03
「詩織」
授業が終わってすぐ、俺は阿佐美の机に近付いた。
阿佐美は俺から逃げるように椅子から立ち上がるが、腕を掴みそれを制す。
「なんで逃げるんだよ」
「……ゆ、佑樹君」
大柄な体格に合わない、気弱そうな震えた声。
いつもの阿佐美だ。なんとなく安心する俺に、阿佐美はキョロキョロと挙動不審に教室内を見渡す。
「どうしたの?」
「お、俺……トイレ」
「え?」
阿佐美はそう呟けば、俺の腕を振り払い教室を飛び出した。
今度は止める隙すらなくて、俺は唖然と阿佐美が出ていった扉を眺める。
「ああいうやつなんだよ。人見知り酷いから、すぐ逃げる」
「……なるほど」
いつの間にかに背後に立っていた志摩に度肝抜かれながらも、俺は納得したように頷いた。
一応俺としては阿佐美と仲良くなったつもりだったが、阿佐美はそうではなかったらしい。
よくわからないやつだと思った。
「阿佐美の尻追いかけ回すより、俺とお話しようよ」
「変な言い方すんなって」
「嫌だった?ごめんね」
確かに間違ってはないけど。
俺は挑発的な志摩の言葉に顔をしかめる。
口では謝る志摩だったが、相変わらずニコニコと涼しい笑みを浮かべているせいか全く反省の色が見えない。
飄々とした志摩は、きっとなにを言っても受け流しそうだ。
俺は志摩の顔を眺め、思わず苦笑する。
「もう帰っていいんだっけ」
「多分」
「結局阿佐美、トイレから帰ってこなかったね」
「そうだな」
放課後。
他愛ない会話を交えながら、俺たちは教室を出た。
あれから阿佐美はどこに行ったのだろうかとか気になったが、どうせ部屋に戻れば会えるだろう。
思いながら歩いていると、向かい側から見覚えのあるピンク頭の生徒が歩いてきた。
瞬間、いきなり安久に胸ぐらを掴まれる。
「どういうつもりだ!」
「……はい?」
眉間に皺を寄せ、安久は俺に顔を近付け怒鳴った。
あまりにも大きな声に、俺はびくりと体を震わせる。
意味がわからない。いきなりの出来事についていけない俺は、頭上に無数のクエスチョンマークを浮かばせる。
「まさか本当に伊織さんと付き合ってると思ってんのかよ、アンタ」
「いきなり、なに言って……っ」
「一回抱かれたくらいで自惚れてんじゃねえよ。伊織さんはな、お前のことこれっぽっちも、微塵にも思ってないんだからな」
おいおいおい、人前でいきなりなんてことを言い出すんだこいつ。
俺は咄嗟に安久の口を塞ぐが、これはきっとというよりもろ志摩に聞かれている。
息苦しそうな顔をする安久、ちらりと隣にいる志摩の方を見た。
「なんの話?」
志摩は目を細め、俺を見た。冷ややかな視線に対し、俺はなんて言えばいいのかわからず、黙り込む。
『こいつがいっていることはデタラメだ』と言えたら一番いいのだろうが、きっと志摩はとっくに気がついているはずだ。
サァーッと血の気が引いていくような、妙な肌寒さに俺は顔をひきつらせる。
顔を赤くしてもがく安久は、俺の手首を掴み無理矢理手を剥がした。
ゼエゼエと肩で息をした安久は、思いっきり俺を睨みつけ隣にいた志摩に目を向ける。
「へえ、アンタ色んなやつに媚売ってんだ。よりによって志摩亮太だなんて、悪趣味だな」
安久は志摩を横目にニヤニヤと笑う。
俺のことは構わないが、志摩のことまで悪くいうのは聞き捨てならない。
「お前な、いい加減に……」
「齋籐、俺なら大丈夫だから」
カチンと頭に来た俺が口を開いたとき、志摩に肩を掴まれる。
耳元で宥める優しげな声。俺は呆れたように志摩の方を見た。
大丈夫って、なにが大丈夫なのだろうか。精神的にタフだから大丈夫?俺にはよくわからない。
「へえ、随分と丸くなったもんだね。そりゃあもう気持ち悪いくらい」
「悪いけど、そこどいてくれないかな。邪魔なんだけど」
「……ッ」
