天国か地獄


 16

 夜になり、八木が出かけた。
 終始無言だったため、どこに行ったかは分からない。
 けれど、まだあの封筒は引き出しの中にある。
 それも、今夜の内に阿賀松の手に渡ってしまう。つまり、今しかない。

『齋藤?』
「……今夜、八木先輩、阿賀松と会うみたいだ」

 八木がいなくなったのを見計らい、俺は志摩に電話を掛けた。
 特に志摩は驚いた様子無く、だからといっていつものような軽薄な態度を取るわけでもなく。

『今八木はどこにいるの?』

 受話器越しに聞こえてくる志摩の声はどこか硬かった。

「いない、定期会議があるから多分、三十分は大丈夫だ」
『わかった。なら、それを持って出てきて……』
「その事なんだけど、頼みがあるんだ」

 志摩の言葉を遮るよう、俺は思い切って口を開いた。
 八木といる間も、必死になって考えていた。これからのことを。最善の方法を。
 その結果。

「志摩、これをこの部屋から盗み出すことは出来る?」

 その言葉を出すことにかなり抵抗はあった。今でも迷っていることも事実だ。
 それでも、今の俺の頭ではこれが限界で。

『……は?』

 聞こえてきた志摩の声。
 携帯片手に呆れ果てる志摩を容易に想像することが出来た。

「八木先輩はまだ使えると思うんだ。だから、俺はもう少しこっちに残りたいんだ」
『だから、その代わりに盗み出せと?』
「ただ盗み出すわけじゃない。会長たちの仕業だって思われるようにしたいんだけど」
『それを種に八木を煽って利用するつもりだね』

 悪いほうで物分りがいい志摩に、今だけは感謝しなければならない。
 八木に怪しまれている今、このままでは勘付かれるのも時間の問題だと分かっている。
 けれど、アクシデントがあれば。また、八木の警戒は薄れてくれるのではないだろうか。なんて、淡い期待を寄せる自分がいた。

「……難しいかな」
『あくまで生徒会の仕業としたいんだったら、俺じゃダメだろうね。八木にも顔割れてるだろうし、こそこそやっても気付かれなきゃ意味がない』
「いや、でも、別に姿を見せるまでしなくても」

 痕跡だけでもいいから、八木たちに生徒会の仕業と連想させる何かがあれば。
 そう、口籠ったのと受話器の向こうの志摩が笑ったのはほぼ同時だった。

『記録を残すんだよ、齋藤』

『俺にいい考えがあるよ』と、志摩は静かに続ける。
 その声音は先程よりもいくらか柔らかくなっていて、「本当?」と咄嗟に聞き返せば『うん』と志摩は自信ありげに笑う。

『栫井を使おう』

 一瞬、志摩の言っている意味が分からなかった。

『シナリオはこうだよ、副会長の座を取り戻すために会長に命令された栫井平佑は八木の部屋に侵入。齋藤をその部屋に置いたのも全部利用する為だった、ってね』
「っ、ちょ、ちょっと待ってよ……っ!」
『栫井には俺の方から言っておくよ。八木が芳川を陥れるための証拠を今夜阿賀松に引き渡すつもりだっていえばあいつ、簡単に動くよ』
「だから、待ってってば!」

 こちらの話を聞こうともしない志摩に耐えられず、咄嗟に大きな声を出してしまう。

「そんなの……そこまでしなくても……」
『でも齋藤、それが一番確実だよ』
「……っだけど」

 栫井の心情を逆手に取るなんて真似、出来ない。
 ただでさえ立場すら失ってしまったばかりの栫井をこれ以上、追い詰める真似。
 言葉に詰まる俺に、向こう側の空気が変わるのが分かった。

『それともなに?俺の手は汚させてもあいつの手は汚させないってこと?それって差別じゃない?』
「そんなこと……」

 ない、と言い切れない自分がいた。
 そうだ、同じことを俺は志摩にさせようとしているわけだ。それを、栫井相手には躊躇っている。
 志摩なら俺の言う事を聞いてくれる、どんなことでも、同じ目的のためなら躊躇いもなく。
 そう思っているからか、意識下で志摩に甘えている自分を指摘され、酷く狼狽える。

