天国か地獄


 01

『ゆう君』

 名前を呼ぶ声がする。忌々しいくらい、優しいあの声が。

『ゆう君、君は本当に馬鹿だよね』

 暗闇の中、現れた壱畝遥香は中学生の頃の姿のままで。
 黒の学ランとは対照的な派手な金髪を流した壱畝は笑う。
 そんなこと、知っている。ずっと前から知っている。こんな自分の性格に俺は何度も困らされてきたのだから。

『どうして志摩亮太庇う必要があったのかな?あそこで阿賀松伊織の言う事を聞いていれば、少なくとも志摩亮太も君も無傷のまま解放してもらえたかもしれない』

 中学生の壱畝が志摩や阿賀松のことを知っているはずがない。これは夢なのだ。
 目の前に立っているのは壱畝ではなく、壱畝の皮を被った俺だ。

『散々騙してきた志摩亮太をちょっと騙すだけだったんだろ?自業自得もいいところだ、君が志摩亮太の心象を気遣う義理なんてないはずだけどね』

 壱畝の姿をしたそいつは笑う。頭の片隅に追いやっていた後悔の念がこういう形として現れたのだろう。
 だけど、何を言われたところで俺の心は動かない。
 行動した結果、志摩を助けることが出来た。阿佐美が来るまでの間、時間を稼ぐことが出来た。その事実で俺は満足だった。
 ……俺がどうなろうとも、満足だった。

『本当にゆう君がそこまでする価値のある男なのか?志摩亮太は』

 価値なんて関係ない。俺には興味がない問題だ。
 だけど、あの時俺のせいで志摩が傷付いたら、恐らく俺は一生後悔していたはずだ。それに比べたら、この体がどうなろうと。

『……志摩亮太が好き?』

 それも、俺にとって興味はない話題だ。
 好きとか嫌いとか、そんな感情、俺にとって然程意味もなさないことを知ってしまった今、一々基準付ける気すらも起きない。
 志摩のことは、苦手だ。今でも。気紛れで、すぐ拗ねるし、いつも笑って冗談ばっか言ってると思ったら本気だったり、分からない。
 俺とは正反対で、だからこそ志摩のことを理解できなかった。
 けれど、正反対だからこそ志摩は俺にはできないことを簡単にして見せて、躊躇う俺の背中を突き飛ばす勢いで押してくれて。
 好きか嫌いか一概に言うことは出来ない。それでも、志摩みたいな存在は恐らく、今の俺には必要なのだろう。それだけは、なんとなくわかった。

『本当、馬鹿だよね』

 壱畝が笑う。わかってる、と口の中で呟いたとき、目の前の壱畝の幻覚は霧散する。
 そして、微睡んでいた視界は次第に明るくなっていく。

 鉛のように重い瞼を持ち上げれば、そこは見たことのない天井だった。

天国か地獄≪root-α≫
最後の裁定


「こ、こ……は……」

 部屋でもない、保健室でもない。見たことのないその場所に戸惑いながらも視線を動かし、辺りを探る。
 そして、すぐ傍にいたその人影に驚き「ひっ」と声をあげてしまった。
 壁に凭れ、うとうととしていたそいつは俺の声で気付いたらしい。ゆっくりと目を開く。

「うるせぇな……声でけーんだよ」

 欠伸を噛みしめる栫井平佑に睨まれ、つい「ごめん」と萎縮してしまう。
 いや、ちょっと待て。なんでここにこいつがいるのか。というより、どこだ、ここは。

「……えっと、あの、栫井……?」
「……」
「ここ、どこ?」
「…………見て分かんだろ」

 いや、確かになんとなく察しはつく。
 白い壁に白いカーテン。ベッドの周囲に取り付けられた器具や道具には見覚えがある。

「病院?」
「それ以外になにがあんだよ、……つまんねえ質問すんじゃねえよ」
「……」

 場所を聞いただけでこの言われよう。口を利いてもらえるだけでも進歩と思うべきか。
 ……それにしても、どうして俺が病院に。と思ったが、恐らく阿佐美が連れてきたのかもしれない。だとしたら、なんて栫井がここに?お見舞い……なわけないか。でも、だとしたらどうして。
 起き上がろうとした矢先、腰に痛みが走り「痛っ」と呻いてしまう。
 あの時、裂けるような激痛を伴った行為に比べたらマシな方だろうが、目覚めたばかりの頭にはなかなかな刺激の強さで。再びベッドへ寝転んだ、その時だった。 

