天国か地獄


 13

「取り敢えず、場所を変えよう」

 そう言った志摩に連れられてやってきたのは志摩の部屋だった。
 予め十勝は校内にいないと聞いていたので入ることに戸惑いはしなかったが、先程、鍵のかかった部屋を開けてまで入ってきた会長のことを思い出すとどうしても不安になってしまう。
 そんな俺を見越したように、扉に鍵を掛ける志摩は笑う。

「あいつも合鍵は持ってないだろうから入れないでしょ」
「……合鍵?」
「渡してたんだろ、あいつに。そのせいで齋藤大変だったんだから」

 煽る志摩に、栫井の表情が僅かに引き攣った。それは確かに困惑のようで。

「……渡してない、そもそも鍵は2つしかないはずだ」

「俺のと、こいつが持っているので、2つ」怪訝そうに続ける栫井。
 そうなると、新しい疑問が出てくるわけだ。

「……なら、どうして」

 会長が部屋の扉を開くことが出来たのか。

「元から緊急時用とか他にも合鍵があるってこと?」
「俺が渡したそれが緊急時用なんだけど」
「……」

 新しく合鍵を作る会長の姿が思い浮かび、全身から血の気が引く。
 まさか、とは思うが、何も言わない栫井にそんな考えを巡らせずにはいられなくて。

「……念のためチェーンも掛けておくか」

 顔を引き攣らせた志摩は再び扉へと戻る。

「でも、そんなことしたら十勝君が……」
「良いんだよ、あいつは。外行った時は返ってこない時もあるからね」

 それならいいが、でもやっぱりここの部屋の合鍵まで作られてしまっていた場合のことをチェーンを掛けていたほうが安全なのかもしれない。
 それでも、チェーンカッターを持ってこられたらどうしようもないのだがこれ以上考えたところで不安の種は増えるばかりだ。俺は余計なことを考えることをやめた。

「それでだけど」

 扉を全て施錠し終えた志摩が戻ってくる。
 改まる志摩にどうしたのだろうかと振り返った時だ。

「お前なんでそこに座ってんの?」
「は?」
「人質は人質らしく床に座ってろよ」

 そう笑顔で栫井に突っ掛かり始める志摩。
 どうやらソファーに座ってる俺達が気に入らなかったようだ。

「志摩、これくらいいいだろ」
「これくらいこれくらいで許してたらどんどん付け上がるよ、こういうタイプは」
「でも」

 どうしてこうも何かに付けて因縁吹っ掛けてくるのだろうか。
 座るくらいいいじゃないかと宥めようとした矢先、栫井が立ち上がる。

「か、栫井……っ」

 まさか素直に言う事聞くなんて思わず、予想だにしなかった栫井の行動に慌てる。
 そんな俺を無視し、どかりとカーペットの上に腰を下ろす栫井。

「これでいいんだろ」
「なんでそんなに偉そうなわけ」
「いいだろ、もう、ちゃんと座ったんだから」

 このままでは埒があかない。なんとか志摩の気を紛らわせるため、俺は早速本題に入ることにした。

「ええと、それじゃあ、その、栫井に聞きたいことあるんだけど……いいかな」

「何」と、素っ気ないものの返してくれる栫井に少しだけ嬉しくなりながらも、俺は続けた。

「……壱畝遥香って、知ってる?」

 その名前を口にするのは、大層勇気が必要だった。
 なるべくなら関わりたくない、思い出したくもない、名前すら口にしたくない。
 けれど、避けて通ることは出来ないようだ。栫井の表情は変わらない。

「……転校生だろ、お前のクラスの」
「うん、そうなんだけど……その、壱畝君が副会長候補に上がってるって聞いたんだ。……栫井は何か聞いてない?」
「あり得ない。……あいつ、来たばかりだろ」

 断言する栫井。俺も、栫井と同意見だ。
 けれど。

「まあ、普通なら有り得ないよね。でも、うちの生徒会役員選ぶのはさ」
「……生徒会長推薦か」

 相変わらず他人ごとのような志摩に、栫井は呟く。
 俺も、志摩からあの話を聞いた後だからなんとなく生徒会の仕組みはわかっていただけに状況を理解することは出来た。
 それでも何故会長が壱畝を推薦するのかがわからない。

