天国か地獄


 10

「それにしてもなんもない部屋だね」

 言いながら、なんでもないように冷蔵庫を開ける志摩。
 あまりにも自由というか無遠慮な志摩に流石の俺も黙って目を瞑ることは出来なかった。

「ちょっと、志摩、勝手に開けたら駄目だよ!」
「飲み物はあるね。食べ物も、これくらいなら大丈夫かな」

 そう冷蔵庫の中を確認する志摩はなにか呟く。
「え?」と振り返れば、目があって志摩は笑いかけてきた。

「うん、まあ、これくらいならいいよ。齋藤はここで大人しくしてなよ」
「う、うん……最初からそのつもりだったけど……」

 なんだろうか、すごく嫌な予感がする。先ほどまでの不機嫌はどこにいったのか、にこにこと笑いながら冷蔵庫の扉を閉める志摩。

「それじゃ、俺は行ってくるよ。齋藤。何かあったらすぐに連絡しなよ。俺もなるべく早く戻ってくるつもりだけどね」
「うん」
「それじゃあね」

 言うや否や、さっさと栫井の部屋を出ていく志摩。
 そこで俺は志摩が鍵を持っているままだということを思い出す。

「あっ、ちょっと志摩、鍵……」

 返して、と言い掛けた矢先、目の前で扉が閉まる。そして次の瞬間、ガチャリと音を立て鍵を掛けられる。

「?!」

 慌ててドアノブを掴めば、開かない。どうやら外から掛けられた鍵は外から解錠しないと開かないようになっているようだ。
 と、冷静に分析している場合ではない。

「っ、し、志摩!」

 もしかして、閉じ込められた?
 慌てて扉を叩けば、扉の外から志摩の笑い声が聞こえてる。

『齋藤はここで大人しくしてなよ』

 最初からそのつもりだったのか。そのまま離れていく志摩の足音を聞きながら、文字通り手も足も出ない俺はそのまま座り込んだ。


 やること無い。
 最初から志摩を待っているつもりだったのだからわざわざこんな真似するなら一言くらい言ってくれたらいいのに。心配だ。

 ソファーの上、携帯片手に志摩からの連絡を待っていたときだ。手の中の端末が震えだす。志摩からだ。

『もしもし、齋藤?』
「志摩!」
『あ、その声、もしかして怒ってる?』
「べ……別に、怒ってはないけど一言くらい言ってくれたらよかったのに」
『そんなこと言ったら多分、齋藤窓ぶち破って逃げ出すかもって思ったからね』

 前例があるだけに否定できないが、それでもやっぱり信用されてないと思うと悲しい

『縛り付けてないだけ感謝してほしいな』

 まあ、確かに。そう思ってしまうくらいには俺も俺なのだろうが。

『ああ、それで本題だけどね。一応生徒会のやつらの様子は確認できたよ』
「本当に?」
『五味武蔵と十勝は通常通りサボって外出してるし灘和真は休学届け出してるみたいだね。栫井のやつは丁度休学解除してたみたい。職員室にいたの見付けたよ』

 ずっと、五味のことも気になっていた。
 俺を逃してくれた後、ちゃんとお礼も言う事が出来なかったということでも気になっていたが、会長に逆らったことでなにかあったんじゃないだろうか。そう思っていただけに、志摩の報告に安堵する。
 よかった、サボってるってことは元気ということなのだろう。

「でも、すごいな……。もうそこまでわかったのか?」
『そりゃ、齋藤が逃げ出す前に済ませなきゃなんないからね。……って言いたいところだけど、あいつら目立つからね。すぐ分かるんだよね、動きとか。人伝で十分にね』

 それは、なんとなく分かる気がする。
 その反面、まだ出てきてないあの人の報告に不安になってくる。
 しかし、その不安もすぐに解消されることになる。最悪の方法で。

『それと、芳川だけど……ちょっと気になることがあってさ』
「……どうかしたのか?」

 出てきた芳川会長の名前に心臓がどきりと反応する。
 僅かに落ちた志摩の声のトーン。どうやら良い話ではないようだ。俺は固唾を飲む。

『通常通り授業に出てるみたいだったけど、授業が終わってからさ、教室出てあいつと会ってたんだよね』
「あいつって」
『壱畝遥香』
「……ッ!」

 一瞬、手にしていた端末を落としそうになる。
 出来る限り聞きたくなかったその名前に、息が心臓が、詰まりそうになって、それを必死に堪えながら俺は「それで?」と志摩に促した。

