天国か地獄


 18

「まさか、君が俺を脅すとは思わなかったな」

 静かに笑う芳川会長。
 その目に明らかな敵意が込められていることに気付いてしまい、どうしようもなく辛くなる。
 仕方ないとわかっていても、前のようにはなれないと分かっているから、余計。

「脅すつもりはないんです。ただ、お願いを……」
「建前はいい」

「言う事を聞けと言ったな。一緒に居ればいいのか?」尋ねられ、無言で頷き返せば芳川会長は何かを言いたそうにし、目を伏せる。
 呆れた、とでも言うかのように。

「俺には、君が何を考えているのか理解出来ない」
「……俺は、会長と前みたいに、また一緒にいたいだけです」
「嘘だな」

 嘘ではないが、心の奥底ではとうに無理だと気付いていた。
 それでも、そこまでハッキリと切り捨てられてしまえば取り付く島もない。
 口ごもれば、会長に顎を掴まれる。
 強引に顔を上げさせられれば、すぐそこには会長の顔があって。

「君は、俺のことが嫌いだろう」

「目も合わせたくない、という顔をしている」何を考えているのか分からない、深い黒い目がじっとこちらを覗き込む。
 嫌い。そう指摘されても、俺はそれに頷くことができなかった。
 俺には好きとか嫌いとかがよく分からない。
 けれど、会長にそう指摘された時確かに俺は「違います」と言い返しそうになった。

「君にメリットはないように思えるが」

 恐らく会長は、全て打算で考えているのだろう。
 そのことが酷く悲しく思えてしまうのは同情からか、分からない。

「……メリットならあります」
「……なに?」
「俺は、会長と話がしたいと思ってました。聞きたいことも、たくさん」
「それに答えろというのも君の言うお願いか」

 お願いという単語が冷たく聞こえたのは恐らく気のせいではないはずだ。
 それでも、ここまで来て退くわけにはいかない。
「はい」と頷き返せば、会長は少しだけ押し黙る。
 そして、

「勝手にしたらいい」

 会長の言葉に、一瞬思考が停止する。
 勝手にってことは、断られていないというわけで。
 交渉成立。その四文字が脳裏に大きく浮かび上がる。

「あ……ありがとうございます!」

 つい、俺はそう声をあげていた。
 それに、会長は呆れたように眉間を寄せる。

「君は自分が何を言っているのか理解してるのか?」

 そうか、俺がありがとうというのはおかしいのか。
 最早善悪もわからない今、ただ会長が俺に乗ってくれたことだけが嬉しかった。
「理解し難いな」と吐き捨てる会長に恥ずかしくなったが、分かってる、これで全てが変わるわけではない。
 肝心なのは、これからだ。

「あの、会長」

 レンズ越し、会長の目がこちらを向く。
 つい逸しそうになるのを堪え、俺はまっすぐにそれを見つめ返す。

「少し、散歩しませんか」
「俺の部屋に俺と二人だけは嫌なのか」
「あの、いえ、そういうわけじゃありませんけど」

 流石に、不自然だっただろうか。相手は会長だ。
 いくらなんでも、ここまで言うことに聞いては……。

「構わない」

 今度こそ、驚きのあまりに凍り付いてしまう。

「しかし、消灯時間まで時間がない。遠くにはいけないぞ」

 時計を確認する会長は続ける。信じられない、というのが本音だ。
 もしかして全部読まれてるのではないだろうか、その上で、俺の様子を伺われているのか。どちらにせよ、構わない。
 目的は会長と一緒にいるところを見せることなのだから。

「ありがとうございます」

 口にしてから、ハッとする。今度は会長も何も言わなかった。
 会長と学生寮を後にする。既に辺りは暗く、人気はない。
 けれど、八木と阿賀松が落ち合う時間までそうないはずだ。
 とにかく、長く、会長と一緒にいたかった。誰かの目に触れるように。
 周囲を気にしているのは会長も同じだったが、恐らく俺とは逆なのだろう。
 沈黙の中、ひたすら歩く。目的地に辿り着くには少し時間が掛かってしまったが、会長は何も言わなかった。