『安心してよ、齋藤。もちろん齋藤は何も知らなかったフリをすればいい、全部は栫井平佑の仕業だ』

『ね、これなら完璧でしょ』そう、笑う志摩は楽しそうで。
 確かに、志摩の提案は俺の望むものだった。
 だけど、栫井に全ての濡れ衣を被せる。
 栫井が自ら望んで会長を助けるのだから栫井は俺達を恨むことはないだろう。頭では理解出来たけれど、心が拒む。
 俺はまだ志摩のように全てを蔑ろにすることは出来ない。
 時間はない、考えてる時間も。押し黙っていると、『齋藤』と名前を呼ばれる。

『俺達に手段を選んでる暇なんてあるの?』
「……ッ!」
『目的を見失わないでよ』

 そう、一言。柔らかいその声はナイフのように鋭く、俺の心臓に深く突き刺さる。
 これは、俺だけの問題ではないのだ。志摩との、約束だ。

「……わかった」

「そっちは、任せるよ」そう答えた瞬間、自分の中の何かが擦り切れていくのが分かった。
 なんだか自分の声が他人のもののように冷たく響くのだ。

『齋藤ならそう言ってくれると信じてたよ』

 そんな俺の言葉に、志摩は嬉しそうに囁く。
 離れているはずなのに、何故だろうか、直ぐ側に志摩がいるような気がしてしまうのはもしかしたら心強さか。わからない。けれど、『了解』という志摩の声が酷く頼もしく聞こえたのは自分自身が矮小な人間だと理解したからか。
 ああいったものの、やはりどこかで栫井のことを見捨てることが出来ない自分がいた。
 汚れ仕事を栫井にさせたくはない。だけど。
『俺達に手段を選んでる暇なんてあるの?』頭の中、志摩の言葉が冷たく木霊する。これは、ただの俺のエゴだ。分かっている、けれど、これでは会長たちとしていることは同じではないのかと思わずには居られない。
 なんでもするとは思った。けれど、他人をこういう風に使うことは、俺には。

 八木が出ていって十分弱。
 恐らく食事を取りに行ったのだろう。いつ戻ってくるかわからないが、部屋の鍵を外から掛けていないところを見るにそう時間は掛からない用事なのだろう。

「……」

 志摩の言うとおりなら、そろそろ栫井がこちらに向かっているはずだ。
 そして、案の定携帯が着信を受ける。
 端末を取り出せば、志摩からだった。

「もしも……」
『俺だ。……開けろ』

 栫井だ。焦燥が滲むその声に、心臓が跳ねる。
 間に合わなかった。なんて、今になっても思ってしまう自分が可笑しくて、俺はゆっくりとソファーから立ち上がる。

「……わかった」

 栫井に、悟られるわけにはいかない。
 扉へ向かい、ロックを外す。
 瞬間、勢いよく扉が開いた。

「っわ」

 伸びてきた腕に、胸ぐらを掴まれた。
 人に掴みかかられるのも今日で何度目だろうか、なんて顔を上げれば栫井の顔がすぐそこにあって。

「……どこだ」

「アレはどこにあるんだよ」険しい表情に焦りが滲む。
 瞬間、栫井たちのことが載っていた新聞記事が蘇る。
 過去を隠したがる栫井まで、踏み躙るのか、俺は。
 そう思った瞬間、胸が抉られるようで。

