天国か地獄


 06

「齋藤、確認しようか」
「栫井にそれとなく阿賀松との関係を聞けばいいんだよね」
「それと、協力してもらえるように脅……頼むのも忘れないように」
「……」

 さらっと志摩の隠し切れていない本音が覗いているが、今更突っ込む気にもなれなくて。
 押し黙っていると、「齋藤」と促される。

「……わかったよ、頑張る」
「気が変わったらいつ俺と交代してもいいんだからね」
「いい……いらない」
「本当、変なところで頑固なんだから」

 志摩には言われたくないが。というか、暴力沙汰を避けたいのは普通ではないのだろうか。
 思ったが、志摩に何言ったところで言い包められるのがオチだ。敢えて俺は黙ってる。

「それじゃ、栫井平佑を探してくるよ、齋藤はここで待ってて」

 まさかここでかよ。さっきの今なのでなるべく誰も部屋に入れたくないのだが、そんな俺の意思に構わずさっさと志摩は出ていった。
 せめて、と部屋の換気をして志摩を待つこと数分。

「……」

 やばい、緊張してきた。
 というかそもそも色仕掛けってなんなんだ、俺が女なら適当に出せばいいのだろうが男である俺がそれをしたところで栫井がめっちゃ嫌そうな顔をして舌打ちするのは目に見えてるし、そもそも病院内でそんなことすること自体不謹慎だ。
 しかし、志摩にはああ言ってしまったし、なんとかして猥褻行為を避けて栫井を納得させる方法を考えなければならない。なんて、一人緊張動揺不安で目を回らせている時だった。
 病室の扉が勢い良く開かれる。来た、そう思って顔を上げた。

「あ、かこ……」

 い、と名前を呼ぼうとして、その声は止まる。
 開かれた扉の前、花束を片手に病室に入ってきたその人は俺が待っていた人物ではなかった。
 それどころか、寧ろ、会いたくなかった人そのもので。

「あぁ?誰と間違えてんだよ、お前」

 病室内に広がる甘い花の薫り。それに似つかわない、黒い髪の男は俺を見下ろす。

「まさか恋人の顔、忘れたわけじゃねえよなぁ?」

 阿佐美と同じ髪色髪型のその男だが、阿佐美はこんないやらしい笑い方をしない。
 病室に入ってくる阿賀松伊織に、先程とは違う緊張感が全身を支配する。
 どうして阿賀松がここに、とは驚かなかった。ここは阿賀松たちの息が吹き掛かった病院だ。
 だけど、よりによって今、来るか。

「せ、んぱ……っ」

 震える声帯から声を絞り出す。
 瞬間、ベッドの上、阿賀松はもっていた花束を俺の目の前に放る。咄嗟にそれに手を伸ばし、受け取った瞬間花の香りが濃くなって。

「どうだ、調子は?」

 花束に気を取られている内に阿賀松はベッドの側までやってきて、一気に詰まる距離に全身が凍り付く。
 うまく、息が出来なくて、それ以上に真っ白になった頭は何も考えられなくて。

「あ、え……っと……」
「調子はって聞いてんだよ、俺は」
「平気、です」

 咄嗟に、そう答えていた。
 大分楽になったのは事実だか、阿賀松の顔を見るだけで、視界に阿賀松の腕が入るだけで、腹の中の異物感が蘇るようだった。そんな俺に気付いたのだろう。

「嘘吐き」

 視線を合わせるよう、屈む阿賀松は笑う。
 耳元で囁かれたその言葉に、今度こそ震えそうになった。

「随分と亮太のやつと仲良くやってるみてーだな」
「あ、あの……」
「詩織ちゃん、心配してたぞ?お前が変なこと吹き込まれてるんじゃねえかって」
「……っ」

 どういうつもりなのか。ここにはいない志摩の名前を出され、脈が乱れ出すのがわかった。
 誰もいない。敵もいない。いるのはただ阿賀松だけだ。その事実が余計、俺の恐怖心を煽ってくる。

「は、なにガチガチになってんだよ。……別に、取って食わねえから」

「今はな」とその唇が動く。
 背中を撫でられ、優しいその手付きが今はただ恐ろしかった。

「っ、……ぁ……っ」
「さっさと調子取り戻せよ。じゃねえと、つまんねえから」

 二人きりの病室内。
 笑う阿賀松は俺から手を離す。本当に、いまは何もするつもりはないというのか。
 勘繰ったところで気紛れな阿賀松を予測することは不可能だ。息をすることも儘ならず、必死に花束を見詰めてやり過ごそうとしたときだった。

