天国か地獄


 12

 生徒会室前。

「まだ……来てないみたいだな」
「職員室からならここ通るはずなんだけど」
「もしかしたら、生徒会専用の通路の方を通ってるのかもしれない」
「……あそこか」

 無人の廊下の前。
 ここまで走ってきたお陰で息が切れていたが、立ち止まっている暇はない。

「とにかく、行くだけ行ってみよう。もしかしたらまだ中に入っていないかもしれない」

 専用のカードキーがないと使えないエレベーターに乗られては生徒会役員ではない俺達は大人しく待つしかない。
 とにかく行くしかない。そう志摩に目で訴えかければ、「はいはい」と笑う。
 俺達は専用通路へと向かった。
 そして、俺達の予想は当たった。

「栫井っ!」

 生徒会専用エレベーター前。閉まった扉の前、栫井は佇んでいた。
 こちらを振り返るその顔はどことなく青くて。

「あんたら……」
「随分辛気くさい顔してるね。もしかしてそこ、使えなかったの?」

「副会長解任されたから」にやにやと笑いながら早速突っ掛かり始める志摩。
「志摩」と慌てて咎めるが志摩は笑うばかりで。
 それどころか、栫井もいつものように言い返す気配はない。

「……ああ、みたいだな」

 そう、息を吐く栫井は手に持っていたそれを捨てる。
 散らばるそれに目を向ければ、カードキーの下に見覚えのあるカードがあって。

「全部、使えなくなった」

 慌てて拾ったそれは学生証だった。その言葉の意味が分からず、「は?」と思わず聞き返していた。

「嬉しいだろ」

 喜べよ、と自嘲する栫井。その力ない笑顔に、そのなんとなく理解できた。
 俺が思っていた以上に事態が悪い方向へと転んでいることだけは、確かに。

「なるほど、退学ねえ」

 どう声を掛ければいいのか分からず、押し黙る俺の横。
 薄ら笑いを浮かべた志摩は俺の手元を覗き込み、なんでもないように呟いた。
 退学。それは最近聞いた単語でもあったが、それでもまだ腑に落ちなかった。

「っ、退学って……どうして栫井が……!」

 別に栫井が清廉潔白な人間だとは思わない。けれど、それでも、人為的なものを感じずにはいられない。
『邪魔者は必要ない』 そう笑う会長が脳裏に蘇る。恐らく、栫井の突然の退学の裏にいるのも芳川会長だろう。決め付けるような真似はしたくないが、それ以外考えられないのだ。

「カードの機能は既に停止済みみたいだね。職員室で今日中に出て行けって言われたの?」
「……」
「何も、ここまでする必要ないじゃないか……っ」

 何も言わない栫井に、酷く気分が悪くなる。
 栫井に言っても志摩に言っても仕方ない、わかっているが、言わずには居られなかった。
 それでも込み上げてくる不快感は止まらなくて、恐らくこれが怒りなのだろうか。遣る瀬なさに自分が嫌になって仕方なくなる。
 そんな俺を見ても、志摩は相変わらず他人ごとのように笑うばかりで。

「はは、本当に齋藤はお花畑さんなんだね。俺ならするよ、目障りなやつも速攻で退学にさせるし」

 それも、ほんの一瞬だった。志摩の表情から笑みが消えた。

「けど、問題なのは一番目障りなやつがその権限を持ってるってことだよね」

 不快そうに眉根を寄せる志摩は吐き捨てる。やはり、志摩も芳川会長が噛んでると考えているようだ。
 そんな中、ふらりと栫井が歩き出す。
 考えるよりも先に体が動いていた。咄嗟に栫井の裾を掴む。

「どこに行くんだよ」
「……あんたには関係ないだろ」

 その声には以前のような刺々しさはない。
 しかし、それ以上に覇気も感じられない鷹揚のないその声に不安にならずにはいられなくて。
 そんな栫井を一人にしておけるわけがなかった。

