天国か地獄


 10

「志摩!」

 なんてことを、と青褪める俺に志摩はあくまで普段と変わらなくて。
 その様子は、どこか落ち着いてさえいる。

「齋藤、悪いけど少し静かにしてて。齋藤の声聞くと緊張感なくなるから」

 そんなことを言われても。
 こんな状況を黙って見逃せる人間がいるというのか。
 刃先を向けられた芳川会長も会長で顔色一つ変えるわけでもなく、呆れた様子で息を深く吐き出した。

「……許される冗談の範疇を越えてるようだが、もちろん警察を呼ばれる覚悟はしてるだろうな」
「そうだね、呼びたいなら呼べばいいよ。その場合、あんたも道連れになっちゃうだろうけど」
「……」

 警察だとか道連れだとか、聞き逃せない単語が飛び交う中、俺は慌てて起き上がり、志摩を見上げた。

「ダメだって、志摩、お願いだから……っ」
「齋藤、いくらこいつが好きだからってなにも俺の邪魔まで真似しなくていいんだよ」

「それとも、同じようにしてもらいたいわけ?」そう薄く笑んだ志摩はナイフの先端を俺に向けた。
 いつもと変わらない様子、軽薄な口振り。
 ああ、なるほど、と思った。演技だ。そう直感した。
 いつもと変わらない余裕溢れるその態度は脅迫する人間のものとは違う。
 なにを企んでるのかわからないけど、邪魔をするなということだろう。目があって、志摩が小さく笑った。それも束の間。

「用があるのは俺にだろう、彼に刃を向けるな」

 抵抗するわけでもなく、そう静かに言い放つ会長に志摩は少し意外そうな顔をした。
 そして、

「俺的には、鈍臭い齋藤を相手にした方がやりやすいんだけどね。会長さんがそういうなら仕方ないな」

 白々しい口調と態度。言われるがまま、志摩は俺に向けていた刃先を再度会長の首筋に突き付けた。
 言葉とは裏腹に、その目は愉しそうに輝いているのを俺は見なかったことにする。

 志摩の指示により会長にベッドに括りつけられていた紐を切ってもらい、ようやく自由を手に入れたのはいいが。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

「それで、こんな茶番まで企てて、なにが目的だ」

 歩く度に足元に散乱したガラスがパキパキと割れる。
 吹きさらしの部屋の中、ソファーに腰を下ろした会長は背後から刃物を押し付けてくる志摩を尻目に問いかけた。

「単刀直入ですか。……情緒がなくて嫌だなぁ、そういうの」
「君も、俺とだらだらお話がしたいわけではないだろう」

 切り捨てるようなその言葉に、志摩は嘲笑うように目を伏せた。
 そして、

「生徒会長を辞任して下さい」
「な……ッ!」

 その口から出てきた言葉に、逸早く反応したのは俺だった。
 なにを言い出すかと思えば、あまりにも無茶苦茶だ。こんなことをしてまで、というか、なんでこんなときに。
 志摩が何を考えてるのか解らなくて、それは会長も同じなのだろうか。さして驚くわけでもなく、会長は無言で志摩の言葉を聞く。

「今日中に書類を提出したら明後日くらいには受理されるんでしょう?問題起こして無理矢理辞めさせられるのと自分から辞めるの、やっぱり自分から辞める方がかっこいいと思うんですけどねえ、俺は」
「なに、言ってんの、志摩」
「俺は本気だよ、齋藤。齋藤のお陰だよ、ようやくボロ掴めたんだからさ」

 その言葉に、俺はナイフを握るその手の甲に目を向けた。
 不自然に青黒く鬱血したその手の甲は、間違いなくあのとき会長は踏み躙ったときのものだろう。
 目を逸らしたくなるほど痛々しいその跡に、俺は何も言えなくなる。そんな中、ゆっくりと会長が口を開いた。

