天国か地獄


 08

 校舎内、非常階段。
 横にも縦にもでかい校舎の外壁を伝うように造られたその階段は人が登るにはあまりにもキツすぎて、エスカレーターが当たり前のように移動手段として使われている今、寒いわ暗いわ長いわのこの非常階段を階段として使う人間はいない。俺たちを除いて。

「齋藤、ついてきてる?」
「……うん、なんとか」
「ならよかった。さっきからすごい静かだったから途中で転がり落ちてんじゃないかと心配しちゃったよ」
「……」

 笑えない。今まさに油断したら転げ落ちそうになっているのも事実なわけで。
 さっきここを通ったときは下りだったからか、上がるときの疲労感は半端ない。
 それでも登るしかないのだ。……というか本当にどうなってんだこの学園は、どうせなら非常階段までエスカレーター式にしてくれたらいいのに。なんて現実逃避しながらひたすら前を行く志摩の背中を追いかける。

「……あのさ、聞きたいことあるんだけど」

 静まり返った空間に、不意に志摩の声が響いた。
 なんとなく改まったような志摩の態度が気になったが、背中を向けて歩き進む志摩は前を向いたままで、視線を外した俺は「うん」と頷き返す。

「また俺に騙されるとか思わないの?簡単にノコノコついてきてさ」

 いきなり何を言い出すかと思えば。
 取り繕う余裕すらないこのタイミングでそんなことを聞いてくる志摩に狡いな、と思ったが余裕があったところで俺は上手いことを言えないだろう。
 それなら、本心を口にするだけだ。
 ……恐らく志摩もそれを望んでいるはずだから。少なくとも、俺は。

「……思ってるよ。もしかしたらまた嘘つかれてるんじゃないかって」
「なら」
「でも、それでも心配してくれてるっていうのがわかったから……いいよ、別に、嘘でも」

 自分でも相当なことを言っているのはわかった。
 それでも、そうとしか言い用がないのだ。
 志摩が嘘をついてきたように、俺も誤魔化して目を背けてきたのは事実だ。
 その結果、簡単に解けるはずだったものは余計に絡まって、一度切る羽目になったのだ。
 それなら、次は同じようなことはしたくなかった。
 無謀無策の考えなしと言われようが、自分の直感を信じるまでだ。
 俺は、志摩を信じたい。少なくとも、そう直感が訴えてくるのだ。

「……本当、齋藤ってさ」
「馬鹿みたいっだって、わかってるよ。……自分でも思う」
「自覚あるんならいいよ」

 それは諦めたような、どこか安堵した口振りだった。

「そんな性格だから、俺と一緒にいてくれるんだろうからね。……感謝しないと」

 そう言う割にはどこか皮肉めいたものを感じ、つい俺は苦笑する。
 すると、ふと顔を上げた志摩は呟いた。

「そろそろつくよ」

 独り言めいたその言葉に「うん」と頷き返し、俺は段差を踏み込む足に力を込めた。

 校舎、特別棟通路。

「最後にもう一度だけ確認しておくよ。方人さんたちを部屋から連れ出すから、俺が良いって言うまで部屋に近寄らないこと。何が遭っても動かないこと。合図するから、そしたら部屋に入りな。栫井を見付けた時も見つけきれなかったときも5分経ったらすぐに部屋を出る。いいね?」
「うん、わかった」

 改めて志摩と作戦の確認を終えたとき、出来るだけ力強く頷き返す俺に志摩は目を顰めた。

「本当?心配だなぁ……」
「わ、わかったってば。……志摩も、気を付けて」
「悪いけど、齋藤に心配されるようなヘマはしないよ」

 どうしてこうも志摩はああ言えばこう言うのだろうか。
 元々こういう性格なのか、前はもっと優しかった気もするがそんな砕けた態度も壁が薄らいだお陰かと思うとなんとなく、悪い気はしない。
 思いながら志摩を見詰めたとき、ふと目があって、志摩の手が伸びてきた。
 何事かと後ずされば、前髪を掻き分けられる。

「え?ちょ……」

 驚いて、目を瞑ったとき額に柔らかいものが触れた。
 ちゅっと小さな音を立てて離れる志摩に、俺は目を見開いた。

「じゃあね、また後で」

 いつもと変わらない軽薄な笑みを浮かべた志摩は、そう言って軽く手を振った。
 こんなときまで誂われるなんて。
 少しだけ悔しかったけど、お陰で全身の緊張が解れたのは確かで。
 小さく手を振り返し、俺は志摩を見送った。