「……栫井の部屋にいたら会長が来た」

 本当は、言わないつもりだった。
 けれど、隠したところで何もならない。
 栫井相手なら余計、言わなければならないのだろう。ちゃんと。栫井がどのような立場になっているのかを。

「……注射器持ってた、栫井に使うつもりだったって」

 栫井は相変わらず何も応えない。
 それでも、確かに栫井の肩が揺れるのを見逃さなかった。やはり、栫井は会長のことには反応するようだ。

「このままじゃ、栫井、危ないから……っだから、お願い、一緒に来てくれ……っ」

「齋藤」と志摩に睨まれたが、ここで引くわけにはいかない。
 とにかく、栫井には口で言わなければ伝わらないのだ。そう思っていた。
 けれど、栫井の目は相変わらず俺を映そうとはしなくて。

「いいんだよ、別に」

「最初からこのくらい予想していた。……寧ろ、今まで側に置いてくれていたことのが奇跡だからな」投げやりな言葉。
 栫井らしくない。栫井という人間の全貌を知っているわけではないが、それでも、今俺の目の前で笑っている男は栫井だと思えなかった。前々から自分のことを大切にするタイプではないとは思っていたが、今の栫井は自暴自棄そのものだ。

「栫井」
「どうでもいいんだよ、全部」
「栫井……っ」

 そんな言葉、聞きたくない。けれど、もしも自分が栫井の立場ならば、自分の家族から切り捨てられたときのことを考えると何も言えなくなる。でも、だったら尚更だ。
 どうして受け入れるんだ、普段から冷静な栫井ならば話し合うことも出来るはずだ。
 そこまで考えて俺は以前見た背中の傷、仮眠室の残状を思い出す。
 俺だったらどうだ、冷めた目をして見下ろす会長相手に「こんなのは間違ってる」と言えるのか。
 今ならば、言えるかもしれない。けれど、前の俺ならどうだ。誰も味方も居ない中、誰に相談したらいいのかも分からず、そんな状態で会長に面と面向かって平和に交渉など出来るのか。
 無理だ。少なくとも、俺には出来ないだろう。逆らって酷い目に遭うくらいなら、言う事を聞いていた方がいいと思う。それが安全だから。
 栫井がそうだとしたらと思うと、途端に他人ごとには思えなくて。

「……栫井……っ」
「ああそう、それを聞いて安心したよ」

 そんな中だった。
 志摩が一歩前に出たと思った瞬間、志摩の手が、栫井の胸ぐらを掴む。
 あ、と思ったときには既に遅く、問答無用で殴り掛かる志摩に俺は目を疑った。

「っ!志摩!」

 抵抗するわけでも避けるわけでもなく、殴られても声も上げようとしない栫井に、慌てて俺は二人の仲裁に入ろうとする。けれど、引き離そうと掴んだ志摩の腕は離れなくて。

「悪いけど齋藤の作戦は失敗だよ。何言っても頑固なこいつには無駄だからね」
「だからって、こんな……っ」
「栫井平佑。残念だったね、せっかく齋藤が情け掛けてくれたのに素直になっときゃよかったのにさ」
「……最初から、無傷で済ませるつもりはなかったんだろ」

 諦めたような目。さして興味なさそうに呟く栫井に志摩は笑った。

「当たり前だろ。俺、お前のこと嫌いだしね」

 次の瞬間、壁に叩き付けるように栫井を押さえ付ける志摩に血の気が引く。
 痛々しいその音に、堪らず俺は志摩の服を掴み、引っ張った。

「志摩っ!」
「齋藤、見たくないならあっち行ってていいよ。うっかり手が滑ったら危ないから」
「志摩、やめろってばっ!」

 どうして栫井も抵抗しないんだ。本人が自分のことをどうでもいいと思っていようが、やはり黙って見逃すわけにはいかない。
 こうなったらと力いっぱい志摩の後ろ髪を引っ張った時、ようやく志摩がこちらを向く。