「……ゆうき君、起きた?」

 扉が開き、聞き慣れた声が聞こえてきた。
 控えめで、柔らかいぞの声は……阿佐美か。
 思いながら目だけを動かし、開いた扉に向けた俺だったが、そこに立っていた人物に目を見開き、絶句する。

 耳に掛かる程度の長さの黒い髪を無造作に流した長身痩身のその男は、俺の姿を見るなり安心したように「よかった」と口元を緩ませた。
 え、ちょっと待った、誰。痛々しいほどの顔面のピアスといい、阿賀松を思い浮かべてしまったが阿賀松はこんな顔をしない。
 と、いうことはだ。

「し、おり……?」

 恐る恐る、その男の名前を呼ぶ。すると、黒髪ピアス、もとい詩織は嬉しそうに笑った。

「うん!……って、あ、そうだね、わかんなかったかな」
「え、や、そうじゃないけど、その……」

 まるで俺の知らない人みたいで、それ以上に、髪を切ったことによってますます阿賀松に似てきた……というよりも血縁者なら仕方ないのだろうが、少しだけ、怖い。
 そこまで考えて、俺は安久から聞いたことを思い出す。

「っ、まさか、詩織」

 阿賀松に似ているのではない、似せているのだ。そのことに気付いた瞬間、血の気が引く。
 青褪める俺に、阿佐美は少しだけ申し訳なさそうにして、笑った。

「ゆうき君、会長のことはもう心配しなくてもいいよ」
「何言って、」
「阿賀松伊織の処分が決定した。……だから、もう会長がゆうき君を閉じ込めるような真似……多分もうしない」

 どこまで知っているのか、そう安心させるように笑い掛けてくる阿佐美に、動悸が加速する。
 俺が眠っている間に全て決着ついたということか、いやでも、阿賀松が処分されたということは。

「詩織、……学校辞めるのか?」
「……知ってたの?」
「安久から、聞いた。詩織が、先輩の身代わりになるって」

 困惑したように、阿佐美は視線を泳がして、そして「そっか」と諦めたように目を伏せる。

「そうだよ、まあ、もう辞めたことになるんだけど」
「……っ」
「……別に俺は学校好きじゃないし、どうでも良かったんだ。だから……そんな顔しないで」

 どんな顔になっているのだろうか。酷いことになっているのは間違いないだろうが。
 関係のない阿佐美が濡れ衣着せられて、学校を辞めさせられる。
 それだけで胸が痛くて、俺がちゃんと会議に出ていたら少しは結果が変わっていたのだろうか。そう思えば思うほど、顔を上げることが出来なかった。

「ゆ、ゆうき君……」

 次第に、みるみるうちに阿佐美の笑顔が萎んでいく。
 悲しそうに眉尻を下げる阿佐美が、おろおろし始めた矢先だった。

「……おい」

 先程まで傍観に徹していた栫井が、口を開いた。

「いつまでこんなところに閉じ込めるつもりだよ。……薬臭くて気分悪いんだけど」
「別に 閉じ込めるつもりはないけど……そうだね、換気した方がいいかな……」
「そういう問題じゃねえよ」

 閉じ込める。栫井の口から出た不穏な言葉に耳を疑わずにはいられなくて。ベッドの傍、佇む阿佐美を見上げれば目があって阿佐美は小さく笑う。
 大丈夫だから、とでもいうかのように。

「学園に戻りたいのは分かるけど……その怪我、完治するまで出すことは出来ないんだ」

 不満を露わにする栫井に、阿佐美は「それに」と口を開いた。

「……今はまだ、あそこへ戻らない方がいい」

 そう、続ける阿佐美の目が、僅かに細められる。
 笑みが消えた口元、真剣な目で呟く阿佐美に俺はただならぬ嫌な予感を覚えた。

「戻らない方がいいって……」

 言い掛けて、今阿佐美が阿賀松として退学になった事実を思い出す。ということは、残っている阿賀松は……。

「……ッ」

 栫井もその意味に気付いたようだ、顔を引き攣らせた栫井は目の前の阿佐美を睨み付ける。

「何を、企んでるつもりだよ」
「え、いや、企んではないよ?けど、副会長たちに今戻られたら困る……って言ってるんだけど、わかるかな?」

 そう、困ったように続ける阿佐美。そんな阿佐美の態度が気に入らなかったんだろう。今にも掴みかかりそうな栫井に、慌てて「栫井」と呼びかければ「馴れ馴れしいんだよ」と返される。よかった、まだ冷静なようだ。

「少しだけの間でいいんだ。それに、二人にはちゃんと怪我治してもらいたいし……」

 嘘を吐いている気配はしない。けれど、だからこそ余計、どうしようもなくて。
 俺の体が本調子ではないのも事実だ。大分痛みは和らいでいるようだが、生活に支障が出ないかといえば、わからない。