「このタイミングで栫井が解任されたのが、阿賀松が退学になったからだとしても、それでなんで来たばかりの人間にそんな役を任せるのかが分からなくて……」
「ま、普通に考えるなら賢い判断ではないよね。周りから反対されるだろうし」
「……それを振り切ってまであいつに役職をやらせる。そのことにメリットがあるんだろ」

 副会長候補の話題になるとある程度嫌そうな顔をするかと思えば、栫井の反応は冷静だった。
 いや、寧ろ自分が抜けた後の生徒会には興味がないとでもいうかのように志摩同様どこか冷めていて。

「メリットって?」
「まあ確かに、面倒だけど生徒会やってたら卒業後色々役に立つんだよ。就職とか大学とかね。うちの場合は特に、学校ブランドっていうのかな」
「そう、なんだ……」

 確かに俺もここに来る前は名前を聞いただけですごいところなんだと思っていた。
 設備は最新型だし、綺麗だと思う。けれど、ここに来てからろくなことがないからか、素直にその魅力を感じることは出来なかったのも事実だ。

「……でも、生徒会は前会長が割り出すんだよね。だったら、栫井も志摩のお兄さんに……」
「違うな」
「え?」
「前会長が割り出せるのは時期会長だけ。そして、任命された会長が役員を選べるんだ」

 ということは、栫井は会長に推されて副会長になったということか?
 そう理解した時、腹の中、燻っていた違和感が僅かに膨れ上がるのを感じた。

「そして時期会長が決定する前に生徒会長がなんらかの事情で駄目になった時は選挙が行われるんだよ。だけど、その選挙が始まる前に有力候補だった阿賀松は停学。街中で喧嘩して警察沙汰だって」
「……」
「それで、他の立候補も辞退したりと最終的に選ばれたのは芳川。コネも無く努力と自分の力だけで伸し上がったなんてなんも知らないやつらは言ってるけどね」


「他人を蹴落としてまで欲しがるやつも出る、ありがたい後ろ盾ってところかな、役職持ちは」そうどこか楽しそうに語る志摩に、栫井は何も言わない。否定もしない。
 恐らく、事実なのだろう。会長がそこまで固執する生徒会長という役職の魅力。
 それを知っても尚、俺は会長の真意がわからない。そこまでするほど守るべきものなのかと。それでも、会長をそうさせる程の理由が他にもあると思いたい。そうでなければ、納得できない。
 そのために誰かを傷付けるということが。

「じゃあ、栫井は」

 込み上げてくる会長への不信感を押さえるため、咄嗟に俺は思い付いた疑問を口にしていた。志摩は笑う。

「会長に推薦されたんだよ、こいつも」
「……会長に」

 やはり、そういう事なのだろう。だけど会長は栫井を邪険にしてるのかと思った。
 もしかしたら以前は仲が良かったのだろうか、なんて希望的観測も直ぐに志摩に切り捨てられる。

「周りを都合のいい人間で固めたくなるんじゃない?それで、他に良い奴がいなかったから、適当にね。そんで丁度いいやつがきたから解任ってね」
「……そんなに簡単に解任出来るものなのかな」
「出来る」

 そう答えたのは栫井だった。

「役職持ちは恩恵受ける分、下手な行動したら他よりも厳しく処罰される」
「……退学も?」
「有罪にするのと同じだ、それなりの理由と物的証拠と被害者を揃えればいい」

「あんたと会長がしたようにな」阿賀松のことを言っているのだろうか。
 相変わらず読めない栫井だが、その声から怒りは感じない。感情も。

「……栫井の、退学の理由は?」

 なんとなく、気になっていた疑問を口にする。
 そこで、僅かに栫井の視線が揺れる。
 
「……そんなもの、覚えてない」
「覚えられないくらい沢山あったんじゃないの?」

 茶化してくる志摩に、栫井は何も言わなかった。
 余計なこと聞いたかもしれない。けれど、やっぱり、何かがおかしい。先程まで薄ぼんやりとしていた違和感が確かに明確になっていくのがわかった。
 生徒会長であるということは様々な特権が与えられる。でも、相手が会長であることを利用すれば追い込むことが出来るのではないか。
 必要なのは物的証拠。けれど、今までの会長の暴行の証拠は何一つ手元にないし、会長のことだ。自分の不利になるものを易易残しているとは思えない。
 怪我した栫井を連れて行ったところで「俺じゃない」と逃げられてしまえば終わりだ。