 学園敷地内、中庭。

「……ここは」

 扉を開けば、花の香りととともに風が吹き抜ける。
 その風に、芳川会長が僅かに目を細めた。

「すみません、わざわざ付いてきてもらって。……会長と一緒じゃないと、なんか、来にくくて」

 人目のこともあったが、ここを選んだことには他にも理由があった。
 以前、会長が夜の中庭が好きだと言っていた。その言葉を思い出し、話をするならここが良いだろうと思ったのだけれど。

「…………」
「……あの、会長……?」
「君は、俺と馴れ合いをしたいのか」

 馴れ合い、というのは以前のように一緒に出掛けたり、話したりということなのだろうか。
 それは無理だとわかっている。それでも。

「……俺は、会長と揉めたくないと思ってます」
「嘘だな」
「嘘じゃないです」
「君は、俺のことを軽蔑してるはずだ。簡単に掌返すやつだとな」

 何を考えているのかわからない。
 中庭へ足を踏み込む芳川会長の背中がやけに遠く見えたのは確かで。
 胸の奥が、また軋む。

「それは……思いました。……すごく、ショックでした、けど、会長だって事情が……」
「そんなものないと言ったらどうする」
「え?」
「君に飽きた。ただそれだけと言ったら?」

 どうして、そんな風に言うのだろうか。
 こちらを振り返る芳川会長の姿が一瞬ぐにゃりと歪む。
 自分が泣きそうになっていることに気付き、必死に涙を飲んだ。

「そんな、こと……っ」

 泣くな、試されているのだ、これは。
 腹を探られているのだ。わかっているけど、ダメだ。癒え掛けていた傷口を無造作に抉られるみたいに、胸がざわつく。息が、乱れる。

「……俺は、会長が、そんなちょっとの感情で動かされるような人だとは思いません」

 少なくとも、飽きる飽きないで動くような人ではない。そう理解してるのに。

「思い込みだな」

 その言葉に、頭を殴られるようなショックを受けた。
 ダメだ。このままでは芳川会長のペースに呑まれる。

「……飽きるほど、俺に思い入れてくれてたんですか」

 息を吐き出すように絞り出した声は自分のものとは思えないほど、冷たく響いた。
 その代わり、必死に堪えていた涙が溢れそうになり、頬を汚さないよう拭う。

「今度は泣き落としか」

 しかし、会長には見られていた。
 今までずっと俺の中で張っていた虚勢に音を立て亀裂が走るのを。

「他の奴らなら少しは効いていたのだろうが、悪いな。俺はどうも感じないようでな」

 中庭に淡々とした声が反響する。

「君の言うとおりだ。……俺は、どうも他人に関心が持てない」

 そう語る会長が嘘を吐いているようには思えない。
 そのことが余計悲しくて、辛くて、無性に何かに縋りたく為るのを堪えるため、俺は拳を握り締める。

「っ、なら……壱畝遥香は特別なんですか……」

 風が止まった、そんな気がした。
 目の前、佇む芳川会長の表情が僅かに変化する。それも、一瞬のことだった。

「なるほど、もう聞いていたのか」

 そう意外そうに口にする会長だが、否定はしなかった。

「言っただろう、関心は持てない。けれど俺も物事を考える脳は持っている。どうすればいいのかくらい理解してるつもりだ」
「だから、そんなことのために、わざわざ栫井を退学にさせたんですか」
「…………」

「会長」と促せば、押し黙っていた会長はゆっくりと目を細め、息を吐き出す。

「邪魔だからだ」

 それは、容赦のない言葉だった。
「これで満足か?」とでも言うかのようにこちらを振り返る会長。その目にはやはり、何も感じない。
 腹の奥底、忘れかけていたどろどろとした感情が込み上げてくる。
 息が浅くなり、拳を握る手に力が籠もる。そこで自分が怒っていること気付いた。

「栫井は……っ、ずっと、会長のことを考えてました……」
「だからどうした。それは俺の命令ではない。あいつが勝手にしたことだ」
「……ッ」
「それともなんだ、君はあいつに優しくしてやれとでも言うのか?」

「馬鹿馬鹿しい」そう、切り捨てる芳川会長の言葉はどこまでも冷たく、鋭い。
 言い返す言葉すら見付からず、自分のことを言われた以上に、胸が痛かった。

「……俺は……っ」

 優しくしろとまで、言うつもりはない。
 ただ、もう少しだけ栫井の気持ちを汲み取ってくれたら。
 そう思うのに、口を挟むことすら出来ないほどの会長の拒絶に何も言えなかった。