「……っ」

 すると、踵を返した栫井はそのまま病室を飛び出そうとする。
 驚いた阿佐美が「副会長」と呼び止めれば、こちらを睨むように振り返った栫井は「便所だよ」と吐き捨てる。

「どうせ、ここから出られないんだろ」

 それだけを言い残し、栫井はそのまま病室を出ていってしまった。
 二人きりになった病室内。栫井が出ていき、その反動で一人手に閉まる扉を一瞥した阿佐美は再度ベッドの上の俺を見下ろした。

「……ごめんね、ゆうき君」
「……え?」
「目が覚めたばかりなのに、色々言っちゃって混乱したよね?」

 不安そうな表情。
 いくら髪を切ったって、金属ピアスを嵌めたって、阿佐美は阿佐美だ。寧ろ、会長たちの前でちゃんと阿賀松のフリを出来たのだろうか、そう余計な心配しそうになるくらい、優しい阿佐美は変わらない。

「いや、俺は大丈夫……だから、お願い。ちゃんと一から説明してほしい」

 とにかく今は、情報が必要だった。でなければ、取るべき行動がわからないから。

「ゆうき君が気を失った後、病院に連れてきたんだ」
「病院ってことは、まさか、その……家の方に……」
「……悪いけど、それはしてないよ。迷ったんだけどね、あいつのしたことが出回るのは困るんだ。だから、治療費も入院費も全部こちらが出す。休学の手続きも全部済ませてあるから」

 申し訳なさそうに続ける阿佐美の言葉に安堵する。
 本来ならば、呆れないといけないところなのだろう。自分の怪我を阿賀松伊織の名前を汚さないために隠蔽され、全て金で済まされるということに。
 それでも、俺にとっては願ってもいなかったものだった。
 家に連絡がいかなければ、それでいい。
 治療してもらえるのなら、良い方だろう。怪我をさせられるだけさせられ、そのまま放置されたこともある。それに比べたら、良心的だ。
 ……そんなんだから俺はダメなのだろうか。

「とにかく、最低でも一週間、ここにいて。ここはうち系列の病院だから、ゆうき君には傷一つ残らないようしてもらってるしご飯も、美味しく作らせるから。……駄目かな」

 何も答えない俺に、不安そうにこちらを覗き込んでくる阿佐美。
 やはり、こうして阿佐美と目を合わせるのはまだ慣れないが、それでも安心出来るのは阿佐美の人柄のお陰か。
 ……だけど、一週間か。短いようで、長い。

「……あの、詩織」
「ん……、どうしたの?」
「志摩は、どうしてる」

 返す言葉が見付からなくて、咄嗟に思い浮かんだクラスメートの名前を口に出す。
 瞬間、僅かに阿佐美の表情が薄暗くなるのを俺は見逃さなかった。

「……まさか、何かあったのか?」
「いや、ゆうき君が心配するようなことはないよ。……だけど、志摩に会いたいの?」

 どういう意味だろうか。やけに回りくどい阿佐美になんとなく胸がざわつく。
 小さく頷き返せば、「そっか」と阿佐美は呟いた。

「多分まだ病院の中彷徨いてるよ。ゆうき君が目を覚ますまでずっと部屋の前にいたから、追い払ったんだ」
「ずっと?」
「うん。……けど、余計なことしたみたいだね」


 笑う阿佐美の表情はぎこちない。
 阿佐美が志摩のことをよく思ってないのも、その理由も知っている俺からしてみれば、阿佐美に対して失礼だったかもしれない。
 それでも、会えるのなら、会いたかった。
 目を離していると何を仕出かすかわからない、そんな危うさを持ち合わせた志摩だからこそ、余計。

「ここへ、呼んでもらうことは出来るかな」
「……わかった。ゆうき君が会いたいなら、いいよ」

「ちょっと待っててね」と、だけ言い残し阿佐美はそのまま病室を後にした。

 阿佐美が部屋を出ていって、どれくらい経ったのだろうか。
 一人の間、俺は現時点での情報を整理しようとしてみたが……すぐに終わってしまった。やはり、少なすぎる。
 恐らく阿賀松は阿佐美として学園に残っているのだろう。
 そして、俺と栫井は阿賀松の息の掛かった病院に閉じ込められている。
 一週間。そんな時間、待てるわけがない。休学届けが出してあると阿佐美は言っていた。ということは、自由に動けるわけだ。
 とにかく、芳川会長の状態が気になる。それと、阿賀松も。
 阿佐美には悪いが、一週間ここでのんびりしてるつもりは毛頭ない。事が大きくなる前に、芳川会長を止めなければならない。
 だとしたらやはり、目の前に立ち塞がるのは阿賀松の存在だった。
 そこまで考えた時だった。ガチャリと、小さな音を立てて扉が開く。慌てて扉の方を見れば、そこには――。