「……」

 監視カメラはどうだろうか。監視カメラを見るのは……無理だ、恐らく会長が既に手を回してるだろう。
 ならば、それとは別に、会長に見つからないようにカメラを仕向けて新しく現場を撮影するしかないのか。
 いや、ダメだ。これ以上誰かを傷付けさせるわけにはいかない。そんなこと、本末転倒だ。

「齋藤」

 そこまで考えた時だった。突然名前を呼ばれ、思考を中断させる。
「え?」と顔を上げれば不思議そうにこちらを見ている志摩と目が合う。

「ずっと黙ってるから寝てんのかと思ってさ。どうしかした?」
「いや……なんでもないよ、ごめん」
「ならいいけど。でさ、何かいいこと思い付いた?」

「これからどうするかとか」と笑う志摩。
 これから。恐らく下手に動いたらすぐに会長にバレてしまう。じっとしていたからといって好転する可能性もないだろう。それでも、俺は。

「……少し、様子を見ようと思う」
「……様子って?大人しく指咥えて待ってるってこと?」
「会長のこともだけど、ここまで色々してるんだ、阿賀松がじっとしてるとは思えないんだ」

 良くはならなくても、悪化する可能性は大いにある。
 下手に動いてそれに巻き込まれるわけにもいかない。
 それに、俺たちの目的は会長だけではないのだ。阿賀松の動向が不明な今、注意しておくべきは阿賀松も同じだ。もしかしたら阿賀松も俺達と同じことを考えている可能性がある。というよりも、いつだって阿賀松はそのことばかりを考えていた。会長の裏を取ることを、一番に。

「それは、一理あるね」

 志摩も理解してくれたようだ。

「……だけど、じっと指を咥えてるわけじゃないよ」

 阿賀松と会長には近づかないというだけだ。大人しく待っている余裕はない。こうしてゆっくり話している時間も、いつまで続くかはわからない。
 それならば、今の俺に出来ることは1つだけだ。

「俺は風紀室に行く」

 今の俺達は監視の目がある。行動が制限される。
 ならば、会長たちや阿賀松の目も気にせず表立って動くことが出来る人物が必要だった。

「風紀室?」
「八木さんなら寮の自室の方訪ねた方がいい」

 驚く志摩の隣、俺の考えんとすることを理解したのだろう。栫井は「俺も行く」と小さく続けた。
 栫井の申し出に驚いたが、心強いことには変わりない。それに応えるよう、栫井に頷き返す。

「ちょっと待って、八木って……」
「あんたは来んなよ、絶対」
「もしかして、あいつが阿賀松と……」
「……」

 そう言えば、志摩には栫井から聞いたことを言ってなかった。
 でもまあ、説明をする暇は大分省けた。
 どうやら志摩も八木のことを知っているみたいだが、志摩の顔色を見る限りなんだか少し嫌な予感がしないでもないというか。

「俺も行く」

 そんな中、立ち上がった志摩はそんなことを言い出した。そんなことだろうとは思っていたが、栫井の表情は渋くなるばかりで。

「あんたが来ると拗れる」
「お前に齋藤守れるのかよ」
「……話をするだけだって言ってんだろ」

 栫井の態度からするに、ここまで頑なに拒否するということはどうやら志摩はいない方がいいのだろう。

「志摩、大丈夫だから。俺達だけで行ってくるよ」
「齋藤、いつも言ってるけどさ……」
「わ、わかった、じゃあこうしよう。会うのは俺と栫井だけで、志摩は見張っててよ」

「それならいいだろ」と、志摩が拗ねる前に妥協案を提示する。
 元より駆け引きよりも暴力で捻じ伏せようとする志摩は話し合いに向いてないのだ。恐らくそれは本人も自覚しているのだろう。

「齋藤がそういうなら構わないよ」
「志摩……」

 にこりと笑う志摩。よかった、分かってくれたようだ。
 そう安堵した時。

「けど、そのせいで何かがあっても俺は知らないからね」

 ねちねちと小言をぶつけてくる志摩に俺は「分かったよ」とだけ返した。
 話し合いはつまらないとか言うくせに参加したがる志摩程厄介な人間はいないかもしれない。
 そんなことを思いながら、俺達は早速部屋を出ることにした。

