17
学生寮、芳川会長の部屋の前。
封筒を抱き締め、俺は恐る恐る扉をノックする。
しかし、いつまで経っても反応はない。もしかして、いないのだろうか。話では早退したと聞いていたのだが。
不審に思いながらもそのドアノブに手を掛けるが、開かない。
どうやらいないようだ。内心安堵する反面、こうなったら芳川会長に会うことすら儘ならなくなってしまうという事実に気が急く。
もう一度、もう一度だけ確かめよう。そう、扉を叩こうとしたときだった。
「そこでなにをしている」
背後から掛けられたその冷たい声に、冷水を浴びせられたかのように全身が凍り付く。
恐る恐る振り返れば、そこには。
「芳川、会長」
「わざわざお見舞いに来てくれたのか?」
変わらない様子の、いや、もしかしたら平然を装っているだけかもしれない、とにかくそこにはいつもと変わらない芳川会長がいて。
ただ違うのは、俺を見るその目だ。
何を考えているのかわからない、会長の目を見てそんな感想を抱いてしまうのは恐らく、俺自身が会長を遠くに感じているからか。
「……いえ、話があってきました」
怖気付くな。会長が何者であれ、俺と同じ人間には変わりない。
怖気付くな。言い聞かせるように頭の中繰り返す。
「お話か。一人か?例の友達はどうした」
「志摩は、いません。俺だけです」
「そうか」と呟く会長は相変わらず何を考えているのかわからない。
けれど、やはり人目があるからかいきなり殴りかかってくるような真似をしなかっただけ、安心する。
「……入れ、ここじゃ話しにくいんだろう」
「……」
「どうした、別に用がないというのならここで帰ってもらっても構わないんだぞ、俺は」
恐らく試されているのだろう。
扉の前までやってくる会長に、無意識のうちに数歩下がってしまう。
自分からのこのこと敵の懐に入るような真似、とは思ったが、これは会長の懐に入らなければならない。入るしかない。
「……失礼します」
開かれる扉、俺は招き入れられるがまま足を向かわせた。
会長の横を通り過ぎた時、一瞬、会長と目が合った。
「ああ、ゆっくりしていってくれ」
「君さえ良ければの話だがな」そう笑う芳川会長。
閉められる扉、錠が落ちる音を聞きながら俺は改めて自分の後ろ道が絶たれるのを感じた。
会長の部屋の中。以前と変わらない質素な部屋。そこには俺と会長以外の気配はない。
つまり、一対一だ。
「飲み物は?」
「いえ、……その、結構です」
「遠慮しなくても構わないんだぞ」
「長居するつもりはありませんから」
俺の言葉に、僅かにぴくりと会長のこめかみが反応する。
とにかく、相手のペースに呑まれることだけは避けたかった。
考えた結果が、志摩だ。口先だけは達者で他人を誘導することを得意とする志摩を見習ってみたのだが、思った以上に居心地が悪い。
「……それで、話というのは?」
「芳川会長に……いえ、伊東先輩の耳に入れたいことがあってここに来ました」
「ほう、なるほど。ところで伊東とは誰のことだ?」
白を切ってる。というのはすぐに分かった。
会長の口元に浮かぶ笑み。本当に覚えのないなら俺の知ってる会長はそれこそ無反応なはずだ。
「覚えてないんですか?今年で三年目の芳川という姓よりは馴染み深いと思うんですが」
その言葉に、一瞬、会長から笑みが消える。
正確には表情が消えたというべきか。会長の心情読み取れなくなって、背筋に冷たい汗が流れ落ちる。
それでも、反応したことには違いない。
立ち止まってる暇はない。会長に主導権を奪われる前に「阿賀松先輩たちが」と俺は口を開いた。
「……阿賀松先輩たちが、栫井の怪我のことで会長を告発しようもしています」
「…………それで?」
「阿賀松と繋がっている生徒の部屋からこれを見付けました」
持っていた封筒の中、あの盗撮カメラを現像した写真たちをテーブルの上に広げる。
それらに目を向けた会長だが、黒目を動かして見るだけで相変わらず何を考えているのかわからない。
そして、レンズ越し、その黒目が俺を向いた。
「何故……わざわざ俺に報せる必要がある?」
「このままでしたら会長の処罰が決定的なものになると思ったからです」