「……っ」

 やっぱりダメだ。俺には、出来ない。

「さっき確認したらここには、ないみたいだから……もしかしたら、先輩がカバンに持ち歩いてるのかもしれない」

 そう思った瞬間、咄嗟に口が動いていた。
 そこまで言ったとき、栫井の目の色が変わるのを見た。
 胸ぐらを掴むその手に力が籠もり、器官が潰される。

「八木さんは」
「風紀、室……ッ」

 息苦しさのあまり、声が掠れる。
 俺の言葉を聞き、「チッ」と舌打ちをした栫井はそのまま俺から手を離す。

「っ、ケホ……」

 何も言わずに部屋から出ていく栫井の後ろ姿を一瞥する。
 これで、よかったんだ。まだ全ては終わっていないが、それでも、少しでも栫井に休まる時間が出来たのなら、それでいい。なんて、志摩に言ったら殴られても仕方ないだろう。
 生徒会の仕業にするなら、仮にも会長と手を組んで阿賀松を嵌めた俺でも出来るはずだ。
 どっちつかずの裏切り者の俺でも。
 そもそも八木先輩ともう少し仲良くなりたいなんて、烏滸がましかったんだ。
 部屋の中、引き出しの中に置かれた封筒を取り出す。
 会長の行動の裏になると思えば封筒が酷く重く感じて。

「……すみません、先輩」

 落とさないよう、適当な紙袋に詰め込んだ俺はそのまま部屋を飛び出した。
 学生寮の廊下を、自分の姿がカメラに残るように小走りで。 

 封筒を抱えて部屋を出る。一分一秒でも惜しくて、部屋から遠ざかりながらも俺は携帯を取り出した。
 そして、履歴を呼び出し志摩に電話をする。志摩はすぐに出た。

「志摩?」
『栫井、そっち行ったでしょ?』

 嬉しそうな声。
 恐らく四方から疑いを掛けられる栫井を想像して楽しんでいるのだろう。
「うん、来たよ」とだけ答えれば志摩が笑う気配がした。それも、束の間。

『そ、ならよかった。じゃああとはこっちに……』
「封筒は、俺が持ってる」
『……は?』
「これから会長に会いに行く。阿賀松の味方のフリして、話に行ってくる」

 志摩と話すときは相手に主導権を握られてはならない。
 そう思ってしまっているからか、それとも歩きながらだからか、自然と語尾は早まってしまう。

『ちょっと、ちょっと待って。話が見えないんだけど』
「やっぱり、栫井にばかり任せられないから俺が代わるって言ってるんだよ。作戦は、志摩の言った通りにする」
『齋藤、本気で言ってるの?』
「……」

 呆れたような志摩の声。
 もしかしたら志摩に怒鳴られるかもしれない。
 それくらいは覚悟していたのだが、返って来た言葉は俺が想像していたものとは違うもので。

『わかった、取り敢えず合流しよう。すぐにそっちに行くから……』
「悪いけど、それは出来ない。……志摩には他のことをお願いしたんだ」
『お願い?なに?』
「栫井が風紀室に向かってるはずだから適当なこと言って止めておいてほしいんだ」

『齋藤』と、受話器の向こうで志摩が息を飲む。
 離れているというのにその声には僅かに緊張が走っていて、志摩がこうも動揺を表すことに驚いたが、それ以上に思っていたよりも落ち着いている自分自身に驚いた。

「ごめんね、でも、阿賀松たちが動いて二人を裏切ってるって知られる前に会長に会っておきたいんだ」

 栫井の代わりに俺がなるからにはそれ相応の効果を与えなければならない。
 俺自身の立場で利用できることといえばやはり、阿賀松と繋がっていたという事実だ。
 そのことを利用すれば、この調書の信憑性も少しは上がるはずだ。
 そうすれば、芳川会長への揺さぶりも。

『……本当、信じられない』
「……ごめん」

 大きな溜息に耳が痛い。
 けれど、今が絶好のチャンスなのだ。いや、最後の好機と言っても過言ではないかもしれない。

 エレベーター側のラウンジまで近づいたとき、ふと足音が聞こえてくる。

「とにかく、栫井のことよろしく。……また後で」
『っ、齋藤ッ!さいと……』

 志摩には悪いが、このまま通話を聞かれていたらまずい。
 一方的に通話を終わらせ、俺は携帯を仕舞った。
 そして、もう片方のポケットの中に忍ばせた硬質な感触を確認する。
 八木の机から拝借した、スリムタイプのカッターナイフ。

「……」

 こんなものを持ち歩かなければならないなんて思わなかった。
 出来ることならこのまま持ち出すことないよう済めばいいと思っている。
 でも、どうであれやるしかない。チャンスは一度切りだ。
 志摩に顔向け出来ないようなことだけはならないように。

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