『話の内容までは分からなかったけど、妙な組み合わせだったから気になってね。齋藤、何か心当たりある?』
「……」
『齋藤?』

 考える。どうして壱畝と芳川会長がいるのか。どうして。
 そう言えば、前にもこうやって二人が一緒にいることが理解出来ず苦しんだ記憶がある。それは、確か、

「……そう言えば、文化祭の時、一緒にいた……」

 あの時、あいつが転校してくる前、壱畝は会長と一緒に居た。
 文化祭を一緒に回るという名目で校内を案内してもらっていた。
 でも、どうして。もう校内を案内してやる必要はないのではないのか。

『……取り敢えず、阿賀松たちの方も探ってみるよ。俺がそっちに戻るまで、絶対何があっても部屋を出ちゃダメだからね』
「わかった。……ごめんね、志摩」

 キリキリと痛み出す腹部を抑える。
 すると、受話器の向こうから志摩の笑う声がして。

『謝るくらいならお礼がいいな。キスでも構わないよ』
「……なんか、志摩、縁先輩に似てきたね」
『わりとまじで傷つくから勘弁して』

 そんな他愛ない会話を最後に、俺は志摩との通話を終わらせた。
 壱畝と会長がどうして。親しげに話す二人の姿が脳裏を過り、その都度必死にその映像を振り払う。
 まさか、そんなはすがない。そう思うのに、どうしても昔の記憶が蘇る。
 沢山の友人に囲まれ、楽しそうに笑う壱畝の記憶が。

「……」

 喉がカラカラに渇いていることに気付く。
 このままではダメだ。そう思い、自分の気を紛らすため、俺は冷蔵庫からジュースを取り出した。
 栫井に怒られるだろうから、後で新しいのを追加しなければならない。
 思いながら、ペットボトルに口を付けようとした矢先だった。扉が叩かれる。

「……っ!」

 咄嗟にペットボトルを離す。
 志摩だろうか。いや、志摩なら鍵を持ってるはずだ。
 だとしたら、誰だ。

『平佑、戻ってきてるのか?』

 バクバクと脈を打っていた心臓がギクリと緊張するのが分かった。
 会長だ。間違いなく、今、会長の声がした。
 やばい、まずい、どうしよう。
 一人狼狽えてると、次第に扉を叩くその音は激しさを増す。

『おい開けろ!聞こえてるんだろう!平佑!』
「……っ」

 栫井を訪ねてきてるのは明らかだ。だとすれば、なんとかやり過ごせば会長にバレずに……。
 そう、息を潜めた矢先だった。
 ガチャガチャと扉を開ける音が聞こえてくる。
 まさか会長が合鍵を持っているなんて思ってもなくて、もしかしたら栫井も知らなかったのかもしれない。どちらにせよ、ここに入られては困る。
 まだ、ダメだ。咄嗟にペットボトルを置いた俺はそのまま扉に駆け寄る。
 ドアノブがゆっくりと傾き、扉が開く。それを手で押し返し、俺はチェーンを掴んだ。
 けれど、緊張と動揺で上手く指が動かなくて、気ばかりが焦れる中、ものすごい力で扉を押され、とうとう間に合わなくて。

「貴様、どういう……、ッ!!」

 勢い良く開く扉の前、その反動で突き飛ばされ尻餅をつく俺の姿を見て、芳川会長の顔は驚きで引き攣った。
 逃げも隠れも出来ないこの状況。刺すような激しい鼓動に全身から滝のように汗が吹き出す。

「齋藤君……?!」

 そう名前を呼ばれた瞬間、とうとう俺の思考は停止する。

「どうして、君が、ここに」
「ぇ、あ……っ」

 まずい。まずい。まずい。逃げろ、早く何処かへ。
 頭の中、鳴り響く警報。
 引き摺るように身体を動かし、脚がもつれそうになるのも構わず俺は会長から逃げるように部屋の隅へ向かう。それが、自分を追い込むとわかっていてでも、側に行っては危険だ。そう思ったから。
 会長は俺を追い掛けることはしなかった。その代わり。チャリ、と小さな音を立て扉にチェーンが掛けられる。
 続けて、扉の鍵を掛けられるのを見て、全身から血の気が引いた。

「……なるほど、ずっとここにいたのか?」
「ちが……」
「あいつを庇う必要はない。君があいつを庇ったところでなんのメリットにならないのだからな」

 扉を背に、ゆっくりとこちらを振り返る会長。
 久しぶりに見た会長は以前と変わらない様子で。だからこそ、不気味だった。
 俺がいなくなったことを怒るわけでもなく、薄く笑う会長が。