「そうか、心配してくれるのは有難いが、その心配は無用だ」
テーブルの上、広げた写真を手に取った会長はそれを破り捨てる。落ちていく断片。ここで気圧されては駄目だ。自分に言い聞かせるように呟き、俺は顔を上げた。
「阿賀松が退学したことでその権威が形を失くしたからですか」
「ああ、それは君が一番知っているだろう。いくら残党共が騒いだところで決定的な証拠にはならない」
「俺は、そうは思いません」
会長の指が反応するのを見逃さなかった。
ゆっくりとこちらを見上げてくるその目に睨まれるだけで、体が竦みそうになる。
けれど、確かに手応えはあった。あったのだ。
「阿賀松先輩と同等の力を持ってる生徒がいたことを知っていますか」
「……」
「理事長の孫はもう一人います」
「そいつは、阿賀松先輩として成り済ましてつい先日、学園を辞めさせられました」どこまで話すつもりか迷ったが、会長相手に勿体振っているといつ喉元を食い破られるかわからない。
会長は、やはり表情には出さない。
けれど、
「君は、阿賀松がまだこの学園に残っているとでも言うのか」
食い付いてきた。会長が俺の言葉に関心を持っている。
そのことだけで気持ちが昂りそうになったが、まだだ。まだ、もっと近付いてくるのを待たなければならない。
「……はい、そして、会長の過去のことも全て、調べていました」
「……」
「会長」と、呼びかけようとした時。
深く芳川会長は息を吐く。少しだけ驚いた時、
「単刀直入に聞こう。君は何が言いたい」
来た。俺は頬が緩みそうになるのを必死に堪え、目の前の芳川会長に目を向けた。
「……まだ阿賀松先輩がいるということは何をするかは分かりません。リコールだけで済めばいいと思いますが、俺には先輩がそれで治まる人とも思えません」
「不思議だな」
俺の言葉に、ぽつりと会長は呟く。
「え?」と聞き返せば、皮肉げに笑う会長と視線がぶつかった。嫌なものが背筋に走る。
「まるで俺ばかりが危険に曝されるみたいな言い草ではないか。あいつを陥れることに手を貸してくれた君も他人ごとではないと思うが」
「……」
「君の言動はアラが目立つな。俺を騙すつもりならばまず自分がどのような立場にいるか、そしてその証拠とやらの信憑性を示すべきではないのか?」
疑われている。
会長の指摘は最もだ。けれど、忘れていたわけではない。
どれが一番会長を納得させる事が出来るのか、直前まで迷っていただけだ。……そしてそれは、今でもわからない。けれどこのまま黙っていると墓穴を掘るばかりだ。
「……会長の言うとおり、俺も例外ではありません」
「ならば」
「俺はこの数週間、阿賀松先輩の系列の病院で休養させていただきました」
「…………」
「傷口も、まだ治りきっていません。けれど、先輩に許してもらうことになりました」
「条件付きで」と、小さく付け加える。
いけるか。わからない。けれど、やるしかない。
「会長の元に戻り監視して報告する。……それが阿賀松先輩からの条件です」
「……」
本当は、阿賀松からも逃げているこの状況だ。
だけど、あくまでも俺が阿賀松の近くに居ると思わせることが出来なければ会長は俺の言葉に耳を持たないだろう。そもそも、俺のこの言葉が会長の耳にちゃんと届いているのかすら怪しいが。
「だけど、俺はもう会長たちに関わりたくありません。……こんなことに巻き込まれるのも、嫌です」
「だから、俺に話すのか」
「生憎、この写真はまだ阿賀松先輩の手に渡る前のものです」
「これも」と、俺は封筒の中から調書を引っ張り出す。
伊東知憲の名前が目に付いただけで会長はそれがなんなのかわかったようだ、僅かに細められるその目を見据えたまま俺は封筒に調書を仕舞い込んだ。
「阿賀松先輩はまだこのことを知らない。けれど、それも今夜までです」
「なるほど、俺を脅迫するつもりか」
「……否定は、しません。ですが、強引な真似をするつもりも俺にはありません。俺はただ、会長と揉めたくありません」
嘘ではない。会長に限った話ではないが、平和的解決が出来るのならこのような真似、したくもない。
勿論そんな俺の言葉を会長か受け止めてくれるわけがなく。
「ならばあれは不本意ということか」