「ユウキ君、今日はな、とっておきのプレゼントを用意したんだよ」

 プレゼント、という言葉に顔を上げる。服のポケットに手を突っ込んだ阿賀松は「手、出してみ」と笑う。
 なぜだろうか、その笑顔に嫌なものを感じた。
 けれど、今この時点で俺に選択肢は残されていない。言われるがまま手を差し出した時、その掌の上バラバラと何かが落ちてくる。

「これ、なんだと思う?」

 白くて、硬い、小さなそれに熱はなく、何かの部品か何かだろうか、そう思ったがすぐにその正体に気付いた。
 歯だ。それも、人の。

「っひ」

 授業で見た模型のものと同じその白い物体はどうみてもプラスチック製ではなく、咄嗟に振り払おうとした瞬間、阿賀松に手首を掴み上げられる。
 そのまま捻り上げられれば、身動きすることすらできなくて。

「……お前、余計なこと企んでんじゃねえだろうな」

 至近距離、鼻先同士がぶつかりそうなくらい迫る阿賀松に今度こそ心臓がおかしくなりそうだった。

「今度俺の邪魔したらお前らの分もこれに追加してやるよ」

 低い声が、鼓膜に染み込み頭の中で反響する。バレてるというのか、わからない、わからないけど阿賀松がなにかを勘付いているのは明らかで。
 恐らく、カマを掛けてるのだろう。俺に。動揺を悟られるな、知らないフリをしろ、そう言い聞かせるが、身体の震えは一向に止まる気配はない。

「ユウキ君、一人になったら弱くなんのな」
「っ、先輩……」
「……こんくらいでビビるくらいなら俺に楯突くなよ」

 このくらい、阿賀松にとってはこのくらいと言うのか。
 伸びてきた指先に顎を掴まれ、無理矢理上を向かされればすぐ至近距離に阿賀松の顔があって、心臓が止まりそうになる。

「わかったか?」
「……っ」
「返事」

 唇と唇が触れ合いそうなくらいの位置で、そう促してくる阿賀松に背筋が凍り付いた。
 もう、流されない。利用されない。そう、決めたはずなのに、あの目に見据えられたら身体が、頭が、思うように動かなくなるのだ。

「返事。……口の利き方から教えてやんねえといけねーのかよ」

 阿賀松から笑みが消え、その冷ややかな声につい、「はい」と答えそうになったときだった。
 病室の扉が開く。
 その音に脊髄反射で扉を振り返れば、そこには栫井がいた。まさか、こんなタイミングでと青褪める俺とは対照的に、阿賀松の姿を見付けた栫井は特に表情を変えるわけでもなく。

「おい、なに人の彼女の部屋入ってきてんだよ」

 寧ろ、突然の来訪者に露骨に不快感を露わにする阿賀松。
 もしかしなくても彼女って俺のことだろうか。引っ掛かったが、今はそんなことに突っこんでいる場合ではない。

「……知るか。そいつが用があるっていうから来てやっただけだ」
「へえ、ユウキ君が?」

 そう、阿賀松の目が俺を捉える。
 まずい、志摩のやつ直球な誘い方したな。確かに阿賀松と栫井の関係性を知りたがったが、こんな鉢合わせ展開は誰も望んでいない。
 栫井には悪いが、ここは一触即発を避けるために退散してもらおう。

「あのっ、栫井、やっぱり……」
「じゃ、さっさと済ませろよ」

 俺の言葉に被せるようにそんなことを言い出す阿賀松に全身から汗が噴き出す。
 阿賀松のことだ、栫井がいるのを嫌がるだろう。
 そう踏んでいただけに予想だにしてなかった返答に頭はもう何も考えられなくなって。

「まさか、俺の前で言えない用なのか?」
「いえ、や、その……」

 まずい。まずい。
 阿賀松の前で栫井を色仕掛け、いや、色々聞き出すなんて無理だ。

「……」
「ユウキ君?」

 どうすればいい。どうしたらこの場を切り抜けられるのか。
 栫井の怒りを最小限に食い止め、阿賀松をこの場から追い出す方法。
 俯いて、考える。そして、閃いた俺は考えるよりも先に身体を動かした。
 腕を伸ばした先には壁に取り付けられたナースコール。そのボタンを押し、俺は深く息を吸い込んだ。
 そして、

