14
飼い慣らす、と決意したものの、どうしたらいいのだろうか。
全く分からないし検討もつかない。
まずは仲良くなった方がいいのだろうが、八木と趣味が合いそうな話題も無ければ、睨むようにこちらを見下ろしてくる八木に話し掛けられるような隙もない。
「……」
「……」
……どうしよう。
一人、ソファーの隅で固まっている時だ。
「おい」
声をかけられる。
「え、あ、はっ、はい……!」
「お前、本当に伊織さんと付き合ってたのかよ」
「……え?」
「伊織さんの趣味じゃねえんだよなぁ、色気ねえし」
色気、男の色気というものは確かにないかもしれない。
品定めするようなその目はなんとなく不愉快だったが勘繰られるのも仕方ない。
付き合うって言ったって、それこそ芳川会長への当て付けのようなものだったのだから。
「で、でも、それでも、付き合ってます……ので……」
「ふーん」
疑われているのだろうか、突き刺さるような八木の視線にだらだらと全身から汗が流れる。
そもそもこの人目付きが悪すぎるのだ。
穴が開きそうなくらい見詰められ、なんだか生きた心地がしない俺に、「じゃあ」と八木が口を開く。
「ヤったことあんのかよ」
「へっ?!」
「初めてじゃねーんだろ?」
何を言い出すのか、堂々とセクハラ紛いの質問をぶつけてくる八木に俺の緊張はピークに達する。
恐らく、嘘が本当か俺の反応を見てるのだろう。それにしても、もう少しオブラートに包んでほしいところだが。
「え、あ、その……」
口が動かない。顔面が熱くなるのを感じながら、俺はええと半ばやけくそに頷き返す。
「ふーーーん?」
すると、八木との距離が一気に狭くなる。俺の座るソファー、その隣にやってくる八木に嫌な予感がして咄嗟に隅へと逃げるが、どかりと腰を下ろしてくる八木にまた距離を詰められて。
脇の下、滑り込んできた八木の手に腕の付け根を掴まれ、上半身を引き寄せられる。
そのまま首筋に鼻先を寄せてくる八木に驚いて、咄嗟に身を引いた時。背中に背もたれが当たる。
「っあ、あの……なんですか?」
「……臭いな」
「……え?」
「なんか、薬品くせえなお前」
その言葉に、バタバタ病室から抜け出してきたばかりだったということを思い出す。
シャワーを浴びる暇もなかったし、汗が混ざって臭いことこの上ないはずだ。
「っす、すみません……」
「シャワー浴びてこいよ」
え。と、今度は俺が驚く番だった。
突然そんなことを言い出す八木に、いや、突然ではないのかもしれないが、それでも狼狽える。
「どうせ暫くここにいるんだろ?きたねえやつ置く趣味ねえから」
「体洗ってこい」と睨んでくる八木。最早命令だった。
「あ、や、でも、その」
「一人じゃ洗えねえって?」
「大丈夫です、できますっ」
「じゃ、洗ってこいよ」
しまった、と思った時にはもう遅い。
「着替え俺のでいいだろ?」
「は……はい」
わざわざ用意してくれる八木になんだか申し訳なくなる反面、やはり、よくも知らない相手、それも阿賀松の後輩の前で無防備になることに抵抗があった。
そのくせ、ようやくシャワーを浴びれるということに安堵する自分もいて。
どうしてこんなことに。今更考えたところでどうしようもない。促されるがままシャワールームへ向かう。
シャワールーム前、脱衣室。
ようやく一人になった俺はポケットの中、志摩にもらった携帯を取り出す。
着信履歴32件、全部志摩からだ。
怒ってるだろうなと思いながらも志摩に掛け直せば、コールが鳴る前に志摩は出た。
『もしもしっ?!』
やばい、すごい怒ってる。
「ご、ごめん、志摩、電話出れなくて……」
『それよりも、どういうこと?あいつ一人だけ戻ってくるし大丈夫なの?』
「ええと、その、そのことだけど、俺、暫く八木先輩のところにいるみたいだから……」
『はあっ?!』
そりゃ簡単に納得してもらえると思ってはないけど、説明すればするほど電話の向こうにいるであろう志摩が怒ってるのがよく分かる。
けど仕方ない、俺だってまだこの状況を飲み込めていないのだから。
「ええと、取り敢えず、その、協力してもらえるよう頑張るから、俺……!だから、志摩も栫井と喧嘩しないで……」