 志摩曰く、縁たちが入っていったあの部屋は元々倉庫として使われていたらしく比較的窓や扉が少ないため、出入口となる扉は一つしかない。
 つまり、その扉を見張っていたらすぐに志摩が出てきたのがわかるはずなのたけれど……。

 どういうことなのだろうか。どれだけ待っても志摩が出てこない。
 いやまだ諦めるのは早い。俺は志摩を信じると決めたんだ。
 せめて、志摩の邪魔にならないように待つしかない。
 そう、脳裏を過る嫌な予感を振り払い、根気強く物陰に身を潜める。

 五分が経ち、十分が過ぎ、志摩が倉庫へと消えてあっという間に三十分が経過する。
 ひたすら待っていた俺も、流石におかしいと思い始めた。
 防音が施されているのかわからないが、声や音すらしないのだ。寧ろ、人の気配も感じない。

 不幸か幸いか、つい先ほど俺がここへ来た時にいた部屋の見張りはいなくなっていて。
 迷った末、俺は志摩が消えていった扉へと歩み寄る。
 どうか、ただの悪い思い込みだと言ってくれ。そう強く思いながら、俺は音を立てないように扉を開いた。
 まず、視界に入ったのは照明すら付いていない薄暗い室内だった。
 そして、次に薬品のような匂いが鼻腔を擽った。
 人の気配は、ない。
 どういうことだろうか。有り得ない。間違いない無く志摩はここに入ってきたはずだ。
 口を塞ぎ、息を潜めながらゆっくりと扉の奥へと足を踏み入れる。
 心臓が、張り裂けそうだった。
 滲む汗を拭い、俺は、一歩、また一歩と倉庫内へと足を踏み入れる。
 乱雑に詰まれた段ボールの山の陰、ふいになにかが爪先にぶつかった。
 飛び退いた俺は、咄嗟に足元に目を向けた。そして、目を見開く。

「……志摩……?」

 足元の物陰、そこには何かが転がっていて。
 それが、つい先ほどまで一緒にいたクラスメートだと気付いた瞬間、全身から血の気が引いていく。
 考えるよりも先に体が動いていた。

「志摩っ!」

 慌てて駆け寄り、膝をつく。志摩を抱き起こそうと手を伸ばしたときだった。
 カツリ、と背後で足音がして、反射的に振り返る。
 そこにいた人物の姿に、今度こそ俺は言葉を無くした。

「安心しろ。少し薬で眠らせただけだ」

「放っといてもその内目を覚ます」そう、なんでもないように続けるその人に、心臓が、止まりそうになって。

「か、いちょ……ッ」

 薄暗い倉庫内。音もなく現れた芳川会長に背筋が凍り付いた。
 どうして、会長がここに。確かここには縁たちがいて、いるはずなのに。いないといけないのに。
 不自然なくらい静まり返った中、無人のそこに嫌な予感が過った。
 脳裏に浮かぶのは、赤い血と散乱するガラス片で荒れた仮眠室。いや、まさか、そんなことは。

「どうした、そんな驚いた顔をして。……驚いたのはこちらの方だというのに」

 不意に、目の前に芳川会長の手が伸びてくる。
 体に触れそうになって、つい、俺は後ずさった。

「……ぁ……ッ」

 やってしまった。
 避けた俺に目を丸くした芳川会長は自分の掌を見詰め、そして、小さく笑った。

「…………なにを怯えている。君が自分で選んだのだろう。それなら、なにも怯える必要はない。胸を張れ」

 それは、自嘲するような笑みで。
 笑っていない会長の目に、俺は、全身の体温が急激に冷え込んで行くのを感じた。
 止まらない、寒気。それは先程の無理な運動のせいではないはずだ。
 震える腕を掴み、必死に抑えながら俺はゆっくりと会長を見上げた。

「どうして、会長が……ここに……」
「それを俺に聞くのか?」

 呆れたような、それでいていつもと変わりのない口調だった。

「正直、十勝から君がいなくなったと聞いて心臓が停まりそうになったよ。しかも、ここの辺りで君の姿を見掛けたと連絡があったときは冷や汗を掻いた」

「この辺りの空き教室は阿賀松たちがよく入り浸っていたからな。もしかしたら君があいつらのところに行ったんじゃないのかと思ったら生きた心地がしなかった」そう続ける会長は本当に心配していたような口振りで続ける。
 いつもならすぐに謝っているのだろうが、自ら会長から逃げ出した今、下手な事は言えなかった。
 俯き、押し黙る俺に、レンズ下の会長の目は細められる。

