天国か地獄


 03

「それじゃ、まずは齋藤のご飯かな」

 簡易椅子から腰を持ち上げる志摩につられ、咄嗟に立ち上がろうとすれば腰に力が入らなくて、結果不自然にベッドに埋もれることになってしまう。

「何してるの、齋藤」
「なんか……上手く動けなくて」
「ずっと寝っぱなしだったもんね。少しは歩く練習してみたらいいんじゃないかな」

 歩く練習に辿り着くまでにまずベッドから起き上がれないのだが。
 元々あまり運動神経はよくないが、こんなことは初めてで。
 恥ずかしくなって躊躇っていると、不意に手を差し出される。

「ほら、俺の手に掴まって」
「え……」
「え、じゃないよ。そのままじゃ転がり落ちそうで見てられない」

「ほら」と再度促される。
 だけど、包帯の巻かれた志摩の腕を見るとその手を安易に掴むことが出来なくて。それでも躊躇う俺に、短気な志摩は早速苛ついてきたようだ。

「なにしてんの?」
「だって……志摩の腕、怪我して……」
「言ったよね、これくらい怪我の内に入らないって」

 言った矢先、思いっきり腕を掴まれ、そのままベッドの中から引き摺り出される。
 思ったよりも痛みはなかった、それ以上に、久し振りに地に脚をつけたようなそんな感覚に少しだけ、感動する。

「あ、ありがとう、志摩」

 慌てて志摩を振り返れば、すぐ傍に志摩の顔があってビックリした。
 至近距離で目と目が合って、先程のキスを思い出してしまった俺。
 一瞬にして顔面に血液が集中するのがわかった。

「……いいよ、これくらい。それよりも歩ける?俺の腕しがみついてていいから少しだけ部屋の中、歩く練習してみようか」
「いや、だいじょ……」

 大丈夫、と言い掛けた矢先、腰が抜けそうになる。
 がくりと膝が折れ、そのまま座り込みそうになったところを寸でのところで志摩に脇を掴まれ支えられた。

「………………」
「これは、まずは齋藤のリハビリ優先しなくちゃならないみたいだね」
「……ごめん」
「いいよ、別に。これくらい」

 もしかしたらちゃんとしろよとか毒づかれるかなと思っていたが、全然そんなことなくて、寧ろ普通に優しい志摩に余計申し訳なくて頭が上がらなくなる。
 そんな俺に、志摩は笑った。

「それに、俺がいないと齋藤はちゃんと立つこともできないなんてさ、可愛いじゃん。どんどん頼ってくれてもいいんだよ?」

 あ、ダメだ、変な方向にやる気を見せてきた。
 不穏な志摩の言葉に薄ら寒さを覚えたが、今、志摩が手を貸してくれるだけでもありがたい。……そう思うことにする。

「ほら、右」
「う、わ」
「齋藤、ロボットみたい」
「わ……笑うなよ……」
「ああ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど、齋藤見てるとつい、ね」

 そう言って目を細める志摩。
 一生懸命してる身からしてみると笑われるとムッと来るものがあったが、どことなく楽しそうな志摩を見てるとなんだかどうでもよくなってくる。
 志摩に手を引かれるように病室内を歩き始めること暫く。
 大分歩き方を思い出してきたが、足の裏が地面につく度に下腹部に違和感が走る。
 痛みも、少しあったがこれくらいなら我慢できる程度だ。

「……やっぱり、走るのはまだ無理そうだね」
「多分、歩いている内に感覚取り戻すと思うけど…」
「まあ、その時は俺が手伝うから心配しなくていいよ」

 まさかまた抱き上げられるのか。笑う志摩に嫌な予感を覚えずにいられない。 

「あの……志摩」
「ん?なに?」
「ちょっと、座りたい」
「ああ、そうだね。いいよ、少し休憩しようか」

 というわけで、志摩に手を引かれるようにしてベッドまでやってきた俺はそのまま腰を下ろす。
 大分、歩けるようにはなった。
 下腹部の力の入れ方も思い出すことが出来た。
 しかし、今のスピードでは遅い。恐らく今の俺が全力疾走出したところで大抵の人間にはあっさり捕まってしまうだろう。
 志摩は手伝うと言っていたが……やはり、志摩に頼る前提で考えるのは愚策だ。