「……そうだな、仮に俺が会長を辞任したとしよう。それが君になんのメリットになるんだ」
「目障りなゴミが消える。万々歳だよ」
「嘘だな」

 と、間髪入れずに突っ込む会長。

「それなら俺を退学に追い込んだ方が確実だろう。なぜ辞任に拘る?」
「あんた、見た目通りねちねちしつこいね」

「それは、会長さんが辞めてからのお楽しみにとっておくことにしてるから」そう嘲笑う志摩に、会長は「そうだな、ならば期待しておくとしよう」と口元を歪めた。
 見たことのない、その嫌な笑顔に寒気が走る。
 二人を止めることが出来ず、だからと言ってただ聞き流すことのできる状況でもなく、板挟みになって身動き取れない俺に救いの手を差し伸べたのは、会長の一言だった。

「……齋藤君、そこの机の引き出しに用紙と万年筆が入っている。取ってくれないだろうか」
「あ、は、はい!」

 いきなり呼ばれ、戸惑いながらも慌てて俺は机へと駆け寄った。
 会長の言葉通り、机の引き出しには大体の筆記用具が揃っていて、支持されたものだけを持っていき、会長に手渡した。

「どうぞ」
「すまない」

 そう言って、万年筆を手にした会長。
 まるで突き立てるかのようなその不自然な握り方に一抹の違和感を覚えた矢先のことだった。
 万年筆の先端がナイフを持った志摩の手を向く。気付いた時には体が動いていた。

「ッ、ゔぐ……ッ!」

 万年筆の先を掴もうと広げた手のひらに尖った感触が突き刺さる。
 脳天から爪先にかけて突き抜ける鋭い痛みに、喉の奥から悲鳴が漏れた。
 俺の声に驚いたのは芳川会長だった。

「齋藤?」
「……ごめん、大丈夫、なんでもないから」

 志摩に見つからないように、俺は万年筆を握る芳川会長の手を掴んだ。
 嫌な汗が滲む。どくどくと手のひらが脈を打つのを感じながら、俺は芳川会長を見上げた。
 ぬるりとした液体が、肌を滑り流れていく。
 なんで。そう言いたそうにこちらを見下ろす芳川会長。
 見開かれた目から、俺は視線を逸らした。

「今度は……ペン、落とさないように気をつけて下さいね」

 そう笑みをつくって、会長の手を離す。
 赤く汚れた万年筆を見た志摩は、俺を睨んだだけで何も言わなかった。

 淡々と時間が流れていく。
 痛覚は麻痺し、痛みも次第に薄らいできた。なのに、灼けるような熱だけは確かに残っていて。

「……ほら、これでいいのか」

 時計のない部屋の中。テーブルの上、芳川会長は万年筆を置いた。志摩は卓上の書類を手に取り、目を通す。
 横目でそれを盗み見れば、確かに会長が生徒会長を辞任するといった旨の文章が記されているようだった。
 それを再びテーブルに戻した志摩は「まだですよ」と、一言。

「これからこれを顧問に提出してきて下さい」
「構わないが、君も付いてくるんだろう。まさか、それを持って俺の後ろにでもくっついてくるつもりか?」
「付いていくつもりですけど、流石にそこまで馬鹿じゃないですよ、俺も」

 自嘲混じりの嫌な笑みを浮かべた志摩はそう言って、ソファーに座っていた俺の元へやってきた。
 ナイフを軽く回し、握り直す志摩。嫌な予感がして、志摩を振り返ろうとした時、肩を掴まれた。
 そして、

「ひッ」
「これでどうですか?」
「……君は、少しは改心したと思ったんだがな」
「またまた、会長さんは心にもないことを言うのがお上手ですね」

 背後から抱き締めるように肩に回された手には先程のナイフ。
 その先端が向いているのは、俺の丁度顎の下。顔の付け根。沢山の神経が収束した部位、首。首筋に突き立てられたその鋭い刃先は軽く触れただけでも皮膚を裂くことが出来そうだ。そんなものが、今、俺の首に突き立てられている。
 それだけで全身に汗がぐっしょりと滲み、脈が乱れ始めた。