あれは、というのは注射器のことを言っているのだろう。
誰だって訳の分からない薬品注射されそうになったら躍起になるはずだ、けれど会長にとってそんなこと、問題ではないのだろう。
着眼点はむしろ、
「すみません……俺の言い方が悪かったですね」
「会長には今までたくさんお世話になってきました。……なので、これは俺個人のお願いです」策も罠も関係ない、と言い切れない決して真っ白な言葉ではない。けれど、嘘ではない。
「今夜だけでいいので、俺を側に置いてもらえませんか。……見掛けだけで構いません、以前と同じように、俺を側に」
時間がない。無理矢理でもいいから、会長の側にいる必要が俺にはあった。
束縛もされずに、会長の隣にちゃんと、俺が。阿賀松達に、まだ俺と会長が繋がっていると思わせるために。
「受け入れてもらえないのなら、それでも仕方ないと思います。けれど、その時はもう会長をお助けすることは俺には出来ません」
喉が乾く。こんなに短い時間で沢山話すことなんてなかったからか、恐らく緊張の分もあるがとにかく、全身の水分が汗になって流れているような気がしてならないのだ。
一分足らずの僅かな沈黙が流れる、それでも俺にとっては酷く長いもののように思えた。
「……なるほど、君が言いたいことはわかった」
やがて、会長はゆっくりと口を開いた。
少し強引過ぎたかもしれない、けれど、やれることはやったはずだ。会長を見上げたのと、会長がソファーから腰を上げるのはほぼ同時だった。
「だが、俺は不思議でならない。こんな美味しい餌を俺の前に持ってきて、大人しく言う事を聞くと思ったのか」
どこに行くのだろうか、その姿を目で追った時だった。
伸びてきた手が、胸ぐらを掴む。
力いっぱい体を引き上げられ、強引にソファーから立たされた。
「……俺が、力づくで奪うと思わなかったのか?」
「……っ、!」
すぐ目の前には、変わらぬ冷たい目をした会長がいた。
真っ直ぐとこちらを向く鋭い眼差しに、胸の奥まで射抜かれてしまったみたいに、一瞬、体が動かなくなった。
「君がこんな大胆な真似をするとは思わなかったよ。……しかし、お陰で手間が省けた」
「その点は感謝しよう」そう続ける会長。
その冷たい声からは感謝の気持ちなど微塵も感じられない。
それどころか、掴んでくる指先の力は増すばかりで。
「っ、ぁ」
襟首が締まり、息が、詰まりそうになる。
圧迫される器官、脳の酸素が段々と薄れ、全身の力が抜け落ちていくのがわかった。そんな中、指先から封筒が滑り落ちた。
「……ッ」
咄嗟に拾おうとするも、指先が思うように動けなくて。
あっさりと会長にそれを奪われてしまう。
「っ、会長……」
取り返そうと手を伸ばせば、思いっきり突き飛ばされた。
背後のソファーがクッション代わりになったものの、その拍子に腰を強く打ってしまう。
呻いている間に封筒の中から書類を引き抜いた芳川会長に、鼓動が加速した。
「これは……」
先ほどまでの会長の無表情がみるみるうちに険しくなる。
ああ、やっぱり、駄目だったんだ。俺のコピーの仕方。
「……すみません、コピー機の使い方がよくわからなくて」
潰れた文字は見えないようにと封筒で隠してたつもりだが、やはり、コピーだとすぐに気付かれてしまうとは。
本当は、もう少し騙されていて貰いたかったのだけれど、それも難しそうだ。
「あ、あの……でも、原本の方はちゃんと綺麗にとってますので安心して下さい」
「……君は……っ」
こちらを睨んでくる会長。
やっぱり、面と面を向かうのは怖い。
けれど、なぜだろうか。先ほどまでの余裕の会長の態度が崩れたことに、酷く高揚を感じている自分がいた。
「お願いします、俺の言う事を聞いて下さい」
そんな自分から必死に目を逸らしながら、俺は、もう一度会長に頼み込む。
最初から、どうなるかくらい分かっていた。会長に奪われることも、全部、想定内だ。
だから俺は全てを志摩に託して手ぶらで来た。
けれど、
「……じゃないと、俺だけではどうしようもないことになりますので」
どれだけ考えてもいつでも想定外の行動を取る志摩が何するかは俺にも分からないのだ。
苦笑する俺に、会長の顔が引き攣る。
←back