天国か地獄


 09

「今日はありがとう」
「いいわよ、亮太ちゃんのお願いなんだものっ!またいつでも来てちょうだい!」
「うん、それじゃ皆にもよろしくね」
「……」
「……」

 結局、一睡も出来なかった。それはどうやら栫井も同じようだった。
 裏路地、料亭前。すっかり元気になった志摩はお姉さんに別れを告げれば遠くから傍観していた俺たちの元へやってくる。

「それじゃ、そろそろ行こうか」

「登校時間には遅れないようにしないとね」と笑う志摩は心なしか樂しそうで。
 まあ、機嫌が悪いよりも良いほうが勿論いいのでそれは構わないのだが。
 あの後、栫井がいなくならないか見張ってたが結局栫井はこうして朝までここに残っててくれた。
 俺が言ったから、というわけではないだろうが、こうして隣に居てくれるだけでも安心した。
 なんて、考えながら栫井の横顔をちらりと盗み見たとき。不意に、目があった。

「栫井……」

 咄嗟にそう、名前を呼べばすぐに栫井はそっぽ向いた。
 それが栫井のいつもの反応だとわかっていたが、少しだけ、ショックだったりして。
 やり場のない視線を地面に落としたとき、不意に目の前に掌が入り込んでくる。
 驚いて顔を上げれば、そこには志摩が立っていて。

「齋藤、喉乾いてない?」
「いや、俺は大丈夫だけど……あの、栫井は?」
「……」
「あいつはいらないってよ。ほら、齋藤、俺の飲み掛けでよかったらあげるよ」

 言うなり、少し出け減ったペットボトルを渡される。
 いらないと言ったのに、けれど本当は少し喉が乾いていた。志摩の気遣いを無下にするわけにはいかない。

「あ、ありがとう……」

 そう俺はペットボトルを受け取った。
 その裏路地から学園までは然程距離はなく、まだ朝の早い時間帯、閑散とした通りを抜け俺たちは学園へと向かう。
 晴れ渡る空の下、ひんやりとした空気が今は気持ちよかった。
 大きな校舎とやけに目立つ豪奢な門は遠くから見ただけでもすぐにわかった。

「こうやって見ると本当にでかいね、うちの学校は」

 こうして自分たちの学校を外側からまじまじと見る機会なんてなかったから、何故だろう。不思議と、気持ちが落ち着いていくのがわかった。

 どこにも逃げる場所なんて無いと思っていた。けれど、小さな建物の中必死になって走り回っていたと思ったらなんだか可笑しくて。
 何もせずに俺は助かろうと思っていた。自分で動けば、すぐに突破口はそこにあったというのに自分で考えることを止めて縋っていた。けれど、今度は違う。俺は逃げるために戻ってきたわけではない。
 まさか、こんな形でそれを教えられるとは思わなかったが、どんな形であろうがそれを教えてくれた志摩に感謝をしなければならない。

「……どうしたの?齋藤」
「いや、なんでもないよ」

 けれど、やっぱり面と面向かって言うのは恥ずかしい。それに、今はその段ではない。とにかく、今は目の前の壁を壊すことを優先させるべきだろう。
 俺は聳え立つ門を見上げた。外部からの侵入を防ぐためのものだと思っていたそれが、一瞬、ほんの一瞬だけ学園の中から生徒を閉じ込める檻に見えた。

「どうせ色んなところに監視カメラもあるだろうからここは正々堂々行こうか」
「えっ?!このまま?!」
「何かあったら走って逃げればいいよ」

 というわけで、どうやってこの学園のセキュリティを突破するかということについて話し合っていたわけだけれども。
 本来ならば学生の出入りにも許可証がないと不可能とされているうちの学園の校門に、実質休学中である俺と栫井がいきなり現れて簡単に通してもらえるかわからない。
 それに、そんなことをしてれば会長たちの耳に入っても何も言えなくなる。
 どうせなら、休学中というこの状態を使いたかった。誰にも気付かれないように学園内部に入り込むことは出来ないだろうか。
 そう考えていると。