「……どういう、意味ですか……っ」
「さあ、どうだろうな。本人に直接聞いてみたらいい。……あいつも、戻ってきたようだからな」

 まだ栫井に会っていないのだろう。だけど、それも恐らく時間の問題だ。
 栫井を会長と会わせてはいけない。直感がそう叫ぶ。
 ならば、俺にできることは1つだけだ。

「……ッ」

 目の前、伸びてくる芳川会長の手を振り払い、思いっきり突き飛ばした。
 会長は僅かにふらついただけだったが、俺にとってはそれだけで十分だった。
 一直線、扉に向かって駆ける。
 早く、早くここから逃げなければ、そして栫井に。栫井に……!
 そう思えば思うほど気は焦り、チェーンを外そうとする指は絡み思うように動かない。
 早く、解けろ。そして、ようやくチェーンが外れたその時だった。視界が翳る。

「悪いが……君を逃がす気はない」

 すぐ背後、聞こえてきた声にゾクリと背筋が震えた。
 伸びてきた手に後頭部を掴まれたと思った矢先、思い切り顔を扉に押し付けられる。

「ッ、ぐ」

 痛みとかはないが、それ以上に鉄製の扉が冷たくて。
 なによりも、髪に絡んでくる指に、息が上手く出来なくて。身体を動かすことも儘ならず、背後を振り返ることすら適わない。

「……しかし、もう無理をさせることはない。君には、今まで無茶をさせてきたな。……すまなかった」
「か、いちょ……」
「後はもうゆっくり休んでくれ」

 そう、会長はどこからか取り出したプラスチック製の小さなケースを手にする。それを見た瞬間血の気が引く。
 器用にそのケースを開いた芳川会長の手にはケース同様透明の注射器が握られていたのだ。

「本当は栫井に使うつもりだったが……まあいい」

「わざわざ探す手間が省けたのだからな」その言葉の意味を理解した瞬間、汗がドッと溢れた。
 何を、誰に、なんで。なんで。なのに。どうして。会長は笑ってるんだ。

「……ゃ、めて下さいッ!」

 考えるよりも先に身体が動いていた。とにかく逃げなければ、その一心で我武者羅に腕を振り回した時、床に何かが落ちる。

「チッ……」

 どうやら、俺か振り払った拍子に注射器の針に当たってしまったようだ。
 顔色を変えた会長は手の甲に唇を寄せ、何かを吸い出したかと思えばそれを吐き出した。

「残念だ、齋藤君……。せっかく、君に会えたというのに……」

 その額にはじんわりと冷や汗が滲んでいて。何を刺すつもりだったのかと恐ろしくなる反面、苦しげに歪むその表情に、動揺する。

「会長……ッ」
「何故俺を心配する?君は、俺に関わりたくないのではないのか?」
「……っ」

 心配、してるのか、俺は。そんなものを持ち出す会長が怖くて堪らないのに、心の隅でまだ優しい会長を探してる自分がいることには気付いていた。
 同一人物だとは思いたくない。思いたくないのに、会長は会長以外の誰でもなくて。
 苦しんでる会長を見ると、胸が締め付けられる。無駄だとわかっていても。

「……甘いな、君は」

 会長の口元に、引き攣ったような笑みが浮かぶ。伸びてきた手に、ほんの一瞬俺は反応に遅れてしまった。
 だから、

「こういう時は逃げるべきだと思うぞ、俺は」

 髪に触れたその優しい手に、全身が緊張する。
 違うと分かっていても、優しいその声に惑わされそうになって。

「っ、かい、ちょう……」

 一層今までのことが全て夢だったら、優しくてかっこいい会長だけを見て、その背中を追い掛けることが出来たらそれがいい。よかった。よかったけど、もうそれは叶わないだろう。俺は、知ってしまった。

『会長さーん、どこですかー?』

 瞬間、扉の外から聞こえてきたその声に心臓が大きく脈打つ。
 壱畝の声だ。あいつの声が、近付いてきている。その事実に、俺は現実へと引き返された。
 俺が硬直するのを見て、会長の笑みが一層深くなる。

「……言っただろう、もう君に無茶させる必要はなくなったと。ママゴトに付き合わせることもない」
「ママ、ゴト……?」

 伸ばされた指が、頬へ、耳へ、輪郭をなぞるように触れていく。
 ざわつく胸の奥、不穏な単語にじんわりと汗が滲む。
 嫌だ、聞きたくない。頭の中、もう一人の自分が叫ぶ。けれど、それが会長に届くはずがくて。
 そして、会長は告げた。