「齋藤」

 そう、考えている時だった。志摩の声が聞こえたと思えば、次の瞬間ひやりとしたものが首筋に押し付けられる。
「うわっ」と飛び上がり、慌てて首を抑える俺。振り返れば、ペットボトルを手にした志摩がいて。

「あれ?冷たかった?……もう大分ヌルくなってるかなって思ったんだけど」
「っ、だ、だとしてもいきなりはやめろよ!……ビックリした」
「あはは、ごめんごめん。ほら、俺の飲みかけで良かったらあげるよ。喉、渇いたんじゃない?」

 色の付いたその液体は炭酸飲料のようで、流石に腹の中でぱちぱちなるようなものは今は控えたい。

「ごめん。今は、炭酸はちょっと」

 傷付くだろうか。思いながらなるべくオブラートに包んでみる。
 僅かに笑みを引き攣らせた志摩だったが、それも束の間。「ああ」と納得したように呟いた。

「……そっか、そうだね。……ごめん」
「えっ?!……いや、いいよ別に。俺はいいから、志摩が飲んで」
「後で齋藤の分も買わなきゃね。何がいい?」
「いや、俺は……」
「さっき飲み損ねて喉乾いてるんでしょ」

 指摘され、図星なだけに何も言えない。
「何がいい?」ともう一度尋ねられ、俺は口籠る。
 志摩が率先して面倒見てくれるのは有難いが、やはり任せてばかりでは心苦しいというか。なんというか。

「それなら……俺も、行く」
「齋藤も?それは別に構わないけど、大丈夫?」
「大丈夫。……それに、階段降りる練習もしないといけないし」

 この病院がどういう場所なのか知っておきたかった。
 そんな俺の意図を汲み取ったようで、薄く笑った志摩は「そうだね」と口を開く。

「じゃあ一緒に行こうか」

 ◆ ◆ ◆

 病院内は至って他の病院と変わりない。
 とにかく、綺麗。広い。それ以外は普通の病院なのではないだろうか。
 勿論、ここが阿賀松たちの息が掛かっているということを除いてだが。

「はい、齋藤」

 ラウンジ、自動販売機前。
 そう笑顔で緑茶が入ったペットボトルを手渡してくる志摩に、「ありがとう」とだけ告げそれを受け取る。
 病室の傍にミネラルウォーターのサーバー機もあったが断固として嫌がる志摩に半ば強引にラウンジまで引っ張られてきた。
 それにしても。

「普通だな、思ってたよりも……。もっと閉鎖的な感じかと思った」
「どうして?」
「阿佐美が言っていたんだ。ここから出さないって、出られたら……困るからって」
「……へえ」
「そういや、志摩は普通に出入りできるのか」

 明らかに阿賀松たちに敵意を剥き出しにしている志摩が学園と病院を行き来している。そう考えるとあの阿佐美の言葉はちょっとした脅しだったのだろうか。
 そう思って志摩に聞いてみようと思ったのだけれど、志摩の表情が僅かに翳る。

「……」
「……志摩?」
「いや、なんでもないよ。……そうだね、俺は一応普通に出入り出来るみたいだけど……」

 そう、なんでもないように笑う志摩だが、握り締める拳が何かを堪えるように硬くなったのを俺は見逃さなかった。
 ……何か、変なことを聞いてしまったのだろうか。

「でも……閉鎖的、ね。あながち間違ってないかもね」

 ラウンジのテーブル席。「座ろうか」と促され、俺と志摩は向かい合うようにそのソファーに腰を掛ける。
 ふかふかのソファー。掃除だって手入れが行き届いていて、窓からの日差しもあってラウンジの居心地はかなりいい。だけど、志摩はやはり居心地が悪そうで。