「っ、うう!お腹が……急にお腹が痛くなりました……っ!」
「……は?」

 突然呻き出す俺に、呆れた顔の阿賀松。
「下手くそ」と栫井の唇が動いたのが見えた。ごもっともです。
 そして数分もしない内にナースたちがやってきて、気付けば阿賀松の姿はなくなっていた。
 やってきたナースたちには勿論演技ということがバレ、一頻り注意を受けた後ナースと入れ違うように志摩がやってきた。

「齋藤っ!大丈夫っ?」
「煩い、黙れ。喋るな」
「お前に言ってないんだよ、俺は齋藤に話しかけてんの」

 どうやら志摩は俺が仮病だと気づいていないようだ。
 早速栫井と揉め始める志摩に、俺は恐る恐る声を掛ける。

「あの、志摩、別に俺は大丈夫だから……本当は痛くないし」
「……どういうこと?」
「阿賀松を追い払うつもりだったんだろ」

 訝しむ志摩に、俺の代わりに栫井が答えた。
 栫井にはお見通しのようだ。もしかしたら阿賀松も気付いているのかもしれないが、それでもいい。阿賀松を追い払うという目的は果たせたのだから。……その代わり、こってり絞られたけれど。

「……あいつ、来てたの?ここに?」

 阿賀松の名前に、志摩の表情が強張る。
 肩を掴まれ、気圧されながりも「うん」と答えれば、益々志摩の表情は険しくなっていく。

「何もされなかった?」
「されそうになってた」
「あいつ……っ」

 栫井の言葉に、舌打ちする志摩。
 そして、そのまま踵を返そうとする志摩の腕を咄嗟に掴んだ。

「志摩、本当何もないから。……その、栫井が途中で来てくれたから……」
「来てくれたって、呼び出したのあんただろ」

 そうだった。そういうことになっているのだった。
 失言に焦ったが、更に栫井は追い打ちを掛けて。

「で?」
「え?」
「え、じゃねえよ」

 用があるなら早くしろ。
 そう言いたげな目で無言で睨んでくる栫井に冷や汗が滲み始める。

「いや、その……あの……話しっていうか……」
「……」
「ええと、なんていうか……」
「…………」

 しまった、阿賀松のことでいっぱいになっていたから何も考えてなかった。
 しかしこれ以上もたもたしてれば今にも帰り出しそうな栫井に、俺は何かいい言葉はないだろうかと思考を巡らせた。そして、

「あの、さっきはありがとう」

 よし、これだ。これならいける。無難だ。

「それで、その、よかったら……お礼がしたいんだけど……」

「ちょっと、付き合ってくれないかな」と恐る恐る栫井を見上げれば道端の生ごみか何かを見るかのような目でこちらを見ていた栫井と視線がぶつかり合う。そして、ゆっくりと栫井の唇が動いた。

「嫌だ」
「えっ」

 まさか断られるとは思ってもいなかった。
 ハッキリとした拒絶に見事何も言えなくなる俺の隣、見兼ねた志摩が栫井との間に入ってきた。

「ちょっと、せっかく齋藤が誘ってくれてるのに断るつもり?」
「なんで邪魔しないんだよ、お前」
「は?」
「普通ならうぜえくらい絡んでくるくせに」

 それもそうだ。あれだけ栫井を疎ましがってる志摩がこうして大人しく、おまけに俺が栫井を誘うのを見過ごしているのは些か不自然だ。
 と、納得している場合ではない。このまま志摩の助け舟を無駄にするわけにはいかない。

「志摩がっ!」

 そう考えた俺は咄嗟に声を上げた。
 その声に驚いた二人がこちらを振り向く。

「その、言い出したんだ、栫井に助けてもらったお礼をしようって!」
「ちょっと、齋と……んぐっ」

 不愉快そうに口を挟んでくる志摩の口を慌てて塞ぐ。
 志摩がもごもご言っている隙に俺は矢継ぎ早に言葉を並べた。

「本当は、志摩に栫井が嫌がるだろうから秘密にしといてくれって言われたんだけど……この前、栫井が灘君を止めてくれたお陰でその、助かったから……」
「……」
「そうだよね、志摩」
「……」

 手を離し、「志摩っ」と懇願すれば顔色を変えた志摩はそのまま引き攣るような笑みを浮かべる。

「そ……そうだね、本当はこんなこと言いたくないんだけど事実だしね……感謝してるよ……っ」

 よかった、志摩も俺の作戦を理解してくれたようだ。
 ただ、額の青筋が隠しきれていないがこうして口裏合わせてくれるだけでも有難い。
 ……後から何言われるか知れたものではないが。
 すると、俺達のやりとりを不審そうに眺めていた栫井は小さく息を吐く。
 そして、