「俺の命令に背く真似をしたら齋藤の脈一本ずつ切り取るから」

 それは俺に対しての警告か、それとも会長に対する脅迫なのか。
 どちらにせよ、刃物を押し当てられるという事実は俺の思考力を低下させるには充分で。

「……」
「では、行きましょうか」

 ……冗談だよね?
 そんな俺の問い掛けに、答えてくれる人はもちろんいるはずもない。

 ◆ ◆ ◆

 会長の部屋を後にした俺たちは、校舎へと繋がる通路を使い移動した。
 今日は休日だからか、校舎内に人気はあまりない。それが唯一の救いだった。
 職員室前。扉の前まで歩いていく芳川会長から数メートル離れたところを、俺と志摩は歩いていた。

「し、志摩……」
「ほら、ちゃんと前見て歩いて。転ぶよ」
「で、でも……」
「しっ、大きい声を出さないで。聞こえる」

 注意され、つい「ご、ごめん」と謝ってしまったが、よくよく考えるとナイフを突き付けられた状態で平静を保ってられる人間のほうが殊勝なんじゃないだろうか。
 正確には、いつでも刺す位置にナイフを手にした男が背後から狙っている、だろうが俺の方からしてみればどちらも同じだ。心臓に悪い。
 青褪め、俯いて歩く俺に志摩も少なからず察したのだろう。

「とにかく、俺を信じて」

 そう、軽く腰を叩かれる。
 まるで励ますような、勇気付けるようなその仕草に少しびっくりして顔を上げれば、微笑む志摩と目があった。

「……わかった」

 志摩なりになにか考えがあるということだろう。
 とても褒めるようなやり方ではないが、中途半端に失敗させてしまえば会長どころか志摩まで問題になってしまうのは明らかで。とにかく、穏便に済むならそれがいい。
 ならば俺は、志摩のことを信じたいと思う自分を信じるだけだ。
 職員室前では、顧問らしき男教師と芳川会長が数回言葉を交わしていた。
 声までは聞こえないが、唇の動き方から『すみません』とかそういう感じだろう。そして、狼狽える男教師に会長は手に持っていた書類を手渡した。

「擦り替えてはないみたいだね」
「うん……」

 血相を変え、止めようとしてくる教師を振り払い、芳川会長はこちらへとやってくる。

「これで用は済んだだろう。彼を離せ」
「その前に、行きたいところがあるんですけど」
「なに?」

 それは俺も聞いていなかった。どこに行くつもりなのだろうか、検討付かなかったが、笑う志摩の目に嫌なものを感じた。
 それが気のせいではなかったことは、すぐに証明されることになる。

 ◆ ◆ ◆

 学園敷地内、今はもう使われていない旧体育倉庫の前。
 会長とともに中に入った志摩に「待ってて」と言われ、待ちぼうけくらうこと数分。
 前回のことがあるので神経擦り切らせて中の様子を伺おうと高窓にしがみついていると、倉庫の中から志摩が現れた。

「ねえ、志摩、何してたの……?」

 恐る恐る尋ねれば、倉庫の扉に鍵を掛けていた志摩は何かを取り出した。
 そして、

「はい、これお土産」
「っ!これって……」

 手渡されたのはシルバーの携帯端末だった。
 どこかで見覚えがあると思えば、傷一つないそれは以前芳川会長が使っていたもので。

「それと、これね」

 なんで携帯を、と驚いている矢先、どこから取り出したのかばさばさとなにかを地面に捨てる志摩。
 足元に散らかるそれに、更に俺は青ざめた。

「ちょっ!ちょ、なにしてんだよ、これ!」
「そりゃ、逃げられないようにするにはこれしかないでしょ」

 そう平然と言いのける志摩。地面の上のそれは、芳川会長が先程まで着ていたものだ。
 だとしたら、今、会長は……。そう考えただけで血の気が引いていく。

「大丈夫だって、心配しなくても齋藤が煩いから脱がす以外はなにもしてないよ」
「当たり前だよ!」

 誇らしげに言う志摩になんだか頭が痛くなってきた。
 なんてことを。会長は絶対怒っているはずだ。そもそも、逃げられないようにするためにということは本当に会長をここに閉じ込める気なのか。
 いくら気候が温かくなってきたとはいえ、夜は冷えるはずだ。
 一度ここに閉じ込められているからこそ、分かる。それなのに、おまけに身ぐるみまで剥いでしまうなんて。

