天国か地獄


 11

 どのくらい走っただろうか。

「……っ、はぁ、は……ッ」
「ここまで来たら大丈夫かな。ね、齋藤……」

 だだっ広い学生寮内、とにかくあの部屋から離れ、下の一年の部屋まで避難してきた俺と志摩。
 いつまたどこで会長とガチ会うかわからない、それでも、逃げ延びることができた。
 もしかしたら、今頃俺はあの部屋で息絶え絶えになっていたかもしれない。
 けれど、今俺はこうして志摩と一緒にいる。
 やってしまったんだ、俺は。会長に、歯向かったんだ、面と面を向かって。
 そう理解した瞬間、胸の奥底、今まで溜まっていた何かがぶわりと溢れ出す。

「……っふ……」

 ぼろりと涙が零れた。
 それが切っ掛けとなり、次々に溢れてくる涙は止まることを知らずにだだ漏れて。

「え?ちょ、齋藤?」

 必死に堪えようとするも、余計顔面が引き攣るばかりで涙は出っぱなしだし志摩も狼狽えてるし。
 自分でも情けなくて、恥ずかしくて堪らなくて。
 けれど、ひたすら逃げ出すことに無我夢中になっていた分、堰き止めていたものが一斉に溢れ出したのだ。
 ちょっとやそっとで止まるはずがなくて。

「し、ま……ッ」

 上手く喋れない。震えが止まらない。
 俺は、もう、会長とは元に戻れない。前みたいに、一緒にご飯食べることも、他愛ない話をすることも、出来ない。
 俺にそうする価値はないから。

「……齋藤」
「……っ、ごめ、俺……っ」

 このタイミングで泣くなんて、きっと敏い志摩には勘付かれるだろう。嫌がられるだろう。
 分かっていたけど、会長の笑顔が浮かんでしまい、どうしようもなくなってしまう。
 こうなると分かって行動していたはずなのに、ダメだ。いざとなると、胸が苦しい。
 まだ優しい会長に未練がある自分が情けなくて、志摩に申し訳なくて、腕で覆った顔を上げることも出来なくて。
「ごめん」と、謝りながら、慌てて顔を逸らそうとした時だった。
 暗い視界の中、腕を掴まれた。怒られる、そう、目を瞑った時だった。
 いきなり、志摩に抱き締められる。

「……ッ!し……」
「齋藤、ねえ、どうして泣くの?」

 それは、静かな問いだった。

「俺は、嬉しくて堪らないよ。齋藤が自力で芳川から逃げてくれたことが。……俺の手を取ってくれたことが」
「……し、ま」
「何があったか教えてくれる?……俺もさ、結構焦ってんだよね。いきなり齋藤が泣き出すから。ビックリしちゃってさ」

 ゆっくりと、あくまで優しい手付きで背中を撫でられる。
 いきなり抱き締められた驚きのあまり涙は止まっていて、顔を上げれば、直ぐ側には志摩の顔があった。目があって、志摩は微笑む。

「だから一から、全部説明して」

 俺は志摩がいなくなってからのことを言われた通り全て伝えた。

「やっぱりね、そんなことだろうと思ったよ」
「……」
「ごめんね、遅くなって」

 そう笑う志摩は申し訳無さそうで。俺は、慌てて首を横に振る。

「志摩が近くにいるって分かったから……」

「俺は、一人だったら何も出来なかった」あの時、あのタイミングで志摩が味方でいることを思い出したからこそ、強気に出ることが出来た。

「……志摩のお陰だよ」

 こうしてまた会えたことに酷く安堵してる自分がいる。
 こっ恥ずかしいこと言ってるという自覚はあったがそれでも伝えたかった。
 それもきっと志摩が俺の言葉を受け入れてくれると分かっているからだろう。けれど、やっぱり無言は恥ずかしくて。
 笑ってくれるなり馬鹿にしてくれるなりしてくれたらいいのに、と思いながらも恐る恐る「志摩?」とその顔を覗き込んだ時。一瞬、その口元が歪に釣り上がるのが見えた。

「……っ、え?」

 しかし、それも瞬きをした瞬間には消えていて、その代わり、照れたように笑う志摩がいて。

「……そう?嬉しいこと言ってくれるね」

 見間違いだろうか。いつの日か見た志摩の不気味な笑顔と重なり、嫌な汗が滲む。
 俺の考え過ぎだろう。大体、志摩はいつも笑っているじゃないか。別に、気にすることでもない。
 そう思うけど、どうしても胸に突っかかる。

「……でさ、芳川は齋藤のことを用済みだと言ったんだよね」
「……うん」
「栫井のことは?何か聞いてない?」

 なんでもなかったかのように続ける志摩。
 あまり思い出したくないものだが、志摩が知りたがっているというのなら掘り返すまでだ。
 会長の言葉も、表情も、どれも俺の脳に深く刻まれているお陰ですぐに思い出すことは出来た。

「……栫井のことを、庇う必要はないって……そんな価値もないからって……」
「なるほどね。だとしたら、やっぱり本当みたいだね」
「……どういうこと?」

 なんとなく、嫌な予感がする。それでも聞かずにはいられなくて、ゆっくりと志摩の目が俺に向けられた。

「栫井平佑が副会長を解任された」

 そう、なんでもないように続ける志摩。その言葉を理解するのに時間が掛かった。
 それでも、俺の知らないところで何かが動いているのは確実で。

「解任って、なんで」
「邪魔になったからじゃない?職員室で聞いた話だから多分嘘ではないと思うけど」
「……っ」
「驚くのはまだ早いな。面白い話はまだあるんだよ、齋藤」