ね、と言い掛けたと同時だった。
『おい、入ったか?』
更衣室の外から聞こえてきた八木の声に、一瞬口から心臓が飛び出しそうになる。
「あっ、ま、まだです、すみません」
『ちょっと、齋藤……』
つい、そのまま俺は通話を切る。もしかして会話聞かれてはないだろうか。思いながらポケットに端末を仕舞った時だった。
勢い良く開かれる扉から、ズカズカと八木が入ってきた。
「っひ」
「まだ脱いでねーのかよ、早く入れよ」
「は、はい……」
どうやら着替えを持ってきただけだったようだ。
棚の上、乱雑に置かれるそれを一瞥すればそのまま八木は脱衣室から出ていった。
「ふう……」
気付かれなかったようだ。再び一人になった脱衣室内、ポケットの中の端末を取り出せば丁度志摩から電話が掛かってきていて、咄嗟に俺はそれに出た。
「ごめん、いきなり切って」
『別にいいけど……今どこにいるの?』
「八木先輩の部屋の……脱衣室。いまからシャワー浴びるから暫く電話出られないかも」
『はあ?!』
「ちょ、志摩、声大きいって……耳痛いよ」
『ちょっと待って、齋藤、今直ぐそこから出て!』
「出るって、無理だよ。せっかく栫井が頼んでくれたんだから」
『だって可笑しいでしょ、なんでいきなり風呂なわけ?下心しか見えないんだけど!』
すっかりヒートアップしている志摩。
志摩じゃあるまいし、と口から出そうになったがなんとか寸でのところで飲み込む事が出来た。
「な、何言ってんの……。志摩の考え過ぎだってば」
本当は阿賀松の後輩という時点で嫌な予感が満載なのだけれど、そんなこと志摩に言ったら本気で窓を破って来兼ねない。
せっかく栫井が用意してくれたチャンスだ。無下にするわけにはいかないのだ。
『とにかく、今直ぐその部屋出て!俺もすぐそっちに……』
そんな俺の意思なんて知ったこっちゃない志摩の声が、不意に激しいノイズにかき消される。
「志摩?」と端末に呼び掛けた時だった。
『……聞こえるか?』
ノイズが消え、聞こえてきたのは栫井の声だった。
どうやら志摩から携帯を奪ったようだ。
戸惑いながらも「うん」と答える。
『表向き八木さんは阿賀松と関わらない。会長もそのことを知らないはずだ。……後はそっちで適当にしろ』
「て、適当って……」
『疑われたら終わりだから。手こずんなよ』
そう一言。栫井からの連絡は素っ気ないものだった。
「え、終わりって、ちょ……」
不穏な言葉に慌てて呼びかけるが、次聞こえてきたのはツー音だった。
……切られた。
向こうも向こうで心配だが、今は目の前のことに集中するしかない。
八木は阿賀松の協力者であり、会長の支配下にある。そしてまだ会長はそのことを知らない。両方を行き来する事が出来る八木ならば、使えるだろう。
とにかく、焦っては駄目だ。冷静にならないと。
そう自分に言い聞かせ、一先ず俺は汗を流して頭をスッキリさせることにした。
あまり遅くなりすぎても怪しまれる。着ていた服を脱ぎ、取り敢えずシャワーを浴びることにした。
八木の部屋、シャワールーム。
シャワーを手に頭から熱いお湯を被ればなんだか頭が冴えるようだったが、肝心の八木との仲良くなれる方法は思い浮かばない。
そもそも短期間で飼い慣らすなんて無理だ。でも、ずっと長居することも出来ない。下手したら今日中に他の奴らにバレる可能性だってあるのだ。
そのことばかりに気がいってしまい、ダメだ。悪いことばかり考えてしまう。
一人作戦会議を諦め、一通り汗を流した俺はシャワールームを出た。
八木が用意してくれた服を着てみたが、やはりでかい。しかし文句は言えない。
なんとなく気恥ずかしくなりながらも、さっぱりしたまま部屋へと戻れば八木がいた。
私服から制服へと着替えた八木はかなり雰囲気が違う。
着込んだ制服に右腕に嵌められた『風紀』の刺繍が入った腕章、なんというか、すごく真面目そうというか……。
「お前風呂おっせーな」
声を掛けるか躊躇っていると、八木の方が俺に気付いた。
しかし中身は変わらないようで、相変わらず高圧的な態度に萎縮した俺は咄嗟に「すみません」と謝る。八木はそれを一瞥してすぐに視線を外した。