「志摩っ!」
「おはよう。……ようやく気付いたみたいだね」

 そう笑う志摩は以前と変わらない様子で。
 気失う前に見た志摩を思い出しては心配していたが、どうやらいらぬ世話だったようだ。

「怪我の具合は?」
「うん、……まあまあかな」
「そ、まあまあね」

 そう笑みを浮かべたまま、志摩は黙る。
 笑顔はいつもと変わりない、しゃべり方も。
 だけど、何故だろうか。少しだけ違和感を覚えた。

「……志摩は?」
「ん?なにが?」
「怪我の、具合」

 言ってから、余計なこと聞いてしまったかなと後悔する。
 それでも、志摩は笑顔で答えてくれた。

「怪我なんて呼べるもの俺にはないよ」

 そういう志摩の両手首に白い包帯が巻かれているのを見て、痛々しいくらい擦り切れた手首を思い出す。
 俺は何も言えなくなる。

「あの、志摩」
「ん?どうしたの?」
「……なにか、あった?」
「なにが?」
「だから、何か……俺がいない間」
「別に?普通だよ」

 嘘だ、と俺は確信する。
 何もないはずがない。暴言どころか嫌味のひとつも口にしない志摩に、俺は違和感の正体に気付いた。
 志摩が優しすぎるのだ。出会った頃と変わらない、当たり障りのない、それでいて一定の距離を保ったようなその白々しさ。

「本当に、なにもなかったのか?」
「だからないってば。どうしたの?さっきから」
「だって……なんか、志摩、おかしい……」
「……は?」
「俺の心配してくれるし、嫌味も言わないし……」
「……」
「やっぱり、何かあったんじゃ……」

 そう、不安になって隣に立つ志摩を見上げた時だった。
 がっと、頬を掴まれた。

「……あのさぁ、齋藤」

 その声は、先程に比べ低く、冷たい。
 笑みを浮かべたまま、志摩はゆっくりと俺を見た。

「俺が優しかったらおかしいわけ?」
「いや、おかしいっていうか……そ、その……気味が悪いっていうか……」
「……」

 押し黙る志摩。しまった、言いすぎてしまったのだろうかと不安にたりながらも「志摩?」と再度やつの名前を口にした時。
「はあぁ」と、盛大に溜め息をつく志摩。

「あの、ごめん、今のは言い過ぎ……」

 た、と口を開いた時。
 視界が陰ると同時に、唇に柔らかい感触が触れた。
 ほんの一瞬、その感触にびっくりして目を見開いた時、目の前の志摩と視線がぶつかって。
 キスされた。そう理解した瞬間、顔面から火が噴き出しそうなほど、熱くなった。

「な、なに……」
「齋藤が悪いんだよ。……俺は、目一杯優しくしてやろうと思ったのに。……それを、気味が悪いなんて言うから」

 自分からキスしたくせに、志摩も志摩でばつが悪いようだ。
 目を逸らす志摩の頬が赤くなっているのを見て、またさらに顔が熱くなった。

「優しくって、別に、今更いいよ」
「……本当、齋藤ってムードもクソもないよね。空気読めないわけ?俺が優しくするって言ってるのに」
「気持ちは嬉しいけど……志摩が優しいと、ちょっと」
「……」

 まずい、必死にフォローしようとすればするほど志摩の機嫌が悪くなっていく。
 このまま臍を曲げられては堪らない。とにかく話題を変えよう。

「……でも、どうして急に優しくしようだなんて、そんなこと」

 しまった、全然話題変えられてなかった。

「……それを、わざわざ俺の口から言わせるつもり?」

 取り敢えずここは「うん」と答えておこう。
 頷き返せば、仏頂面になった志摩はそのまま考え込むように黙る。

「……?志摩?」
「……別に、意味なんてないよ。……なんとなく、優しくしてやろうと思っただけ」

 そう言って、志摩は「不満?」と笑う。
 そんなことない。下手に飾り立てた嘘よりも、他愛もない事実の方が俺にとっては嬉しかった。
 少なくとも、志摩がそう思ってくれただけでも、俺は。

「だけど……やっぱりちょっと優しいのは……」
「うん、俺もそろそろ堪忍袋の緒が限界なんだけど」

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