「でも、安心したぞ」
「……え?」

 どこになにをどう安心する要素があったのか、驚いて顔を上げたときだ。
 倒れていた志摩へ歩み寄った会長は、なんも躊躇いもなく、床の上に放り出されていた手の甲を踏み付けた。

「君は、彼に無理矢理連れてこられたのだろう。腕を掴まれ、言うことも聞かない彼に無理矢理引き摺られて」

 硬質な革靴の底は、みちみちみちと嫌な音を立て志摩の手の甲を押し潰していって。
 青ざめた俺は、慌てて会長の腕にしがみついた。

「っ、やめて下さい!会長!」

 靴の裏で露出した部分を踏まれることがどれくらいの痛みを伴うか知っていた、それが神経が集中した手の甲ならば尚更。
 いくら気を失っているからとは言って、痛みは変わらない。下手したら、骨だって。

「会長……ッ!!」

 こういうとき、自分に力があればといつも思う。
 しがみつくことで精一杯で、それでも必死に志摩から離れさせようと全体重掛けて会長を止めようとしたとき、
 手首を掴み上げられる。いきなり引き離され、びくりと会長を見上げれば、徐ろに視線がぶつかった。

「……君は些か気が弱い。優しいとも言うのだろうが、それでは駄目だ。その内悪い者に浸け入れられて、その身を滅ぼすことになるぞ」
「……っ!」
「戻るぞ、他のやつらが戻る前にここから離れよう」

 志摩の手を、なにかそこら辺に落ちているゴミを蹴るように避けた芳川会長はそれだけを言い、倉庫の出入口へと向かって歩き出した。
 強い力で引っ張られる。また、あそこでじっと時間が過ぎるのを待てというのか。せっかく五味に出して貰ったのに、安久と約束したのに、栫井だって助けることができていないのに……また。
 そう考えたとき、体が勝手に動いていた。

「ッ」

 なけなしの力を振り絞り、俺は、芳川会長を突き放した。
 今更、自分の行動に後悔しない。俺は、これ以上芳川会長に頼ることは出来ない。それが、芳川会長の善意を裏切ることになってもだ。

「齋藤君……何故だ」

 信じられないとでも言うかのように目を見開き、呻く芳川会長に心が痛まないといえば嘘になる。
 それでも、俺は、今更後に引くわけにはいけなかった。
 目を逸らし、会長から距離を取ろうとしたとき。

「まさか、こいつになにか余計なことでも吹き込まれたのか?」

 会長の目が、志摩に向けられた。
 感情を感じさせないその冷たい目にゾッと背筋が震える。

「っ、違います!違います!志摩はなにも関係ないんですっ!」

 咄嗟に、志摩と会長の間に入る。
 必死になって志摩に近付けないよう、会長の体にしがみつけば益々会長の表情は険しくなるばかりで。
 それでも、会長はしがみつく俺を振り払うことはなかった。
 だけど、

「なんでだ?なんでこいつを庇う?君は知らないのか、こいつがどんな人間なのか。平気で嘘を口にしては何人もの生徒を騙して問題を……」
「知ってます!」

「知ってます……っそんなこと……っ!それでも、俺の友達なんです……っ!」これ以上、会長が手を出さないように引き留めることで夢中になっていた。
 自分の口からそんな言葉が出ることにも驚いたけど、それでも、俺の口は止まらなくて。

「数少ない、友達なんです……っ、お願いだから、そいつにだけは手を出さないで下さい……っ」

 自分が痛い思いをするよりも、目の前で誰かが傷付くほうがずっと辛い。辛いし、痛い。
 言葉にすればするほど胸が張り裂けそうになって、それでも、会長を離さないように俺は腕にぎゅっと力を込めた。怖いし、殴られるかもしれないと思ったら震えが止まらない。
 だけど、芳川会長は。

「……なんで、君が泣くんだ。……意味がわからない」
「うぅ……っ」

 その言葉に、自分の頬が濡れていることに気が付いた。
 それでも、頬を拭うくらいなら一分一秒でも会長を止めていたくて。
 やがて、会長は観念したように息を吐く。

「……悪かった、俺が悪かったから泣かないでくれ……」

 優しい声。背中に回された会長の手に、宥めるように背筋を軽く擦られる。
 以前と変わらないその優しい手つきに、落ち着いてくれたのだろうか。と恐る恐る顔を上げたときだった。

「っ!」

 ハンカチで、口を抑えられる。
 しまった、と息を止め、咄嗟に会長の顔を押し退けようとしたときには既に遅くて。
 どろどろと微睡んでいく意識の中。冷え切った目でこちらを見下ろす会長を最後に、俺は意識を手放した。

「本当に、君には手こずらされるよ」

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