「何?齋藤がしたいの?指折る時は関節を掴んで曲げたい方に一気に体重を掛けるんだよ」
「……っ」

 今に知ったことではないが、志摩にはほとほと呆れさせられる。
 聞きたくもないアドバイスに流石に我慢の限界に達しそうになるが、こうなった志摩を止めることは出来ない。
 それならば、

「……っ言わなくてもいい。いいから、俺がするから志摩はあっちに行ってて……っ」

 嘘でもこんなことは言いたくないが、こうする他ないのだ。
 苦虫噛み潰したように唸る俺に、栫井は最後まで俺を見ようとはしなかった。

『どんくさい齋藤のために』と念のため栫井の腕を縛って志摩はその場を離れた。
 どうせ志摩のことだ、俺の見えない場所からこちらを伺っているのはわかったが少しだけ、少しだけでいいなら栫井と話したかった。

「……栫井」
「……」
「……」

 やっぱり、もう駄目か。せっかく少しは心を開いてくれたと思ったのに志摩の暴挙で台無しだ。
 座り込んだまま、こちらを見ようともしない栫井の前、視線を合わせるように座り込む。

「……栫井、お願いがあるんだ」
「……」
「もう一度、俺に協力してほしい。いや、一緒に居てくれるだけでいいから……来てほしいんだ」
「……」

 何も応えてくれない。無理もない、と思う。それでも、ここで諦めたところで栫井が心を開いてくれるはずもない。
「栫井」と、もう一度呼び掛けた時。栫井の目が、ゆっくりと俺を捉える。

「……なんで、俺に拘るんだよ」

 ぽつりと、重いその口が開かれる。

「俺よりも役に立つ奴、教えただろ」
「役に立つとか立たないじゃなくて、栫井にいて欲しいんだよ。……その、心配だから」
「……っ同情かよ」

 恐らく、栫井に嫌がれるだろう。そう思っていたので、こちらを睨んでくる栫井の目にも怯まずに済む。
 同情。そうかもしれない。栫井を見てると他人ごとのような気がしない。
 あの日、殴られてる栫井を見た日からだ。

「……俺も、用済みだって言われたから」
「は?」
「必要ないって、会長に言われたから」

 口にすると、酷く虚しくなって、それでも震えそうになる手を固く握り締め、堪える。
 俺の言葉に、ようやく顔を上げてくれた栫井。
 驚いたような目。予想してなかったのか、それでもいい。栫井が俺を見てくれただけでも十分だ。

「だけど、俺には、栫井が必要なんだ」

 そう、何も考えずに口にする。感情とかそんなものは後からくっつければいい、とにかく、栫井相手には躊躇ってはいけない。
 だって、これ程のチャンスは二度目があるかどうかすら怪しいのだから。

「ばっ……かじゃねえの……」

 やがて、栫井の表情が歪む。不快感、怒り、馬鹿にされていると思ったのか、睨みつけるようにこちらを見上げてくる栫井。反応としては悪いのだろうが、それでも、いつもの栫井に戻ってくれたような気がして、安堵する。
 けれど、そんなことで満足してる場合ではない。

「自分のこと、どうでもいいって言うなら俺と一緒に来てよ」

「お願いだから」と頭を下げる。
 相変わらず栫井の表情は硬い。こちらを向く視線が、ただ鋭くて。

「……なんでお前のお願い聞かなきゃなんねえんだよ」
「栫井」
「脅迫しろよ、俺に言う事聞いて欲しけりゃあいつみたいに殴ればいいだろ」

 あいつ、が誰のことを指すのかわからなかった。
 素直に言う事が聞けないというのか、一種の照れ隠しなのかとも考えたが、栫井がそれを望むならそうするしかない。けれど、脅迫、だなんて真似。

「……っ」

 ええい、と目を瞑った俺はぎゅっと拳を固める。
 暴力なんて振るいたくない、殴られると痛いということを知っているから、余計。
 けれど、今更綺麗ぶったって、刃先が肉に食い込む感触も針が皮膚を突き破る感触も掌から消えるわけではない。
 だから、俺は。