「邪魔なやつらも消えた。君は、もう必要ない」

 後頭部を鈍器で殴られたようなショックとともに、頭が真っ白になる。
 一番恐れていたその言葉はまるで死刑宣告のように重く俺の中に響き、沈んでいった。

「安心しろ、齋藤君」

 レンズ越し、会長の目がこちらを覗き込む。
 それだけで、全身が金縛りに遭ったみたいに硬直して。
 動けない。息も、苦しくて。

「ちゃんと責任は取る」

 そんな俺の髪を撫でた会長は、そう微笑んだ。

「せき、にん……?」
「尻拭いは他人に任せられないからな」

 その目からは、嘘も冗談も感じられない。
 本気だ。そう気付いたと同時に、俺は落ちていた注射器に手を伸ばす。

「……ッ」

 硬い、プラスチックの感触。注射器なんて、使ったこともない。使いたくもない。これがなければ、栫井も助かる。
 その一心で、俺は注射器の先端を床に叩き付ける。折れたのは針だけだったが、それでもいい。

「……どうした?まさか、それでしてやったと思ったのか?」

 潰れた先端を見て安堵した矢先だった。
 目の前の会長が目を細める。

「何かハプニングが起きてそれが駄目になることくらい想定済みだ」

 そう、会長が取り出した二本目のそれに気付いた時にはもう遅く、伸びてきた会長の靴底が腹部を踏みつける。

「っ、ぅ、ぐッ」
「何、心配することはない。少し痛むだけだ」

「あとはもう、何も考える必要がなくなるのだから」硬い靴底に加えられる体重に、腹部が軋む。
 突き付けられた針の先端。
怖と不安で麻痺し始めている脳味噌はただぼんやりと見下ろしてくる芳川が笑っているのだけは理解できて。

「言っておくが、こういうときは暴れない方がいいぞ」

「注射中、うっかり針が折れて身体に残ってしまっては大変だからな」首筋、襟足を手で撫であげられる。
 血管の中に取り残された針が心臓に突き刺さるのを想像し、身体の芯から急激に冷めていくのがわかった。
 逃げなければならないのに、動けない。このままされるがままになるしかないのか。
 そう、迫る針先に息を飲んだ時だった。

『あれ?志摩君?』

 扉の外、聞こえてきたその声に、その名前に、一瞬にして先程まで曇っていた思考がクリアになる。
 どちらにせよ、よくわからない薬品を注射されるというのなら、動くしかない。動いて、刺されないようにするしかない。そう、志摩なら言うだろう。
 注射を持った会長の手を握り締めるように掴む。瞬間、芳川会長の表情が変わった。

「齋藤君……ッ」

 現れたのは驚愕の色。俺だって、驚いている。針が突き刺さっても構わない、そう思いっきりその注射器を会長の手から引き抜いた。
 そして、

「ッぐ、ぅ……ッ!」

 会長の掌にそれを突き立てる。細い先端はあっさりと手の甲へと呑み込まれ、俺から手を話した会長はその注射器を引き抜こうとした。その瞬間、確かに会長の両手はがら空きになった。
 会長を思いっきり突き飛ばし、死にものぐるいで俺は扉のチェーンに手を伸ばす。

「貴様……ッ!!」

 底冷えするような、会長の唸り声。 
 相変わらず指の震えは取れなかったが、外に志摩がいる、そう思うと自然と心強くて。
 先程よりもあっさりとチェーンは外れた。
 背後から、会長の手が伸びてくる。それに首筋を掴まれそうになったのと、扉が開いたのはほぼ同時だった。
 縺れて動かない足をひたすら前に出し、前のめりになるように部屋の外へ飛び出す。

「齋藤ッ!」
「ゆう君?」

 まず飛び込んできたのは志摩の声だった。
 顔を上げれば驚く志摩がいて、その隣には壱畝がいた。
 壱畝の姿に一瞬全身が凍り付いたが、そんなことで足を止めることは出来ない。

「……ッし、ま……」

 真っ直ぐに、志摩へと駆け寄る。そのまま手を伸ばそうとした直後だった。

「逃すかッ!」

 勢い良く開かれる扉。腕を抑えた会長は、身体を引き摺るように追ってきて。どうやら薬品が会長の体に回っているようだ。
 そのまま崩れ落ちそうになる芳川会長に、驚いた顔をした壱畝は「会長さん」と慌てて側に寄る。
 そんな様子に、志摩は何が起こったのか理解したようだ。

「……なるほどね」

 伸びてきた手に、体を引き寄せられる。
「ぁっ」と思った時には指を絡め取られ、強く手を握り締められた。

「……行くよ。転ばないように気をつけてね、齋藤」
「志摩……っ」

 言うやいなや、走り出す志摩に体を引っ張られる。
 相変わらず足は縺れそうだったけど、志摩が強く引っ張ってくれるからもたついて転ぶこともなかった。
 残された会長と壱畝のことを気にする余裕もなくて、俺はひたすら目の前の志摩の背中から逸れないよう付いていく。そうでもしなければ、少しでも立ち止まってしまえば、すぐ背後まで迫ってきている得体の知れない何かに雁字搦めにされそうだった。

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