「ちょっと用事出来たから出てくる。そんなに時間かからねーから」
「あの、用事って……」
「風紀の招集掛かったんだよ」
「お前の元カレの仕業だろ、どうせ」と含み笑いを浮かべる八木に、俺は何も言えなくなる。
「とにかく、部屋から出るなよ。腹減っても我慢しろ、水だけ飲め。なんか買ってきてやるから」
「は、はいっ」
「あと、勝手に部屋漁んなよ」
「……はい……」
やっぱり警戒されてるのだろう、無理もない。まずは警戒心を解く必要があるだろう。
思いながら、俺は出ていく八木を見送った。
扉が閉まり、外から施錠される。これで、俺はこの扉から出ることは出来ない。
まあ、出るつもりもないが。
「……」
八木の足音が遠くなる。それが聞こえなくなったのを確認し、俺は部屋を見渡した。
漁るなということは何かあるのだろう、やはり。
本当はこんなことしたくないが、情報が少しでも欲しい今、背に腹は代えられない。
心の中で八木に何度も謝りながら、俺は八木の部屋を漁る。もちろん、痕跡は残さないようにだ。
サイドボードにクローゼット、デスク周り。
八木の部屋は片付けられていたため探すのが楽だった。
途中ベッド下の棚から出てきた見てはいけないものを見なかったことにしながら、隣の棚に手を掛けた時だ。引き出しの中、分厚い封筒を見付けた。何も記入されていないそれを手に取り、中を覗けばそこには無数の写真が束になって入っていて。それは学生寮や校舎の監視カメラの映像を現像したもののようだった。
そして、その写真にはどれも芳川会長の姿があって。
「っ、これは……」
もしかして、当たりかもしれない。そう、息を飲む。
写真を一枚一枚確認していると、その中からひらりと一枚の紙が落ちた。
咄嗟に拾い上げる。
それには時刻とともに会長の行動が記入されていた。
日付はいくつかあり、その中には文化祭前夜のものもあった。そして、栫井が芳川会長に殴られたあの日のものも。
八木も探っていたのだろう。この様子だと、他にも 何かありそうだ。
写真とメモを封筒に戻し、更にその引き出しを探す。
すると、一冊のファイルが出てきた。それを取り出し、中身を確認すれば中には数枚の用紙が入っている。
ゴクリと固唾を飲み、俺は一枚一枚それに目を通す。
それはとある人物のことについての調査結果のようだった。
見慣れない名前に、もしかして関係ないものだったかな、と思って仕舞おうとしたときだ。
「……これは……っ!」
そこに記入されていた文面に目を疑った。
その書類は伊東知憲という人物について纏められていた。
その経歴一覧には、七歳で両親が他界。その後親戚に引き取られ苗字が変わっているということが記されていた。
そこまではまだ、それでも他人と思えばそれ程の感想も出てこなかったが、戸籍が移動したあとの伊東知憲の名前を見て言葉を失った。
『栫井知憲』
どこにでもいる、とは言い難いその字面には強い既視感があった。
そして読み進めていけばいくほど『他人』であったはずの伊東知憲なる人物の姿が段々鮮明になっていく。
栫井の苗字であった時期もそう長くはなく、何度も苗字が変わっている様子からして親戚にたらい回しにされていたようだ。苗字が変わってから何度も補導されている。暴行や器物損壊、不法侵入とよくニュースで見るような物々しい単語が並んでるのを見て何も言えなくなった。
それも、三年前、伊東知憲が『芳川』の苗字に代わってからはなくなっている。そしてその後すぐ、この学園に転入しているようだ。
全部、俺の気のせいだと思いたかった。あの人とは関係ないと思いたかった。
れど、最後、数年前の伊東知憲の顔写真を見た瞬間確信する。
眼鏡はしていないものの、硬い表情、鋭い目も、冷たい眼差しも全部、会長のままだった。
『君は、俺を軽蔑しないのか?』
「……っ」
淋しそうに笑う芳川会長の横顔が浮かぶ。
どうしても、この書類の人物を会長とは思いたくなかった。
もう一度俺は書類に目を通し直す。けれど内容が変わるはずがなくて。
全てを読み終わり、全身から力が抜け落ちそうになるのを寸でのところで堪えた。