 その志摩の言葉に顔を上げる。目があって、志摩は笑った。

「それでさ、今度の副会長の候補に上がっているのが」
「まさか……っ」

 この流れからして、志摩が言わんとすることが分かってしまった気がして。
 それでも、そうであってほしくない。そう願うが、青褪める俺に志摩は嬉しそうに目を細める。

「……壱畝遥香」

 嘘だと、思いたかった。信じたくなかった。全部志摩の悪い冗談だと言って欲しかった。

「俺も聞き間違いだと思ったんだけどね」

 けれど、志摩は撤回することも冗談だとネタバラシしてくれることもなく、深い溜め息を吐く。つまりは、本当なのだろう。有り得ない、そう思う反面、ああ、と納得してしまっている自分がいた。

「でも、どうして、壱畝が……!あいつ、まだ来たばかりじゃないのか……っ!」
「さあ?二人の間でどんな取引があったのか知らないよ。けど、そうなると考えられることは一つだよね」

 薄く笑う志摩。その言葉に、先程別れたばかりの栫井が脳裏に浮かんだ。
 栫井が危ない。咄嗟に動きだしそうになる俺に、「それと」と志摩は口を開いた。

「それと、阿賀松たちの様子のことだけど」

 その言葉に、ぴたりと動きを止める。いくら急いでいても、動向は聞き逃すわけにはいかない。

「阿佐美……というか阿賀松は相変わらず不登校のまんま、校内にはいないみたいだから多分あっちにいるんじゃないかな。安久も元気そうだったよ。喧しいくらいにね。仁科さんも安久と保健室にいるみたい」
「……縁先輩は?」
「部屋で安静中だってさ。大丈夫だよ、前に暫く歩けないようにしといたからもう少し大人しくしてると思うよ」
「歩けないようにって……」

 笑う志摩に不穏なものを感じたが、志摩はそれ以上何も言ってくれなくて。

「それで?……どうする?」
「……」

 これから。会長に歯向かってしまった今、下手に表立って動くことは出来ない。
 けれど、もたもたしている暇もない。
 風紀委員の八木にも、十勝と五味に会いたい。
 どうして壱畝が副会長候補に上がっているのかが、それを、確認しなければならない。だけどまずは、目の前のことからだ。

「栫井は?……まだ職員室にいるの?」
「さあ?どうだろうね。そんなに時間は掛からないはずだから多分、部屋に戻ってるんじゃないかな」
「手分けして探そう」
「は?」
「栫井を、会長たちより早く探すんだ」

 捨て駒だとしても俺にとっては頼みの綱だ。簡単に使い物にされなくなるのは困る。
 栫井を見つけ出す。そう、決意を固めた。固めたはいいが。

「待って、齋藤。どうして栫井を探す必要があるの?芳川が言った通りあいつはただの役立たずになるんだよ?わざわざ俺達が探す必要はないんじゃない?それともなに?あいつを助けて恩でも売るつもり?」

 志摩が簡単に認めてくれるわけがなかった。そして案の定突っ込んでくる志摩。その声は先程よりも刺々しい。
 けれど怯むわけにはいかない。ここで志摩とだらだら喧嘩してる場合ではないのだ。

「俺は、恩を売るつもりはない。けれどこのタイミングで栫井まで潰されたら会長の弱味も何もわからなくなるだろ」
「……」
「栫井は何か知ってるはずだよ、会長の秘密を」
「どうしてそう思うわけ?」
「……そうじゃないと、困る」
「……」

 思ったことをそのまま口にしてみれば、案の定志摩は不服そうな顔をする。
 自分でもとんでもないこと言っていると思うけれど、それでも譲れないものがあった。
 暫くの沈黙。こちらをじっと見てくる志摩に負けじと見詰め返すこと数分、かなり長い時間経ったような気がした。
 そして、先に視線を逸らしたのは志摩だった。
 大きな溜め息混じり、志摩は呆れたように肩を竦めた。

「……分かったよ、気に入らないけどあいつだって盾くらいにはなるだろうからね。探すの手伝うよ」

「志摩」と、驚いて顔を上げた時。「その代わり」と志摩は釘を刺す。

「二手になるのだけは反対するよ。齋藤を一人にすることは出来ない。俺と一緒に行動してもらうよ」
「志摩、でも、もし会長たちに見つけられたら……」
「それは俺達が二手になったところで変わらないよ。芳川たちはいくらでも人を使えるんだからね」

 志摩の言い分はもっともだ。いくら俺達二人が走り回ったところでこの広い校内、圧倒的に有利なのは会長だ。
 鋭い指摘に口籠った時、「齋藤」と優しい声に名前を呼ばれる。

「あいつは職員室に行ったんだ、休学を解除するためにね。それが終わったらどうすると思う?」

 その問いかけに、校門の前、栫井と交わした会話を思い出す。

「……生徒会室……」

 そうだ、栫井は生徒会室に顔を出すと言っていた。ハッとする俺に志摩は微笑んだ。

「なら職員室を出て生徒会室へ向かうためのルートを絞るのは簡単だね。そこへ行こう」

 慌てて頷き返せば、志摩は満足そうに目を細める。

「どう?齋藤、俺も少しは役に立つでしょ?」

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