天国か地獄


 19

「か、い……ちょう……」

 どうして、なんで。
 そんな疑問符で埋め尽くされる頭の中。
 固まる俺を見て、唇を離した会長は僅かに目を細める。

「……まるで、最期のお別れでもするかのようだな」
「……っ」
「何を企んでいる」

 這わされる指先。顔は至近距離のまま、会長の冷たい言葉とともに唇にはかすかな吐息が吹き掛かる。
 疑われている。

「企んでなんか、ないです」
「じゃあ何故今それを言う」

 それは純粋な疑問だった。怪訝そうな眼差しを受け止め、見詰め返す。
 咄嗟に俺は「時間がないからです」と口を開いた。

「日付が変わったら、俺の言葉も聞いてくれないんですよね、会長は」

 こうしている間にもタイムリミットは刻一刻と近付いている。
 そして、約束の時間が来てしまえば会長は俺の相手をしてくれなくなるだろう。
 本当はただ聞き出せばいいと思っていた。そのつもりだっただけに、自分でも自分の言動が不可解で、それでも、言いたかった。こうして対等に話せる今の内に、会長に。

「……君が、分からない」

 そう、ぽつりと。

「優しくしても君は嫌がる……そのくせ、こんな状況で俺に『ありがとう』などという。……俺には君が何を望んでいるのか分からない」

「不愉快だ」と会長は短く吐き捨てた。
 会長の言葉ももっともだった。疑われるのも無理がない。それでも、この言葉に打算的なものは含まれなかった。早い話、自己満だった。
 それが分かったからこそ、会長の表情が険しくなっていく。

「そこまで言うならどうして、俺の言うとおりにしなかったんだ」
「……それは……」
「どうして……どうして、俺を信じてくれなかったんだ……っ!」

 振り絞るようなその会長の声は怒りか、それとも他の何かから、確かに震えていた。
 底冷えするような鋭い視線に射抜かれ、息が出来なかった。
 それでも、会長の言葉は終わらない。それは堰き止めるものを失ったダムのように溢れ出してきて。

「君がどうなろうが関係ない。……君が俺の元から逃げ出して、何度自分に言い聞かせてきたと思う?」
「……」
「……こんな屈辱を受けたのは初めてだ」
「……」
「俺は、君を許せない。……許せない。俺に楯突こうなどと考える君が」
「……」
「君を信じていた自分が馬鹿馬鹿しくて……吐きそうだ」

 そう、ほんの一瞬。
 浮かんだ笑みは自嘲するもので。

「君なら、分かってくれると思っていた」

 ぎゅっと、心臓に鷲掴みにされたような痛みを覚えた。
 目の前にいるのは紛れもなく、芳川会長だったのだ。
 控えめな笑みに、諦めたような声に、殴られたようなショックを覚える。
 ずっと覚悟をしていた。
 一度会長に襲われて、もう二度と分かり会えることはないだろう。そう覚悟していた。
 だからこそ、その会長の言葉に、目に、酷く揺さぶられそうになる。
 ここで、会長の手を取ったらもしかしたら、また以前のように仲良く出来るのだろうか。そんな甘い思考に流されそうになった時だった。
 中庭への扉が開く音がして、現実へと引き戻される。
 そして、それは一瞬にして地獄へと暗転する。

「こんな時間に逢引とは随分と乱れてるじゃねえかよ、会長様よぉ」

 暗い、草木の中。
 冷たい風とともに吹き込んできたその声に、体の奥、防衛本能が一斉に反応した。
 まさか、ここで。血の気が引く。恐る恐る振り返れば、そこにはそいつがいた。

「消灯時間、過ぎてんですけど?」

 黒い髪、軽薄な笑み、唇にぶら下がるピアス。
 阿賀松伊織は、蒼白する俺を見下ろし、笑った。
 深く、口角を持ち上げ……確かに楽しそうに笑った。

「先輩……っ」
「先輩じゃねえだろ、ユウキ君」

 青褪める俺に、口角を上げる阿賀松。
 向けられたその目は俺を捉えたまま、細められる。

「いつもみたいに詩織って呼べよ」
「……ッ!!」

 そして、悪い冗談か何かのようにそんなことを口にする阿賀松に一瞬冷水を掛けられたように頭が真っ白になった。
 間違いなく、阿賀松なのに。そうだ、ここにいるのは名義上、阿佐美詩織になるのだ。
 濡れ衣を被り自ら学園を立ち去った阿佐美のことを思い出し、息が詰まりそうになる。
 そんな俺とは対照的にあくまで芳川会長の態度は冷静だった。