伊東は芳川知憲の旧姓で間違いない。
憧れていた人が、信じていた人が、俺の最も苦手とする人間だった。少なくとも、俺には優しくしてくれた。そう思うことしか出来ない自分がやるせなくて、書類をファイルに戻そうとした時。
ファイルの奥にもう一枚なにか紙切れが入ってることに気づく。
取り出したそれは新聞記事をコピーしたもののようだ。
日付は約十年前、その切り抜き部分はとある火災事故について書かれているようだ。
その火災で亡くなったのは『伊東』という苗字の夫婦のようで、他にも7歳の息子とその親戚の6歳の子供がいたようだが二人は助かってる。ざわつく胸を必死に抑えながら、記事に目を走らせる。
父親が家に残された親戚の子供を助けに戻ったお陰でその子供は助かったようだが、父親は倒れてきた家具に巻き込まれ死亡。母親は煙を吸っていたようで早い段階で死んでいたようだ。生々しい記事もだが、俺が気になっていたのは助かった二人の子供のことだった。
苗字からして亡くなったのは会長のご両親だとすれば必然的に7歳の息子が会長になる。
ならば、6歳の親戚は。
「っ、ま、さか……」
ぞくり、と寒気が走る。
栫井が芳川会長を庇おうとする理由が見えてきた気がして、同時に、知ってはいけないことを知ってしまったみたいに急激に自分の中の何かが萎んでいくのが分かった。
「……」
同情しては駄目だ、同情しては駄目だ。そう分かっているのに、目の前に炎の中燃えていく両親の姿を眺めている会長が浮かんで、息が詰まりそうになる。
本当にこんなことしていいのか。迷わないと決意したばかりだというのに、本当にどうしようもない。
震える指先で切り抜きをファイルに戻す。
引き出しを閉め、俺はポケットに仕舞っていた携帯を取り出した。
気が付いたら、俺は志摩に電話を掛けていた。
「……志摩?」
志摩はすぐに電話に出てくれる。
『齋藤、大丈夫?』
「うん……さっき八木先輩、出ていったんだ。なんか風紀、招集掛ったって」
『ああ、それならさっき放送も掛かってたね。……なら、暫くは大丈夫そうだね』
先程よりもいくらか落ち着いたようで、普段と変わりない余裕な志摩の声に俺も落ち着くのが分かった。
「志摩達は?……大丈夫?」
『俺は今自分の部屋だから大丈夫だよ』
「栫井は?」
『ああ、あいつ?そういや見てないな。どうせその辺フラフラしてんじゃないの?』
「いないのっ?」
あまりにもなんでもない風に言う志摩にうっかり聞き逃してしまいそうになるが、よく考えなくても恐ろしいことを口にする志摩に戦慄した。
「どうして呼び止めてくれなかったんだよ」
『大丈夫大丈夫、そう遠くへはいけないだろうし』
「ひ……人質を自由に歩かせるなって言ったの志摩じゃないか……」
『まあそう言ったかもしれないけどさ、あいつは齋藤の人質なんだろ?俺は手を出すなって言われたからね』
「そんな……っ」
どうやらあの時の俺の言動を根に持っているようだ。
もし栫井が会長と遭遇したらと考えただけでも生きた心地がしないのに。
『あいつを捕まえておきたいなら今直ぐその部屋出て来なよ』
そんな俺を逆手に取り、志摩は笑う。
聞こえてきたその声は冗談には聞こえなくて、恐らく本気なのだろう。
確かに栫井のことは気になったが、今はどうすることも出来ないのも事実だし、俺にはまだここでやるべきことがある。
「……っ、分かったよ、なるべく、目を離さないようにしてて。でも、手も出さないで」
栫井も、会長に探されていることは知っているはずだ。
それにこの状況でヘタに動くことは出来ないだろうし、無茶はしない……と思うしかない。
『あーあーやだね、齋藤可愛くない』
茶化すように口にする志摩。
口を開けば人を小馬鹿にしたような皮肉ばかりの志摩だが、いつもと変わらないからこそ安心出来るのかもしれない。とても真っ当なやつとは思えないが、少なくとも俺にとっては。
なんて、思いながら俺は「志摩」と端末に向かって呼びかける。
「それよりも……話したいことがあるんだ」
脳裏に蘇る新聞記事、無数の監視カメラの写真。そして、伊東知憲についての調査データ。油断をすれば、頭がこんがらがってしまう。