「……こいつに任せる方が馬鹿だな」

 溜め息混じり、うんざりしたように吐き捨てる栫井に志摩の眉間がぴくりと反応する。

「裏に監視カメラが使えないところがある。……バリケードがあるから侵入者の問題はないだろうって言ってたから、多分まだ放置したままだな」

 流石副会長というべきか、むっとなる志摩を無視して続ける栫井につい俺は拍手しそうになった。
 それだ、それなら人目を最小限に押さえる事ができる。

「バリケードってまさか、あれを登るつもり?」
「別に全員で登る必要はない。一人が上って裏口の鍵を開ければいい」

 一人って、まさか。嫌な予感がして、栫井を見た時だった。

「お前なら出来るだろ、志摩亮太」

 ああ、よかった。俺じゃなかった。

「ああ、副会長さん自信無いんだ。まあいいよ、運動は嫌いじゃないからね」

 確かに志摩は運動神経はいい。
 栫井に頼まれ、それを歪曲した志摩はすっかり気をよくしたようだ。
 栫井がコイツちょろすぎって顔してるが、敢えて俺は何も言わないことにする。

「待っててね、齋藤。今から開けてくるから」
「頑張ってね」
「うん、任せてよ」

 そうして、笑顔で裏へと駆けていく志摩。
 重大任務を任せられなくて安心したものの、志摩がいなくなったということは必然的に俺と栫井の二人だけがその場に取り残されることになってしまうことに今さら気付いた。しかしもう遅い。

「……」
「……」

 志摩が校内潜入へと向かっているその間の数分が酷く長く感じるのは続く沈黙のせいだろうか。
 門に凭れ掛かり、座り込んでいた栫井はこちらを見ようともしない。
 どうしても、今朝のキスのことを思い出してしまい顔が熱くなってしまう。
 栫井は、何もなかったかのように相変わらず眠そうに欠伸噛み締めてるし、これは俺も気にしなくていいパターンなのだろうか。

「……栫井は、これからどうするの?」

 なんて思いながらも、ええいと半ばヤケクソになった俺は栫井に問いかける。
 細められた目が、ちらりとこちらを向いて、すぐに逸らされた。

「一応、生徒会に顔出さないと……困るから。一応休学届けは出されてたみたいだけどな」

 てっきり関係ないだろと突っぱねられると思っていただけに、普通に応えてくれる栫井に驚いた。
 逆に調子が狂わされ、色々会話が続かなかった時のためと用意していた会話パターンが一気に吹き飛ぶ。
 結局「へ、へえ」となんともつまらない返答しか出来なくなる俺に、栫井はそっぽ向いたまま続ける。

「あんたは……本気であの人を止めるつもりなわけ?」

 向こうからの問い掛け。
 僅かに、その声音が変わったような気がして、少し躊躇ったが俺はすぐに頷き返した。

「志摩亮太と二人で?」
「……そう、約束したから」
「……」

 志摩は、俺のために兄弟を切り捨てた。俺は、それに応えたいと思った。それは同情でもなんでもない。ここまでしてくれる志摩に、そうしたいと心の中から思ったからだ。

「おい」

 すると、立ち上がった栫井に手を出せと促される。どうしたのだろうかと狼狽えながらも手を出した時、いきなりその手に何かを握らされた。
 硬質で、冷たいそれがカチャリと手の中で音を立てる。

「っ、これって」
「……俺の部屋の予備の鍵」

「好きに使えよ」と、なんでもないように続ける栫井に、俺は手の中の銀色のそれに狼狽える。

「えっ、ちょ、でも」
「うるせえな。いいから持ってろ」

 大切な合鍵を貰うわけにはいかない。慌てて返そうとするが、栫井はそれを受け取ろうとしない。

「あんたの部屋、阿佐美詩織と一緒だろ」
「……っ」
「どうせいらねーからいいんだよ。……必要ないなら捨てといていいから」

 ああ、これは、栫井なりの気遣いなのだろう。
 心の準備もなにもしてなかった俺にとっていきなり手渡されたそれは酷く重かったが、それでも、その重さはいずれ自分のためになるのだろう。
 そこまで考えてくれていたというさことが嬉しくて、また泣きそうになるのを必死に堪えた。