志摩は安久の言葉を無視し、俺の肩を掴みさっさと歩き出す。
安久は呆れたように目を見開き、悔しそうな顔をして志摩の後頭部を睨んだ。
「ちょっと、志摩」少し安久が可哀想な気がして、俺はちらちらと一人残された安久を眺めながら足を止める。
「いいから、歩いて」
志摩は強引に俺の腰に手を回し、背中を押した。
確かに面倒なやつは無視するのが一番いいのだろうが、なんだろうか。少し複雑な気分だ。
もちろん安久はそれ以上突っ掛かってはこなかった。
そのまま長い廊下を渡り、階段の踊り場までやってきてようやく志摩は俺を解放する。
「齋籐、なんで安久に目付けられてんの」
「……なんていうか」
立ち止まった志摩は、呆れたような顔をして俺の方を見た。
俺は口ごもり、志摩から目を逸らす。
正直、俺自身よくわからない。
確実に阿賀松が絡んでいることはわかるのだが、なんであんなに安久がつっかかってくるかは謎だ。
「もしかして、なんかあったの?」
「……」
「やっぱりなんかあったんだ」
黙り込む俺に、志摩は確信したように続ける。
そりゃあもう色々ありました。
余計なことまで思い出し、俺は顔を青くして慌てて頭を振る。
「阿賀松伊織でしょ」
思わず俺は志摩の顔を見上げた。
言い切る志摩に、俺は少しだけ動揺する。
俺、そんなにわかりやすい顔をしているのだろうか。
志摩は困惑する俺を見て、小さくため息をついた。
「……なんでそう思うの」
「安久があんなに食い付くことは、絶対阿賀松絡みだからだよ」
「……」
志摩の言葉には妙な説得力があった。
ああ、なるほど。
納得した俺は小さく頷き、恐る恐る志摩の顔を眺める。
そこには先ほどまでの優しい笑みは浮かんでおらず、怒ったような志摩の顔があった。
妙な迫力に、俺は怯んだように体を縮み込ませる。
「阿賀松となにがあったの?抱かれただとか、言ってたけど」
サラリという志摩に、俺は顔を俯ける。
志摩にだけは知られたくなかったのに、こうも簡単にバレるなんて思わなかった。
さっきは上手くかわせたと思ったのに。
頑なに口を開こうとしない俺に、諦めたように志摩は小さく息を吐く。
「……そんなに言いたくないなら言わなくていいよ、別に」
「……っ」
「だからそんな顔しないで」
志摩はいまだ納得いかないようだったが、俺の頭を撫でるように押さえた。
いきなりすぎて思わずよろける俺を見て、志摩は口を開けて笑う。
先ほどまで怒ったような顔をしていたせいか、不意に戻った志摩の笑顔に俺は安心した。
「なんかあったらいつでも相談しろよ。一応、……友達なんだから」
志摩は俺の頭を乱暴に撫で、そう呟く。
どんな顔をしていたかはわからないが、どこか気恥ずかしそうな声だった。
まさか志摩の口から「友達」という言葉を聞けるなんて思わなくて、俺はじんわりと熱くなる目頭を押さえる。
もしかして、物心ついてから友達と言われたのは初めてかもしれない。
「……ありがとう、志摩」
「なんでお礼言ってるの」
あまりの嬉しさに思わず涙ぐむ俺に、志摩は可笑しそうに笑った。
そうだ、志摩たちからしたらこれは普通のやり取りなのかもしれない。でも、俺にとってそれは特別な言葉だった。
志摩の言葉だけで、随分と疲れが取れたような気がする。
嫌われなくて、よかった。笑う志摩を見上げ、俺はつられて笑った。
あれから、俺と志摩はそのまま寮へ戻ってきた。
「なんかあったら、すぐに言ってよ」
「大丈夫だって」
「ん、ならいいんだけどさ」
333号室前。
「心配だから」という志摩に部屋まで送ってもらった俺は、あまりにも心配性な志摩に戸惑っていた。
別に命を狙われているわけじゃないんだから。
俺は呆れたように笑い、志摩と別れる。
結局あれから阿賀松たちとは会ってないが、同じ寮に住んでいる限り一度や二度顔は合わせてしまうのは仕方ない。