『いいよ、話して』
そして志摩はそんな俺の気を知ってか知らずか、あくまで軽薄に即答した。
混乱する脳味噌を必死に整理しながら、先程見たものを一つ一つ辿るように俺は志摩に説明する。
話してる最中、志摩は黙って話を聞いてくれた。
だから途中で余計なことを考えずに事実だけを述べることが出来たのだろう。
「もしかしたら、それで栫井は会長に強く出られないんじゃないかなって……」
『……ふーん』
「ふーんって……それだけ?」
あまりにも簡素、というよりも露骨な無関心に思わず聞き直す。
『だってどうでもいいんだもん、あの二人のことなんて興味ないしね』
「……」
志摩に話した俺が馬鹿だったのかもしれない。
まさに他人ごとと言わんばかりの言い草にぐうの音も出ない。
真面目に悩んでるこちらが馬鹿みたいになってくる。
すると、『それよりも』と改めて話を切り替えてくる志摩。
『八木がそれを持ってるってことは阿賀松に渡すつもりなんだろうね』
「……だろうね」
『齋藤、どうする?』
「どうするって?」
『盜まないの?』
「えっ?!」
あまりにも唐突な志摩の言葉に、声が裏返ってしまう。
だって、人のものを盗むなんて選択肢俺の中にはなかったのだから仕方ない。けれど、志摩はそうではないのだろう。
『阿賀松に使わせても芳川にとっては痛手だろうね。イメージ悪くなるんだから。でも、それを阿賀松にくれてやる必要もないしね』
「志摩、何言ってるの?」
『利用するんだよ、それを』
なんでもないようにそう一言。向こう側で志摩が笑う気配がした。
『例えばそうだね、大々的に広めてやるのは最終手段にしよう。けれど、その前科も全部洗い出してそれを使って芳川本人に揺さぶり掛けてもいいんじゃない?もちろん、匿名でもありだね』
「匿名って、意味あるの?脅迫にならないんじゃ……」
『この状況でそんな姑息な真似をするやつ、思い当たるやつそういないよ。だったら芳川は誰が犯人だと思う?』
「……阿賀松?」
『そう、そうしたら勝手に潰し合ってくれて万々歳ってわけ』
志摩の言いたいことは分かった。けれど、あまりにも人道的ではない。人の暗部を利用するなんて。
志摩の言う通り会長の決定打になることには違いないはずだ。
『でも、その場合芳川が阿賀松を潰すように仕向けないと後が面倒なんだよね』
確かに。それに、阿賀松が会長の対策を練っている場合も困る。
この作戦ならば、会長が動き出す前になんとか阿賀松を無防備状態にしておかなければならない。
「それじゃあ、阿賀松にあれを渡さないようにしたらいいんだね」
『そうだね、それがいい』
志摩が珍しく素直に同意してくれただけで嬉しくなるのはどうなのだろうか。ここ最近呆れられて皮肉られる日々が続いていただけに、少しだけ認めてもらえたと場違いながらも感動しそうになる。
『けど、盗むのはまだ早いよ。八木が全て材料揃えて阿賀松にそれを渡すその時に盗んだ方がいい。今は少しでも材料が欲しいからね』
「……分かった」
ならば俺は八木の動きを監視したらいいのか。
そう頭の中でこれからのことを考えている時だ。
『それと、齋藤。もう一つ吉報だよ』
「吉報?」
『芳川が体調不良で数日休むって』
「……っ!」
体調不良という言葉に、どくんと大きく心臓が跳ね上がった。
注射器の硬質な感触が掌に蘇り、口の中が一気に渇いていく。
『何をしたのか知らないけど、やるね齋藤』
「……そんなこと」
褒められるようなこと、してない。
あの時の会長とのやり取りを思い出す度に心臓が締め付けられるように痛む。
『ま、一応伝えておくよ。俺の方は少し壱畝遥香の方調べてみるよ。また電話してね』
「……うん、ありがとう」
俺は志摩との通話を終え、端末を仕舞った。
志摩と話すことによって、大分気持ちは落ち着いていた。
なんとかなりそうだが、ここで油断しては駄目だ。
余計なことを考えて八木に動揺を悟られないよう、俺は八木が帰って来るその間一先ず気持ちを落ち着かせることに努めることにした。
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