「栫井……ありがとう」
「……なに、ありがとうって」

「馬鹿だろ」と、栫井が舌打ちした時だった。背後、門の向こうで影が動いた。
 そして、

「おい、今齋藤に何かしてなかった?お前」

 聞こえてきたその声に、ぎくりと背筋が凍り付く。

「し、志摩」

 まさかもう戻ってくるとは思わず、咄嗟に俺は鍵をポケットに隠した。
 そして、笑って誤魔化す。

「違う、なんでもないよ。少し話してただけだから……早かったね、志摩」
「そりゃ、走ってきたからね。齋藤が変なことされないように」
「こんなやつじゃ変なことする気にもなれねーよ」

 ぽつりと吐き捨てる栫井に「なんだって?」と反応する志摩。
 よかった、なんとか気は反らせたみたいだ。その代わり、また別の厄介事が出来そうだが。

「あ、あの、志摩……早く開けてもらっていいかな」

 このままではまた不毛な争いが始まってしまう。
 そう思い、適当に促せば不満そうながらも志摩は「わかったよ」と内側から鍵を開き、門の扉を開く。
 というわけで、忍び込むように学園内へ移動する俺達だったが。

「……」
「おい、栫井どこに……」

 校内敷地内に入った途端ふらりと歩き出す栫井。
 そんな栫井の行動を志摩が見逃すはずもなく。
 今にも掴み掛かりそうな気配すらある志摩を慌てて止める。

「……大丈夫、栫井からはもう聞いてるから」
「は?」

 本来ならば一緒に行きたいが、栫井には栫井の考えるがあるのだろう。約束もない今、栫井を無理に縛り付けるわけにはいかない。それに、俺たちも俺たちでやらなければいけないことがある。

「志摩は、休学ってことにはなってないんだよね」
「そうだね。何かいいこと思い付いた?」
「そのことなんだけど……」

 なるべく一目を避け、木陰を潜るように校庭の隅を移動し学生寮へと向かう。
 突き刺さる日差しに、じんわりと汗が滲むのを拭い、俺は斜め後ろからついてくる志摩を見た。

「1回、志摩に会長や阿賀松たちの様子を見てきてもらいたいんだ。二人に近い人たちの様子も、皆」

「……勿論、一人では大変だと思うから俺も見てみるけど、流石にこの格好で校舎は目立つから……」そう、自分の服を引っ張った。
 志摩から借りた私服は街中では馴染むが、いかんせん制服が基本である校舎では目立ちすぎる。
 すると、志摩は意地の悪い笑みを浮かべた。

「いいの?齋藤。俺にそんな重大任務任せちゃって。齋藤を誘導するために嘘の情報教えちゃうかもよ?」
「志摩は、そんなことしない」

「どうしてそう言い切れるの?」
「どうしてって……しても意味ないからだよ。志摩も知ってるだろ。俺と志摩は目的は同じだから……志摩が嘘を吐いたところで目的が達成できなくなるだけだ」

 志摩の性格は分かってきた。
 確かに感情に流されやすいところもあるが、その行動の本筋はいつだって真っ直ぐだった。
 だから、志摩はいつだって結果的に俺を助けてくれた。僅かに、志摩の笑みが引っ込む。

「……本気なんだね」
「……」
「それを聞いて安心したよ」
「……俺は、ずっと本気だって言ってたけど」
「わかってるよ。でも、やっぱり芳川の顔を見たら『やっぱり会長がいい!』とか言い出さないかなって思ってさ、ずっと俺不安だったよ」

「齋藤が芳川に会う前に潰しといた方がいいかなーとかさ、考えてさ」そう、あっけらかんとした調子で続ける志摩。さらりと物騒なことを口にする志摩に「志摩」と咎めればやつは肩を竦める。

「大丈夫、手は出さないよ。偵察、してきたらいいんだよね?スパイ映画みたいでドキドキするよ」

 本当に大丈夫なのだろうか。少しだけ不安になったが、こういうことは俺よりも志摩の方が向いているのは明らかだ。

「齋藤、携帯持ってるよね?」

 頷き返す。病院を出る時から預かったままになっていたのだ。

「なにか分かったら連絡するよ」
「分かった。それじゃあ、俺は栫井の部屋で待ってるから」
「は?」

 素っ頓狂な声を漏らす志摩。そこで、俺は自分のセリフを思い出し、ハッとする。
 しまった、志摩は栫井から鍵をもらったのは知らないんだった。
 忘れてた。

「なに、栫井の部屋って」
「あ、ごめん、言い忘れてたんだけど……さっき栫井に部屋の鍵を貰ったんだ」
「は?」
「だ、だからその……勝手に使っていいって言ってたから……」
「は?」
「……」