「……」

 阿賀松に冷ややかな視線を向ける会長は自分から口を開こうとはしなかった。

「都合が悪くなったらだんまりかぁ?会長さんよぉ」

 そんな芳川会長を見過ごすわけもなく、寧ろ真正面から突っ掛かっていく阿賀松に心臓が軋む。

「おい、言い訳ぐらいしたらどうだ?」
「……規則を無視してるのはそちらも同じではないか?」

 その言葉がどれを指しているのか分からなかった。
 それでも、阿賀松の目の色は確かに変わったのを俺は見逃さなかった。

「……つまり、お互い様だと?」

 細められた目から一瞬、光が失せる。
 それだけではない。

「一緒にすんじゃねえよ、虫唾が走る」

 その顔面から笑顔が消えたと思った次の瞬間だった。
 阿賀松の手が芳川会長の胸倉に伸びる。
 このままではまずい、そう思った時には体が勝手に動いていた。

「……まっ、待って下さい……っ」

 咄嗟に、俺は会長を背にし、阿賀松の前に立っていた。
 芳川会長が息を呑むのが聞こえたとき、自分が仕出かしたことの問題に気付く。

「ぁ……」

 まずい。頭に上っていた血が一斉に引いていくのを感じた。
 まずい。早く、退かなければ。
 会長同様、キョトンとした阿賀松の前、動こうとするが体は石のように固く。
 その場から動けなくなる俺に、阿賀松は喉を鳴らし、笑った。

「お前もなぁ……」

 伸びた指先が、目先に伸びてくる。
 両頬を鷲掴むように触れる指先に、その感触に、ビクリと全身が震えた。

「よく俺の前に顔出せるな」

 指の隙間、こちらを覗き込むようなその目に滲む言い表し難い色に、蛇に睨まれた蛙宛ら硬直する。
 作戦は、成功だ。阿賀松本人に見せ付けることが出来たのだから。
 あとは、逃げればいい。逃げるんだ。逃げろ、逃げろ、逃げろ。
 繰り返される脳からの指令。それなのに、体は動かない。動けないのだ。
 自業自得だ、最悪の事態は想定していたはずだ。
 それでも、いざ最悪を前にしてしまうと、今まで積み上げた覚悟が碎かれそうになって。

「……なあ、何か言えよ」

 食い込む指先に、顔面ごと握り潰されるような錯覚に陥りそうになる。
 近付く阿賀松の顔に今度こそ覚悟したときだった。
 顔を覆っていた阿賀松の手が、離れる。否、自分の体が引き離されたのだと気付くのには時間が掛からなかった。

「……彼は、俺が付き合わせただけだ」

「関係ない」そう、顔を上げればあくまでも淡々とした口調で続ける芳川会長の横顔があって。
 会長が助け舟を出してくれた、それは理解出来た。
 けれど、どうして。どうして会長が庇ってくれているのか、その疑問と戸惑いで塗り潰される思考回路。
 それと同時に自分が一抹の嬉しさを覚えていることに気付いた。

「……関係ない?」

 ああ、まずい。阿賀松から消える表情。
 芳川会長の肩越しに、向けられた阿賀松の視線が突き刺さる。
 目を合わせることが出来ず、咄嗟に俯いた時。

「関係ないのか?お前は。なぁ、言ってみろ」

「お前は本当に関係ないのか?」試すようなその言葉が突き刺さった。
 無関係とは言い難い立ち位置にいるのは事実だ。
 しかし、それを今このタイミングで口にする事は、つまり。

「……ッ」
「ユウキ君、あんたの行動力には驚いたよ。まさかあんな弱虫なユウキ君が」

「本気で俺をキレさせてくれるなんてなァ」浮かぶ笑み、赤い舌が覗き、全身に悪寒が走る。

「お前……」
「テメエは喋るんじゃねえ」

 見兼ねた会長が口を挟もうとするが、それもすぐに切り捨てられる。
 その表情からは先ほどまでのたのしそうな笑みはなく、阿賀松は無表情のまま会長を見た。

「俺はユウキ君とお話してるんだよ」
「お話しだと?」
「……あぁ、そうだよ。例えば……そうだな、こいつが……いや、こいつらが企んでることとかな」

 再び向けられる視線。しかし、それよりも俺はその言葉に引っかかった。

「……今……っ」

 こいつら。確かに、そう阿賀松の唇が動いた。志摩のことを指しているのか、それとも。栫井の横顔が脳裏を掠め、ぞくりと嫌なものが背中を走る。
 目を見開く俺に、阿賀松は愉快そうに喉を鳴らす。

