不安になって、隣の栫井を見上げれば面倒臭そうに栫井は俺から顔を逸らした。
そして、
「……お前が来いって言ったんだろ」
「……うん、ありがとう」
それを聞いて安心した。
栫井の言葉でこれだけ一喜一憂してしまうのもおかしな話なのだが、それでもやっぱり、俺のことを嫌っている栫井だからこそこうしてついて来てくれることが余計嬉しく感じるのかもしれない。
「ねえ、齋藤。今俺が話してるんだけど?」
「あ、ご、ごめん」
「それじゃ、行こうか。ただでさえ便所臭いのが一匹いるのにこれ以上こんなところに居たら匂いが移っちゃうしね」
すっかり機嫌を損ねた志摩の嫌味に栫井は何も言わない。
どこか上の空のような気配すらあった。
何となく気になりながらも、俺達は志摩の先導とともに男子便所を後にする。
昼間あれ程暖かったのに、夜となるとその気温は冷たく、日がないというだけでも余計そう感じてしまうのかもしれない。
というわけで、俺達はなぜか外にいた。というか、校庭。
「あの、志摩、いい場所って……」
グラウンドを避けるように走り抜け、やってきたのは校舎や学生寮から離れた旧体育倉庫前。
もしやと思い、恐る恐る尋ねてみれば、
「え?ここだけど?」
当たり前のように答える志摩になんだか全身から力が抜けてしまいそうになる。
だって、そうだろう。よりによってここか、そう思わずにはいられない。
「料亭の次は倉庫かよ……」
「こっちの方はもう取り壊し決まってるし、校庭の方はカメラが少ないんだよね。だから、朝までなら眩ませること出来ると思うんだ」
確かに、志摩の言葉にも一理ある。
場所を選んでる暇は俺達にない。とにかく、少しでも休めるのなら。そう分かっているが、会長を閉じ込めた場所にまた戻ってくるという事実に不安を覚えずにいられなくて。
「ま、文句ある人はどうぞそこら辺の草むらで寝転がってくれて構わないんだけどね」
「……チッ」
「ふ、二人とも……」
喧嘩こそなかったものの、栫井の機嫌が悪くなっているのは明らかで。
そうだ、我儘を言っている場合ではないのだ。
「でも、これ……壊れてるよね」
せめてこの場の空気が和らぐよう、咄嗟に話題を変えようと目の前の扉に触れる。スライド式の扉は外れ、立て掛けるような形のまま放置されている。
外れた扉は歪に歪んでいて。
「そうだね。この前のあれでどこかのバカ力が壊したんじゃないかな?」
「……」
ということは、やはり、会長を閉じ込めたときのあれだろう。
あの時、早い段階で監禁を抜け出した会長のことを考えると必然的に過るのが女装姿のあの一年だ。
そういえば、櫻田と閉じ込められたのもこの倉庫だ。
余計なことまで思い出してしまい、今度は自らこの倉庫にやってくるという事実に因果のようなものを覚えずには居られなかった。
「……入りたくない?」
開きっぱなしになった倉庫の前、動けなくなっていると背後から志摩に声を掛けられる。
優しい声音はどこか俺を試すような気配すらあって。
弱気になっていた自分に喝を入れた。
「いや、大丈夫。……今は、足を伸ばせるだけで十分だから」
「そう、眠たくなったらいつでも言ってくれて良いんだからね。俺が腕枕してあげるから」
「い、いいよ。いらないから、別に」
「つか、寝るときも何も……寝る場所ねーんだけど」
栫井の言葉に釣られて倉庫の中に目を向ける。
確かに、放置されているだけあってどれも埃被ってて、ベッドの代わりになるようなものは見当たらない。
……一つ除いて。
「は?あるだろ、お前の目は節穴かよ」
そう言って、志摩は倉庫の片隅、畳まれたそれを指差した。
体操競技で使用されるマット。どうやら俺の予想が的中してしまったようだ。
というわけで、畳まれた数枚のマットを広げてみたものの。
「っ、ひっでぇ埃……つかこれ腐ってんじゃねえかよ」
「文句ある人は外へどうぞ。虫に刺されながら自然を満喫するのも良いかもしれないよ」
「……」
数枚のマットの内、殆どのマットはカビ諸々でとてもじゃないが衛生面に問題があるということで再び倉庫の隅に積むことになった。
そして、その中で残ったのはたった一枚。
二人で横になるのもキツイであろうそれは三人で横になろうことならとんでもないことになる。というか普通に考えてこの二人が一緒のマットに寝るとは思えないのだが。
「ほら、じゃあ齋藤おいで。布団ないから俺が温めてあげる」
「えっ、いや、俺は……」
「おい、待てよ」
「……なに?まだなにか文句あるわけ?」
「枚数、足りねえだろ」
「ああ、そっちに腐れたのがあるからお前はそっちで寝たらいいんじゃないかな」
「……なんだって?」
「ああ、跳び箱もあるじゃん。ほら、あれ2つ並べて横になったらいいんじゃない?」
そして案の定始まる陣取り。
どうして寝ることにこんなに揉めるのだろうか。
不思議で堪らないが、とにかく二人には落ち着いてもらわなければならない。
「あ、あの、俺はいいから代わりに栫井マットの上で寝ていいよ……」
「は?なんで俺がこいつと一緒に寝なきゃいけないんだよ。齋藤でもそんな気持ち悪い冗談許さないよ」
「なんでてめえはマット使う前提なんだよ……ッ!お前が跳び箱の上で寝ればいいだろ!」
「見つけたのは俺なんだから俺がマット使うのは当たり前でしょ」
「あ、あの、二人とも静かにしないと……」
ヒートアップする二人。
ここが夜の学園であり扉が壊れているということを忘れているのではないだろうかと疑いたくなる声量。
このままではまずい、殴り合いになる前に慌てて仲裁に入ろうとした時だった。
『おい、こっちの方から声がしたぞ!』
「ッ!!」
倉庫の外、聞こえてきた複数の足音に全身が凍り付いた。
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