「で、何?お礼って」
「え、え……ええと……その、栫井が欲しいの用意するよ……志摩が」
「えっ」
「ね?!」
「ま……まぁね……俺が用意できる範囲ならね……」

 めっちゃ志摩が睨んできている。
 しかし俺に任せると言ったのは志摩だ。文句はあとで聞くから、と、アイコンタクトをしながら俺はちらりと栫井を伺った。

「…………」
「あの、栫井……?」
「……喉が乾いた」

「なんか買ってこいよ」と、椅子に腰を掛ける栫井。

「炭酸キツイやつ」
「は?俺が?なんで?」
「早く行けよ、感謝してるんだろ」
「こんの……っ」

 しまった、志摩の堪忍袋の緒の方が限界に達し掛けている。

「志摩っ、早く、早く行ってきて……!」
「でも、齋藤……」
「志摩なら、出来るよね」

 お願いだから、と小声で頼み込む。
 腑に落ちない様子の志摩だったが、最終手段、「あとで何でも言うこと聞くから」と続ければ渋々ながらも承諾してくれた。自分でも最終手段を安売りし過ぎな気がするが、今は物事を円滑に進めるしかない。

「……わかった。すぐに買ってくるからそこで大人しくしてなよ」

 そう、睨むように栫井を一瞥した志摩は病室を後にした。
 とてもじゃないが感謝している人間がする目ではないな。そんなことを思いながら俺は志摩を見送る。

「……で?何が目的だよ」
「え?」
「下手過ぎるんだよ、演技。……それで騙せると思ってんのがムカつく」
「ご、ごめん……」

 もしかしたら信じてくれたのかもしれない。なんて淡い期待も呆気なく叩き潰される。

「でも、本当に感謝して……」
「そんなのはどうでもいい」

 るんだ、と言い終わる前にきっぱりと切り捨てられてしまえば取り付く島もないわけで。
 何も言えなくなってしまう俺を横目に栫井は浅い息を吐いた。

「……志摩亮太を使ってまで何してんだ?あんた」

 それは、疑いの目そのものだった。
 完璧にやれているわけではないとは自覚していただけに、指摘されてもそう狼狽えることはなかった。
 けれど、それはつまり栫井にはなんの誤魔化しも通用しないということだ。
 一か八か、ギャンブルのような真似は好きではないけれど、ここで退いてしまえばチャンスは来ないかもしれない。とどのつまり、栫井が俺の話を聞いてくれる今しかない。

「……あの、栫井、ここを出れる方法があるんだ」
「志摩亮太だろ」

 そこまで知っていることは驚いたが、入院患者ではない志摩がこの院内に彷徨いてる時点で栫井も察したのだろう。俺は無言で頷いた。

「志摩には、俺からも栫井を出してもらえるようお願いする」
「……」
「だから、その……教えてもらいたいことがあるんだ」
「……」
「……あ、あるんだけど、その……」

 先程から何も言わない栫井に不安になって、ちらっと栫井の表情を伺えばやつは不快そうに眉間に皺を寄せる。

「……早く言え」

「イライラするんだよ、お前の話し方」どうやら無視していたわけではないようだ。
 大分苛ついているようだったが、その栫井の言葉からするに完全拒否するつもりはないようで。
 いける、そう直感で感じた。

「風紀委員のこと、教えてもらいたいんだ」

 思い切って俺も、栫井に頼み込む。

「会長のことをよく思っていない、風紀委員の人を。……いや、阿賀松先輩と繋がってる人って言ったほうがいいのかな。……そういう人を、教えてほしいんだ」

 そう俺がしどろもどろ口にすれば、一目で分かるくらい栫井の表情が変わった。
 呆れ、にも似たその表情。栫井のこんな顔、初めて見たかもしれない。

「……お前、何企んでんだ?」
「……」
「おい」

 問い掛けに答えることは出来なかった。
 芳川会長と少なからず近い位置にいる栫井にはまだ、言えない。
 巻き込んでしまうことになるだろうし、それに、まだ栫井の真意が分からないのは事実だ。
 それでも、少しだけだが栫井について分かったことがあるのも事実で。

「栫井は知ってるよね。……そのために、先輩と関わってたんだから」

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