「残念だっなぁ、ユウキ君。あと少しで盲ましくらいは出来たのに」

 頼る相手を間違えたな。そう、唇を舐める阿賀松。
 どういう意味だ。まさか、とは思ったがいや、そんなはずがない。
 けれど、あの時のことを思い出さずにはいられなかった。阿賀松の部屋の中、捕まった志摩のことを。

「……ぁ……え……」

 ハッタリだ、俺の反応を見て確かめてるだけだ。
 だって、俺は志摩たちを危ない目に合わせないために動いたんだ。だから、大丈夫だ。俺が、信じないといけない。
 そう思いたいのに、そう思い込むには目の前の不確定要素の存在が強すぎた。

「どういう……」

 意味だ、と。
 俺たちのやり取りを黙って聞いていた会長が流石に気付いたようだ。向けられる訝しげなその目を受け流すこともできず、動くこともできずにいたその矢先だった。
 ガシャン、と何かが叩き割れるような破壊音が響く。そしてそれに続くように劈くような警報が鳴り始める。

「……何事だ……っ」

 驚いたのは俺だけではなかった。
 突然の緊急警報に生徒会長の顔に戻る芳川会長と、不愉快そうな阿賀松。
 二人のどちらかの仕業だと思ったが、どうやら違うようだ。
 ならば。そう、辺りに視線を向けた時だった。

「齋藤ッ!」

 どこからともなく聞こえてきたその声に、一瞬幻聴かと思った。
 けれど、一階校舎の窓、身を乗り出すその姿を見つけた瞬間、「志摩」とその名前を叫びそうになった。
 既のところでそれを堪えることが出来たのは、目の前の二人の存在があったからだろう。

「早く、齋藤、早くこっちに!」

 何をしてるんだ、そんなことしたら志摩が共犯者だとバレるじゃないか。そう呆れる以上に、そんなことを無視して呼ぶ志摩が嬉しくて、考えるよりも先に、俺は駆け出していた。

「齋藤君ッ!」

 聞こえてくる会長の声にごめんなさいと返す余裕もなかった。
 とにかく、志摩のところに。そうしなければ、また自分を見失ってしまう。
 だから、早く。そう、並ぶ草木の中を突っ切って志摩の元へ向かおうとしたとき。

「……っいや、フツー、逃がすわけねえじゃん」

 背後から、伸びてきた手に肩を掴まれる。

「はな、して下さ……っ」

 必死に阿賀松の腕から逃げようとするもそのまま、強く抱き寄せられしまい文字通り見動きが取れなくなってしまう。
 あと少しなのに、と阿賀松の腕を掴み返したときだった。

「……落ち着いて」

 耳元、背後から囁きかけられるその声に俺は目を剥いた。
 柔らかい、その声は阿賀松のものではなく。

「し、お……り……?」

 そんなはずがない、目の前にいるのは間違いなく阿賀松のはずだ。だけど、今の声は。
 振り返れば、確かに阿賀松がいた。
 なのに、

「お願い……俺に合わせて」

 真っ直ぐとこちらを見据えてくるその目は阿賀松のものとは違う。
 本当に、阿佐美だというのか。だったらどうして、阿賀松のフリを。
 余計混乱する俺に、更なるトドメが刺さることになる。

「……おい、その手を離せ」

 背後、追い付いてきた会長の声がする。
 それでも、阿賀松、否、阿佐美は俺を見据えたままその目を逸らそうとしなかった。


「……ユウキ君」
「……俺、は……っ」

 迷ってはダメだ、立ち止まってはダメだ。分かっているのに、阿佐美への罪悪感に足が竦む。
 だけど、ちょっと待て。そもそも、本当に阿佐美なのか。
 そう、一抹の可能性に気付いた時だった。