「そんなことも出来ない奴の言う事なんか誰が……」

 そう、栫井がそっぽ向いた隙を狙って、俺は手を伸ばした。
 そして、そのまま包帯が巻かれたその手を握り締める。もちろん、傷に触れないように。

「は……っ?」

 驚いた栫井がこちらを振り返る。
 恥ずかしい、けれど、こうするしかないのだ。栫井をなるべく痛め付けず、なおかつ脅迫するためには。こうするしか。

「ごめん、その……嫌だよね、俺から触られるの」
「……っ」
「あ、で、でも!言う事聞いてくれなかったら……もっと力入れて握りしめるから……!」

「……少し、痛いと思う」ダメだ、慣れない真似はするものではないと熟思う。
 どうしても栫井を傷付けたくないという思いが邪魔をして、分かるくらい栫井がイラッてしてるけれど、それでも、ダメだ。

「……お前、馬鹿にしてんのか?」
「違、あの、そういうあれじゃ……あっ!」

 言い掛けた矢先のことだった。直ぐ背後で影が動いたと思えば音もなく伸びてきた足が思いっきり壁を蹴り上げた。
 間一髪、それを避けた栫井はそのまま俺の背後を睨み付ける。
 そして、

「惜しいなぁ、もう少しで腕、狙えたのに」

 案の定、予想していた声が飛んできた。

「し、志摩……っ」
「ああ、早くその手を離しなよ、齋藤。汚れちゃうよ」

 ニコニコと笑いながら肩を掴んでくる志摩は無理矢理栫井から引き離そうとしてきて。
 悪びれるどころか全く気にも留めていない志摩の態度に我慢できず、俺は「ちょっと」と志摩の手を掴む。

「栫井に手を出すなよ」
「齋藤?何言ってるの?頭大丈夫?」
「栫井は……俺の人質だから、その、手を出していいのは俺だけだから……!」
「人質ィ?」

 志摩の笑顔がぴくりと歪む。それでも、ここはきちんとしておかなければならない。けれど。

「か、栫井……」

 助けを求めるように栫井に目を向ける。目があって、栫井は浅く息を吐く。
 馬鹿馬鹿しい、相手にするのも無駄だ。そんな目だ。けれど。

「……勝手にしろ」

 それは、つまり、その言葉を俺の都合のいい解釈で受け取ってもいいということか。
 お願いしてみたものの本当に言う事聞いてくれるとは思わなくて、嬉しくなるよりも先に自分の聞き間違いをまず疑ってしまう。けれど、それは俺の聞き間違いでもなんでもなくて。

「そういうことだから、志摩、栫井に手を出すなよ」

「栫井は、お……俺が責任持って見張るから……!」緊張と動揺で声が裏返りそうになる。
 それでもそう、志摩に向かって宣言をすればそのまま志摩は動きを止める。

「………………」
「……志摩?」
「……ムカつく」

 そしてそう、一言。笑みを消した志摩は吐き捨てる。
 もしかして怒らせたのだろうか。そう身構える。

「あーあ、俺も人質になっときゃよかったな」
「何言って……」
「なんでも好きにしたらいいよ。飼い主が誰だろうと関係ないしね、こいつの立場が変わったわけじゃないし」

「俺たちの邪魔をするんなら許さないから」そう、溜め息混じりに吐き捨てる志摩は栫井を睨む。
 何も言わない栫井の代わりに「志摩」と口にした時。

「……腕は絶対外さないよ」

 間違いなく、怒ってるだろう。そうこちらを睨んでくる志摩だけど、それでも我慢してくれているのだろう。
 相変わらず口は悪いが、俺の言った通り栫井に手も出さずにいてくれる志摩が嬉しくて。

「ありがとう、志摩」

 そう言えば、相変わらず拗ねたように眉を寄せた志摩は「はいはいどういたしまして」と投げやりな返事をくれた。

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