 さっさと歩き出す栫井に置いていかれないよう小走りでついていく事暫く。
 学生寮四階、八木の自室の前まで俺達はやってきていた。

「……八木さん、俺です」

 そして、数回のノックの後、栫井が扉に呼びかければ、勢い良く扉が開かれる。
 扉の側にいた俺は、鼻先を掠める扉に思わず腰抜けそうになって。

「平佑!お前、退学ってどういう……あ?」

 現れた八木なる人物は、見事俺の苦手なタイプを取り揃えたような男だった。
 でかい。怖い。動作が荒い。声がでかい。派手な服。
 八木の目が睨むようにこちらを向いた瞬間、全身が凍り付く。

「は、じめまして……」
「八木さん……中、いいです?」

「見つかると厄介なんで」と、俺と八木の間に立つ栫井は八木に耳打ちする。
 八木は物分りのいい人間なようで、それだけで察したようだ。

「……ああ、分かった。入れよ」

 そう、入口を空ける八木に栫井は視線で合図を送ってくる。
『入るぞ』そう促してくる栫井に俺は頷き返し、本当は入りたくないが仕方ない。

「し、失礼します……!」

 そうさっさと上がる栫井に遅れを取らないよう、玄関口へ入った矢先のことだった。
「おい!」と八木に怒鳴られ、片足上げたまま俺は動けなくなる。

「齋藤佑樹だっけ?あんたはそこで止まれ」
「え、ぁ……」
「俺が良いって言うまで動くなよ」
「は、はい……」

 俺、何かしてしまったのだろうか。
 やっぱり俺が何したのかバレてこのまま捕まってしまうのだろうか。八木の命令で動けない中、悪い思考ばかりがぐるぐると巡り変な汗がだくだく溢れてくる。
 やばい、どうしよう、なんて思っている間にどっか行ってきた八木が戻ってくる。
 どうしようどうしよう、と一人テンパってると。

「ほら」

 そう、玄関口、俺の目の前に投げるように置かれたそれは客用スリッパで。

「ぁ……」

 もしかして、わざわざ用意しに行ってくれていたのだろうか。
 阿賀松の後輩だというからいきなりぶん殴られるかもしれないと身構えていただけに、拍子抜けする。
 結構、普通の人なのだろうか。
 そうだよな、風紀委員だしただちょっと目つき悪くて声がでかいだけなのかもしれない。
「あ、ありがとうございます」と慌ててそれに履き替えた時だった。

「言っとくけど、そこら辺の物ベタベタ触んなよ」

「他人を部屋に上げるってだけで気分わりいんだから」そう吐き捨てる八木に睨まれ、やっぱり怖い。思いながら俺はなるべく部屋の物に近付かないよう気を付けて栫井のいる部屋へ向かった。

「平佑、何か飲むか?」
「……いや、いいです」
「あっそ。お前は?」
「あ、俺も、大丈夫です……」
「ふーん」

 なんだこの対応の温度差は。
 初対面の相手に馴れ馴れしくされてもそれはそれで戸惑うのだけれど、八木の全身から出てくる敵意のような威圧感がこの上ないくらい息苦しくて仕方ない。
 そのくせ、俺を無視するわけでもなくめっちゃ見てくるしなんなのだろうか。

 八木の部屋の部屋の中。

「それで?わざわざ俺の部屋にあいつの彼女連れてきた理由はなんだよ」

「好きにしろってことか?」と、こちらに目を向けた八木は笑う。
 彼女って、もしかして俺か。いちいち突っ込む気にもなれなかったけど、不穏なその言葉に寒気を覚えずにはいられなくて。
 助けを求めるように隣に腰を掛ける栫井を見た時。

「……八木さん、そいつ、伊織さんと付き合ってるんで」
「は?」
「芳川とは伊織さんの命令で付き合ってたんすよ」

 栫井が阿賀松のことを伊織さんって、嘘だろ。
「まじで?」と驚く八木とは全く違うところで驚く俺だが、栫井は特に気にすることもなくこくりと頷き返す。

「メンドクセーことになってるってのは知ってたけどさぁ……で、なんだよ。つーか平佑、お前もなんで一言も教えてくれなかったんだよ、俺ビックリしたんだからな。お前が孕ませて退学とか」

 は、孕ませ……?
 聞き慣れない言葉に一瞬思考が停止する。妊娠、ってことだよな。誰が?っていうか栫井が?え?
 飛び交う問題発言に早速脳味噌がパンクしそうになるが、そんな俺に構わず二人の会話はどんどん進む。