「ここの病院は六階まであるんだ。けれど、エレベーターのボタンには五つしかない。四階のボタンが存在しないんだ」
「え……」

 声を潜める志摩。突然何を言い出すのかと、まさか怪談話かと思って身構えれば「そんなに構えなくていいよ、大した話じゃないから」と志摩は笑う。

「つまり、四階へ向かうにはエレベーターを使うことはできない。けれど、非常階段を使えば他の階へ向かうことはできるけど非常階段には鍵が掛かっていてね」
「あの……」
「そして、ここはその四階」

 突然変な話をし始めるのでまさかと思っていたが、まさか、本当に。
 青褪める俺とは対照的に志摩は全く気にした様子はなくて。
 故意に隔離されているというのに、どうしてそんな風に笑っていられるのだろうかと呆れたが、よくよく考えてみるとそんな状況の中でも関わらず志摩はこの階を出入りしているということになるのだ。その矛盾に気付き、ハッとした時、志摩は口元を歪める。

「良かったね、齋藤。俺がいてさ」

 そして、服から取り出したのは一枚のカード。
 病院名が表記されたそのカードに、俺は目を丸くした。

「っちょっと待って、それって」
「これで、非常階段は突破だね」
「っ志摩」
「ん?どうしたの?」
「どうして、そんなもの……持って……」

 嬉しい反面、嫌なものを感じた。それがなんだかわからない分気持ち悪くて、恐る恐る志摩に尋ねてみれば志摩は笑うばかりで。

「齋藤は気にしないでいいよ」
「志摩」
「大丈夫、盗んではないから。これは、今度は俺のだよ」
「だから、どうしてそんなものを持ってるんだ」
「……」

 都合が悪くなると、志摩は黙り込む癖がある。癖と呼んでいいのかわからないが、それでも志摩が話したがらないのは確かで。
 志摩が、この四階を行き来するために貰った。そう考えるのが妥当だろう。
 だけど、その場合。

「もしかして、志摩、どこか悪いのか……?」

 阿佐美と同じように通院するため、カードを持っている。
 そう考えるとこれ以上の負担を志摩に掛けるわけにはいかない。
 恐る恐る尋ねる俺に、黙っていた志摩は「ふふっ」と吹き出した。

「やだな、俺が不健康に見える?残念ながら健康優良児だよ」
「なら、どうして」
「参ったな……齋藤って、こんなにしつこいんだったっけ?」
「どうしても言えないのか?」
「……別に言っても構わないけどさ、齋藤が嫌がるかなって思ったから言わなかったんだよ。わざわざ言う必要もないしね」
「俺が?」

 嫌な予感がする。志摩の諦めたような目に、背筋に冷や汗が滲んだ。

「お願い、ちゃんと話して……」
「……なら約束してくれる?俺の話を聞いても、気を変えないって」
「気って……」
「阿賀松と芳川を潰す。そう、俺に言ってくれたこと」
「……」

 そこまでしなくはならないのか。迷ったが、どちらにせよその決意は簡単に揺らがないだろう。
 小さく頷き返せば、志摩は「よかった」と頬を綻ばせた。そして、静かに語り始める。

「この四階はね、隔離監禁以外にも使えるんだよね」
「……え?」
「例えば、外部からの接触を避けたいときとか、安静にするために、とかね」

 続ける志摩。別にこの病院の仕組みなどについて聞いたわけではないのだが、関係があるということなのだろう。俺は黙って志摩の言葉を聞く。

「この病院というかこの階にはね、俺の兄貴もいるんだ」
「……は?」
「だから、このカードはお見舞い用にね。貰った。阿佐美に」

「それだけだよ」と笑う志摩に、俺はどう答えればいいのかわからなくて、だけどこのまま志摩が俺に手を貸したとして。
 そのとき、志摩がどういう仕打ちに遭うのか安易に想像できてしまい、言葉を失った。