「齋藤から離れろよ、ダブリ野郎ッ」

 突然肩を掴まれ、阿佐美から引き剥がされた矢先のことだった。
 躊躇いもなく阿佐美に殴り掛かるその人物に目を見開いた。

「志摩……っ!」

 間一髪、志摩の拳を掌で受け止めた阿佐美は先ほどまでの阿賀松の顔に戻る。
 しかし、その目には確かに動揺の色が浮かんでいた。

「……アンタは、そんな軽率な行動を起こすやつじゃなかっただろ」

 地を這うような低い声は明らかに阿賀松のもので。
 志摩を睨むその冷ややかな視線に今度こそ目の前の人物が阿賀松か阿佐美か、分からなくなる。

「軽率な行動を起こすやつがいるからね、取らざるを得ないんだよ」

 こんがらがる俺の横、言いながら手首を掴んでくる志摩の手が微かに震えてることに気付いた。

 本心を口にせず、不安や弱音を一切見せない志摩が唯一俺の前で本心を吐露してくれた時のことを思い出す。
 ああ、そうだった、と。忘れかけていた何かを思い出し、俺はその手を握り返した。

「……ごめんね、志摩」

 志摩は、俺だけを信じてくれた。全部を捨ててまで、形振り構わず。
 なのに俺は。俺はまた、見失いそうになっていた。
 情に流されて、信じるべきものを見失いそうになっていた。
 一瞬、驚いたように目を丸くした志摩だったが、すぐにその口元にはいつもの笑みが浮かんでいて。

「……ま、自覚してくれただけ成長かな」

 そう笑って、志摩は俺の手を強く握り返してきた。
 そんなやり取りを、阿佐美は何も言わずに見てるだけで。その表情に、笑みはなかった。

「次から次へと……どういう事だ、これは」
「さあ?俺にもどういうことやら。もしかしたら、日頃の行いが悪かったのかもしれませんね」
「……貴様」

 志摩、と咎めるよりも先に「齋藤」と、名前を呼ばれる。
 走るよ、とその唇が小さく動くのを見て、慌てて頷き返そうとした矢先。

「っ、ちょ、うわっ!」

 反応するよりも先に走り出す志摩に思いっきり体を引っ張られる。

「おい!」

 慌てたような芳川会長の声が聞こえて、転ばないよう気を付けながらも俺は背後を振り返った。
 薄暗い中、確かに会長と目があった。
 その表情は、とてもじゃないが感情がないという人間のする表情とは思えなくて。
 戸惑いを顕にした会長に、場違いながらも前の会長に会えたみたいで嬉しくなってしまう。

「あ、あの……すみません、会長……こんな時間まで付き合って下さってありがとうございました」
「待て!」
「あの、約束はちゃんと守りますので」
「待てと言っているだろう……っ」

 遠くなる声。
 阿佐美はというと、会長のように呼び止めるわけでも追い掛けてくるわけでもなく、ただ逃げる俺達を見詰めていた。その目が酷く、薄気味悪く感じた。
 そんな中、

「齋藤、後ろ向いてる暇あるんなら自分で走りなよ」

 やんわりと叱られ、慌てて顔を上げる。

「ぁ、ごめ……」
「言いたいことはたくさんあるんだけどね、取り敢えず、外まで全力疾走してもらうから」

 外、ということは、校舎を出るということか。
 それとも、またこの学園を立ち去るハメになるのか。分からないが、迷っている暇はない。

「ついてこれる?なんならおぶるけど」

 そう底意地の悪い笑みを浮かべる志摩。確かに志摩は運動神経いいし、足も早い。
 対する俺は体調が万端でも志摩に追い付く自信はないし、おまけに阿佐美の顔を見たせいで治まりかけていた下腹部が痛みだす始末だ。
 けれど。

「いや……大丈夫」

「ついて行けるよ」何が何でも着いていく。
 例え追い付けなくても、追い付こうとする努力をしなければ距離が開くばかりだから。
 もう、志摩を一人にしたくなかった。
 そうすることが、一番志摩への恩返しになると思ったから。

「……言ったね?」

 嬉しそうに細められた瞳は真っ直ぐに俺を見据え、そして、

「男に二言はないんだよ」

 含んだような笑顔。志摩が何か一言言ってやらないと収まらない性分だというのは既に知っているが、それが相手の言葉と真意を試しているもののように聞こえ、俺は咄嗟に「わかってる」と答えた。

「……俺は志摩に着いていくよ、どこまでも着いていくから」

 だから、とその先の言葉は言葉にならなかった。
 ただ志摩の表情から笑みが消え、ふい、と志摩がそっぽ向く。

「齋藤も、なかなか恥ずかしいこと言うね」

 それはお互い様のような気がするが、握り締めてくるその手が一層強まったのを感じた。
 警報が鳴り響く夜の校舎、教師たちが集まって来ているのを避けながら、俺達は一度学生寮に戻ることにした。

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