「志摩、いくらなんでもあれはやり過ぎじゃ……」
「何言ってんの、俺はあれだけでも物足りないくらいなのに」
「でも、だからって」
「それより齋藤、なにかおかしいと思わない?」

 あからさまに話題を変えられ、思わず俺は「え?」とアホな顔をした。

「だってあの会長さんが素直に俺の言うこと聞いたんだよ、おかしいと思わない?」
「そりゃ、刃物で脅されたら誰だって言うこと聞くよ……」

 なにを当たり前のことを言っているんだ。
 突っ込む気力もなくなって、力なく答える俺に志摩はまだ腑に落ちない様子で。

「本当はさ、俺、会長さんは齋藤を見捨てると思ってたんだ。だってそこまで齋藤に入れ込んでるとは思えないから」
「た、確かにそうだけど……」
「でも、会長さんは齋藤を見捨てなかった。おかしいよね」
「会長は、志摩にはあれだったかもしれないけど、……優しかったよ」

 少なくとも、俺にとって会長は憧れの先輩だった。優しくて、かっこよくて、いつも堂々としてて。
 ……過去形になってしまうのが、悲しい。

「会長の権限まで捨てて、齋藤を庇うメリットねぇ……」
「ごめんね、庇うメリットがないようなやつで」
「なに、怒ってるの?」
「そうじゃないけど……」
「面白い顔になってる」

 喉を鳴らし、愉快そうに笑う志摩を睨めば、志摩は「冗談だって」と肩を竦める。

「でも、俺だって怒ってるんだからね。俺がいいって言うまで入ってくるなって言ったのに」

 まさかこのタイミングで蒸し返されると思わなかっただけに、つい俺は口籠った。

「だ……だって、いつまで経っても連絡がなかったから、なにかあったんだと思って」
「何かあったから連絡がないのは当たり前でしょ。なんでそんなところにノコノコ出ていくのかが理解できないな」
「分かってて、無視できるわけないだろ」
「……はぁ」
「な……なにその溜息」
「……ねえ、キスしていい?」
「えっ?!」

 今の会話でどうしてそんな流れになるんだ。
 怒ってるのかふざけているのかわからず、志摩の方を見上げれば徐ろに志摩は俺から視線を逸らした。
 珍しく、バツが悪そうな顔。

「俺の言うこと聞かないし、綺麗事ばっか吐いてはすぐ捕まっちゃうわでムカつくんだよ」

 吐き捨てる言葉に、いつものトゲトゲしさや含みはない。

「……ムカつくのに、すげー喜んでる自分に余計苛々する」
「し、志摩……」

 全て、本音なのだろう。どことなく悔しそうなのが不思議だったが、それでも志摩の言葉に自然と体の緊張が緩む。自分が喜んでるのだと、すぐに気付いた。
 俺も、そう思ってくれて嬉しい、なんて言ったら引かれるだろう。
 日和見野郎と呆れられるかもしれない。
 敢えて言葉を飲んだその次の瞬間、辺りに無機質な着信音が響く。聞き覚えのある音だ。なんだっけ、と思った時、志摩は「それじゃあ」と軽く手を叩いた。

「一先ず休憩しようか。それに、手当も。せっかくの綺麗な手なのに傷が残ったら大変だ」
「でも、どこで……」
「いいから、齋藤は静かにしててね」

 言うやいなや、制服のポケットから携帯端末を取り出す志摩。
 ピンクのその端末には見覚えがあった。そうだ、安久の携帯だ。
 震えるそれを耳に押し当て、志摩は通話ボタンを押した。

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