「それだけって……ちょっと、待って。それじゃあ、志摩がそれを悪用したらまずいんじゃないか」
「どうして?」
「だって、ここは先輩たちの息が掛かってるって……」
「まあそうだね、あいつら馬鹿だから兄貴を人質にしてくるかもねえ」
「だったら……」

 やっぱり、やめよう。そう言いかけたが、その先は声にならなかった。
 選択肢が俺にはないのだ。この病院から抜け出すには志摩に扉を開いてもらうしかないのだ。
 押し黙る俺に、志摩は薄く笑う。

「だから言ったじゃんか、聞かない方がいいって。言っとくけどね、齋藤。阿賀松たちは兄貴を外部から守るためにこの病院に運んだんだよ。この意味が分かる?」
「……志摩のお兄さんには手を出さない?」
「ま、あくまでも確率の話だけどね。今の阿賀松たちがどう動くかは俺にもわからない。けれど、俺はどうでもいい」
「どういう意味だよ」
「簡単だよ。俺は兄貴が死のうが生きようが興味がない。だから、齋藤があいつの身を案じる必要もない」

「ほら、簡単でしょ?」と、笑う志摩は嘘を吐いている様子もなければ虚勢を張っている風でもなく、当たり前のことを言うかのように口にした。
 俺には兄がいないからわからないが、それでも、自分の家族をそういう風に言う志摩が悲しくて。
 それと同時にその志摩の言葉に安堵を覚えてしまう自分に嫌気が差した。
 志摩は、俺に手を貸してくれた。自分の兄弟よりも、俺を。
 素直に喜べない。喜ぶべきではない、わかっているけれどそんな志摩に酷く勇気付けられるのも事実だ。

「……ありがとう、志摩」
「お礼を言われることでもないよ。齋藤は、俺を庇ってくれたんだから」

 テーブルの上、置いた掌に重ねられる志摩の掌。
 そう、指を絡ませるように俺の手を握った志摩は、目を細める。

「嬉しかったよ、俺。……すごく、嬉しかった。誰かに庇ってもらったこと、なかったから」

 触れ合った指から流れ込んでくる志摩の熱。いきなり手を握られ驚いたが、振り払う気にはならなかった。
 それどころか、志摩の言葉が頭の中で反響して、何も考えられなくて。

「齋藤が決めたんなら、俺もやるよ。最後まで手伝う。別に齋藤のためじゃないよ、俺がしたいからするんだ」
「……志摩」
「だから、『やっぱりやめた』はなしだよ。齋藤」

 真っ直ぐにこちらを覗き込んでくるその瞳の奥。
 志摩の中にある得体の知れないなにかが目に見えたような気がしたが、何故だろうか。目を逸らせなかった。ぎゅっと握り締められ、関節が軋む。
 志摩は、わかっていない。その手を握り返そうとも、手の甲に重ねられた状態では志摩に触れることすら出来ない。だから俺はもう片方の手で志摩の手を握り締めた。
 細い指、骨ばった手の甲。何度も俺はこの手に引っ張られた。だけど、今度は引っ張られるばかりではいかない。

「……わかってる」

 志摩の手を包み込めば、僅かに掌の中の志摩の手が反応した。それでも俺は掴んだ手を離さなかった。離せなかった。引き返すのが怖かった。後ろを見て躊躇うことも恐ろしかった。

「志摩、俺、やるよ。……ちゃんと、最後まで諦めないから」
「嘘吐いたら針千本だよ、齋藤」
「わかってる、千本でも二千本でもなんでもいいよ」

 口にしてしまえば、気持ちが軽くなる。
 今更引き下がれない。志摩の手も借りなければならない。
 それでも、志摩はああ言ったが志摩のお兄さんを無視することは出来なかった。

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