「何を吹き込まれたが知らないが、君はまだ分かっていないようだな」

 矢先、伸びてきた会長の手に顎を掴まれた。両頬を潰すように食い込む指先。
 すぐ目の前にある芳川会長の顔に、緊張する。

「あいつが俺のために動いていただと?それこそ空事だ。……あいつは、君を嵌めようとしたんだぞ」
「それ、は……」

 確かに、栫井が潔白とは思わない。
 けれど、真っ黒ではないと知ってしまった今、栫井の行動の裏に会長がいると知ってしまった今、だからといって見捨てることは出来なかった。

「確かに、栫井は疑われるようなことをしたかもしれませんが、それは」
「俺のためだというのか?」

 ぎっと、顎を掴んでくる指先に力が加えられる。
 皮膚にめり込む会長の指。鈍い痛みに全身の筋肉が引き攣った。

「君は随分と栫井を買い被っているようだな」
「っ、ぅ、あぐ……っ」
「あいつは可哀想で、俺は悪者か」
「……そういう、意味じゃ……っ」
「そういう意味だろ!」

 初めて聞いた、会長の怒鳴り声。
 夜の中庭に響くその声は先程までの余裕は感じられなくて。
 真正面、こちらを見下ろすその目に滲む怒りに、不快感に、全身が恐怖で竦みそうになる。

「……君は、あいつのためには怒るのか」
「……っ」
「俺の前では一度も怒って見せなかったのにな」

 息を吐くように、続けられるその言葉に全身が反応する。
 呆れられたような、失望したような、イラつきが混じったその声に確かに俺は反論しそうになった。
 会長だって。
 会長だって。

「……会長、だって……言ってくれなかったじゃないですか……っ」

 気が付いたら口から言葉が溢れていた。
 涙は出なかった。それ以上に、悲しかった。寧ろ、虚しかったというべきだろうか。

「すべてを話していたら、君は俺の傍にいてくれたのか」
「……っ」

 その会長の言葉に、余計胸を抉られるようだった。
 俺は、会長を信じることが出来なかった。
 会長も、そんな俺を『用済み』だと見限った。
 それが、もう答えだった。
 分かっていたが、分かっていたけれど、今まで会長と一緒にいた時間がすべて上辺だけのもので無駄なことだった、そう言われているみたいで、遣る瀬無くて。

「これ以上は話しても無駄だ。俺と君は相容れることはないだろう」

 諦めたようなその声が、余計辛かった。
 離れる指先。会長と話して、会長を理解しようとして、そんなことしても余計自分が情けなくなるだけだと分かっていたというのに。
 一瞬、会長のレンズの奥、悲しそうな色が覗いたことに気付いてしまった瞬間自分の中で堰き止めていた何かが溢れ出しそうになる。

「……戻るぞ、風が冷たくなってきている」

 背を向け、校舎へと繋がる扉に向かって歩き出す会長。

「会長……っ」

 気が付いたら、勝手に体が動いていた。
 咄嗟に会長の腕を掴めば、ゆっくりとその目がこちらを向く。

「……なんだ」
「お……俺は……っ」

 射抜かれるような視線には先程一瞬見せた寂しそうな色はなく、変わらない冷たい表情が張り付いていて。
 少なくとも、やっぱり俺には会長のすべてが演技だとは思えなかった。
 優しいのも、冷たいのも、全部会長で。
 栫井の言葉が蘇る。けれどもう、優しい会長に出会うことはないのだろう。
 そう思うと、胸の奥、言葉にし難い熱が溢れ出す。

「俺は……会長のことを、本当に尊敬してました」
「……」
「……それは、本当です」

 俺は、会長を嵌めようとしてる。
 志摩が聞いていたら甘いと怒られるだろう。
 それでも、もう、冷たい会長にも会えなくなると思ったら。
 仲直りしたいとは思わないが、それでも伝えたかった。
 転向してきて間もない頃、会長の存在に助けられたのは事実だから。
 だから。

「かいちょーー」

 ありがとうございました、そう言いかけた矢先だった。
 視界が翳ったと思った次の瞬間、唇に、柔らかい感触が触れた。
 それがなんなのか、理解するのに時間は掛からなかった。
 キスされた。
 そう理解した瞬間、頭の中が真っ白になる。

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