 やばい、本気で怒っている。確かにその時言わなかった俺も悪いが、ちゃんと話聞いてくれたっていいのではないか。
 と思うが志摩に睨まれたら何も言えなくなってしまう。
 項垂れる俺に、志摩はわざとらしく大きな溜め息を吐く。
 そして、

「あのさあ、齋藤。……今まで一応齋藤も齋藤なりにちゃんと考えてるんだろうって思ってずーっと目を瞑ってきたんだけどさ、流石にちょっと無防備過ぎるんじゃないの?」
「む、無防備って……」
「俺は栫井平佑を信じたつもりはないよ。その鍵だって罠かも知れないし部屋の扉を開けた瞬間芳川がいたっておかしくないんだよ?」

 反論の隙を与えず次々と飛んでくる志摩の言葉は真っ直ぐ俺に突き刺さる。否定できない。

「で、でも、俺、自分の部屋の鍵もってないし、もしかしたら阿賀松もいるかもしれないし……」
「それなら俺の部屋にいればいいじゃん!」
「だって、十勝君いたら……」
「……っ、でも……っ!」
「栫井は一人部屋だから……」

 選択肢の中では一番安全だと思ったんだ。
 そう続ければ、今度は志摩が何も言えなくなる番で。

「……っ、わかったよ、そんなに栫井がいいなら栫井の部屋に行けばいいんじゃないの?」

 挙句の果て、そう拗ねたようにそっぽ向く志摩。
 呆れて「志摩」とその名前を呼んだ時、志摩は目だけを動かして俺を見た。

「その代わり、俺も行く」
「志摩、偵察は」
「別にいいでしょ、後からでも。それよりも安全を保証できる拠点が必要なんじゃないの?」
「そ、そうだけど……」
「それともなんなの?俺のいないところでこっそり二人で会う予定でも立ててたわけ?ねえ?」
「違うってば!本当鍵貰っただけだから……」
「だけ?だけなの?齋藤がもし俺の立場だったらどう?自分の彼女がどこの馬の骨か分からない他の男から『いつでも来いよ』って部屋の鍵渡されてホイホイついていってたらどう思う?」
「た、確かに嫌だけど……俺、志摩の彼女じゃないし俺も男なんだけど……」
「そんなことどうでもいいんだよ!」

「要は気持ちの問題だよ、齋藤は警戒心がなさ過ぎる」そうすっかり臍を曲げた志摩とともに学生寮へと忍び込んだ俺と志摩。
 校門を抜ければ後は人の目を避けるだけだ。階段を使い、三階まで駆け上がる俺と志摩だったが志摩と言えばさっきからずっとこんな調子だ。

「わかったよ、気をつけるってば……」
「……」
「……志摩」
「……」
「本気で怒ってるの?」
「別に」

 これは結構根が深そうだ。そんなこと考えてる内にあっという間に三階までやってきた俺と志摩。
 志摩から聞いていたが、比較的真面目な生徒が多いうちでは学生寮は無人に等しい。
 そして、難なく俺たちは栫井の部屋の前までやってきた。

「齋藤、鍵」
「あ、うん」

 ようやく口を利いてくれた。先程から黙っていた志摩に内心ホッとしながら、慌ててズボンのポケットの鍵を取り出そうとした時。
 いつの間にか背後にいた志摩の手が割り込むようにしてポケットに突っ込んでくる。

「ちょっと、志摩っ」

 強引過ぎる志摩に呆気に取られてる内に、鍵を取り出した志摩はそのまま栫井の部屋の扉を開く。

「誰もいないみたいだね」
「だから言っただろ……っ」
「分からないよ、隠れてるかもしれない」
「志摩っ」
「……」

 ずかずかと部屋に踏み込む志摩。
 呆れながらも俺は慌てて追い掛けるように栫井の部屋へ入った。

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