一階のショッピングモールには、よほどのことがない限り近付かないようにしよう。
一人考え事をしながら、俺は部屋のドアノブを捻った。
鍵がかかって開かない。
てっきり阿佐美が戻っているだろうと思っていただけに、少し驚いた。
俺は鍵を取り出し、部屋の扉を開く。
ガランとした無人の部屋。どこにも阿佐美の姿は見当たらない。
「まあ、いいか」
俺は上着を脱ぎ、そのままベッドに寝転がる。
ふと枕元に置いてある携帯電話が手に当たり、俺は不意にそれを手にとった。
連絡を取る相手が家族ぐらいしかいないせいで、今となっては目覚まし時計の扱いになっている真新しい携帯電話。
その携帯電話のイルミネーションが、何週間か振りに点滅している。
俺は慌てて携帯電話を開いた。
どうやら父親からだ。ちょうど、10分くらい前にかかってきている。
俺は慌てて電話をかけ直した。暫くしてすぐ、電話は繋がった。
「もっ、もしもし!」
『……佑樹か?』
久しぶりに聞いた父親の声に、少しだけ俺は緊張する。
思わずベッドの上で正座をする俺。受話器越しの父親の声は、最後に聞いたときよりも少しだけ元気がないように思えた。
「父さん、佑樹です。いま、時間大丈夫?」
『ああ、ちょうど便所にいるところだ』
そう言う父親の声は、僅かに響いていた。
どうやら本当に便所にいるらしい。
『どうだ、佑樹。新しい学校は楽しいか』
「楽しいよ。友達も出来たんだ。その人、とてもいい人なんだよ」
そういう父親に、俺はいいながら恥ずかしくなって笑って誤魔化した。
脳裏に浮かぶ志摩の顔と言葉に、思わず俺は頬を綻ばせる。
『それはよかった』受話器から父親の、嬉しそうな声がした。
『その調子で、たくさん友達つくってたくさん勉強するんだぞ』
「わかってるよ。父さんも、仕事頑張ってね」
『ああ。お前に言われたら頑張るしかないな』
父親はそういって笑ってみせる。
『……本当はもっと話したいけど、部下が煩くてな。切るぞ』遠くから聞こえる騒がしい声に、父親はうんざりしたように言った。
父親は「便所にいる」と言っていたが、きっとそこでサボっていたのだろう。
父親の秘書の女が、血眼になって父親を捜しているのを想像して俺は思わず吹き出した。
「うん、わかった」
俺は名残惜しそうにそう呟き、強制的に父親との通話を終了させる。
もっといろんなことを話したかったのは俺も一緒だった。
でも、父親は多忙な人だ。あまり仕事の話はしたことはないが、それでも俺は父親がどれだけ重要な立場にいるか理解しているつもりだ。
あまり、父親には迷惑をかけたくない。
俺は小さくため息を漏らすと携帯電話を放り投げ、再び布団に埋もれた。
父親の声を聞いたせいか、ホームシックになる。
「……はあ」
阿佐美、早く帰ってこないかな。誰でもいいから、誰かと話したかった。だからと言って、安久とは話したくないが。
天井を眺め、ぼおっとしているとドアノブが捻られる。
阿佐美が帰ってきたのだろうか。俺は上半身を起こし、扉に目を向ける。
「おっじゃましまーす」
乱暴に開かれる扉に、思わず俺はビクリと体を震わせた。阿賀松だ。
阿賀松は部屋に上がってくるなり扉に鍵をかけ、部屋を見渡しながら笑う。
「へえ、結構片付いてるなあ。詩織と同室って聞いたからきたねーの想像してたんだけど」
「なんで、勝手に……ッ」
ベッドに近付いてくる阿賀松に、俺は逃げようとするが呆気なく足首を掴まれ、バランスを崩した俺はベッドに倒れ込んだ。
「つーかまえた」阿賀松は俺の上にのし掛かり、抱き締める。
耳元に生暖かい息を吹き掛けられ、俺は体を震わせた。
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