「それ俺じゃないですから」
「ならやっぱヤラせなんだな?だろうなー。あの女、お前の好みじゃなさそうだし」
「……」
「じゃあ誰の子だろうな」

 にやにやと笑う八木に、素知らぬ顔で栫井は「さあ」と首を捻る。
 なるほど、栫井がさっき志摩に言わなかった理由はこれか。
 もしハメられたとしても、そんなやり方、えげつなさすぎるのではないだろうか。
 どこまでが本当かわからないけれど、聞いてるだけで気分が悪くなってくる。対する二人は顔色一つ変わらないで。

「……なんだ、それ調べて貰いに来たんじゃねえのか」
「八木さんには別にお願いがあるんですけど」
「ならそっち先言えよ。勿体振んなっての」

 お願い、という栫井の言葉に顔を上げた時だった。

「こいつを……齋藤を匿っててもらえませんか」

 え、とその言葉に頭が真っ白になる。ここに来る途中、何も言わなかった栫井の突然の爆弾発言に俺は思考停止せずには居られない。

「っ、栫井」

 どういうつもりだと栫井を見上げた時、こちらを一瞥した栫井の唇は確かに『黙ってろ』と動いた。
 突然の栫井の言葉に驚いたのは俺だけではなく、八木も同じだった。

「匿うって……俺がか?」
「伊織さんから言われたんです。芳川も弱味を握ってるこいつのことを切り捨てようとしてるし、縁方人もこいつを狙ってる。信用できるのは八木さんだけだって」
「ま……まじかよ……伊織さんが俺を……」

 あながち間違いではないが、流石に強引すぎるのではないだろうか。
 顔色を変え、考え込む八木に勘繰られはしないかとヒヤヒヤしていた時だった。

「分かった、任せろ!こいつは俺が預かっていてやる!」

 あ、騙されるのかこの人。

「伊織さんも芳川が邪魔するみたいで身動き取れないから落ち着いたら俺がまた迎えに来ます」

 そして栫井も栫井で特に喜ぶわけでもなく、義務的に言葉を紡いでいく。

「なので、その時まで絶対誰がこいつを探してきても知らないフリをしてください」
「おう!お前以外のやつは無視しときゃいいんだな!」
「ああ、それと、もしかしたら伊織さんのフリした阿佐美詩織が来るかもしれません。けど、あいつも信用できないので無視ってことで」
「ああ、阿佐美も無視な。任せとけ!」

 阿賀松から信用されてるという一言が余程感動したのだろうか、先程よりも見てわかるくらい気分を良くする八木。
 トントン拍子で進んでいく物事に逆に不安になってくるのは俺だけのようだ。

「それじゃあ……俺はこれで」

 その挙句、言いたいことだけ言って立ち上がる栫井。
 まさか俺を置いて帰るつもりなのだろうか。
「栫井」と釣られるように立ち上がれば、不意に栫井に肩を掴まれる。
 そして、

「この人は馬鹿だから煽てときゃ言う事聞く」

「それまでに飼い慣らしとけ」そう、俺だけに聞こえるくらいの声量で囁いてくる栫井。
 飼い慣らす。
 その言葉に目を見張れば、真っ直ぐにこちらを見てくる栫井と視線がぶつかった。

「出来るだろ、お前なら」

 そう一言。今度は、先程よりもハッキリと耳に届いた。
 喜ぶところではないと分かっていたが、それでも、あの栫井に信用されている。
 そう理解した時、胸の奥で何かが弾けた。そんな気がした。

「……気を、つけて」

 そうだ、今俺に、俺にしか出来ないことがあるのなら。それをやるしかない。

「平佑、何かあったらすぐ連絡しろよ」

「……はい、その時は、また」

 その後、栫井から声を掛けてくることはなかった。
 けれど、栫井が部屋から出ていったその後も先程の栫井の言葉がずっと頭の中で反響していた。
『出来るだろ、お前なら』
 栫井のように冷静沈着でもないし頭の回転も早くない。
 それに、八木のようなタイプの人間、面と面向かうことだけでも震えそうになる。それでも、栫井が出来ると言ってくれているのなら、やるしかない。
 閉まる扉を眺め、二人きりになった部屋の中、俺は一人決意を固める。

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