03
別に、携帯がなければ死んでしまうとかそういうわけではない。
寧ろ常時連絡する人間なんていないし、使ってもアラーム機能くらいの役割しか果たしていない携帯電話だ。
だけど、唯一遠く離れた親と連絡することができる手段でもあり、俺にとってはお守りのようなものだった。
「え……あの……」
これを会長に渡してしまえば、本当に周りから切り離されてしまうような気がして。
別に会長が意地悪で携帯を取り上げようとしているわけではないとわかっている。
わかっているけど……。
「齋藤君、二日間だけだ。全てが済んだ暁にはちゃんと元の状態で返す」
「……」
会長を頼っている分際で自分勝手な真似をするのは許されない。
わかっていたけど、本当にここで手放していいのか、俺はわからなかった。
携帯があれば、志摩や阿佐美とも連絡が取れる。阿賀松からまた電話が掛かってくる可能性だってある。
でも、携帯電話がなくなれば俺の行動範囲は会長によって限定されることになる。
そこまで考えて、俺は、自分が会長を信じきっていないことに気付いた。
芳川会長以外の抜け道を作ろうとしている。もしなにかがあったときのためを考えて。会長の行動で、なにか逃げなければならないハメになったときのこと考えて。
そんな自分にゾッとして、俺は、息を飲んだ。
「……まあ、そうだな。いきなり俺に携帯を渡せと言われて素直に出せるわけがないか」
なにも言わないまま俯く俺に、そう、会長が寂しそうに笑う。
……ああ、俺は、また自分勝手な行動で他人を傷付けようとしている。
頭の中で、二つの声が拮抗した。
もう一人の自分が「そのまま携帯を確保しておけ」と囁く傍らで、もう片方の自分は「会長の好意を無駄にしてはいけない」と声を上げた。
酷いジレンマに苛まれながら、ぐっと唇を噛み締めた俺は頭の中の二つの声を振り払い、そして、制服のポケットに手を突っ込んだ。
「…………これ、お願いします」
そして、俺は自分に残された選択肢を全て振り切り、端末機器を会長に手渡した。
芳川会長がいなくなった仮眠室。
ベッドの縁に腰を掛け、息を吐いた俺は改めて自分の選択肢が間違っていないのかを考える。
これでいいんだ、これで。俺は、会長を信じると決めたのだ。
自分に言い聞かせるように繰り返し、呟く。それでもまだどこか会長のことを疑っている自分がいて、性格なのだろうが、そんな自分に嫌悪を抱いて仕方ない。
「…………」
どうしよう、これから。ずっと、ほとぼりが冷めるまでここにいる他ないのだが、それでも問わずにはいられなくて。
どこか靄が掛かったような気持ちのままぼんやりと宙を眺めているときだった。
数回のノック音が部屋に響く。
誰か来ているようだ。とはいっても、生徒会役員しかいないだろうが。
『佑樹、いるー?』
十勝だ。
出入り口はそこの扉しかないわけだからいるに決まっているのだが、わざわざ確認してくる辺りが十勝らしい。
「いるよ」とだけノックを返せば、暫くもしない内に扉の鍵が外された。開かれる扉。その向こうにはペットボトルを抱えた十勝がいた。
「喉乾いただろ、ほら、差し入れ!」
「ブドウとリンゴ、どっちがいい?」と笑い掛けてくる十勝ないつもと変わらない。
迷った末、「じゃあ、リンゴで」と答えておく。
「残念、ミカンしかねえわ」
じゃあなんでわざわざ存在しない選択肢を突きつけてきたのかわからなかったが、後味爽やかなミカンジュースも嫌いではないからよしとしておく。
仮眠室の中へとずかずかと踏み入れてくる十勝に戸惑いつつ、俺は再度扉を閉めた。
「うーわー、本当なんもねえな。つまんねえだろ、こんなところにいんの」
「……まあ、でも、仕方ないから」
「佑樹って本当に、なんかこう、真面目っつーかあれだよなぁ、従順?っつーの?俺ならぜってー無理、退屈すぎて死ぬ」
そんな大袈裟な、と思ったが、普通は十勝みたいな人が多いのかもしれない。
そうだよな、普通、誰でも自由を取り上げられるのは嫌だ。そう思うと、やっぱり自分の行動に自信がなくなってくるわけで。
小棚をテーブル代わりに、二人分のグラスの中にオレンジジュースを注いだ十勝は「どーぞ」と俺に差し出してくる。
「ありがとう」と受け取った俺は、そのままそのグラスに口をつけた。甘ったるくとろみがかった液体が喉を通り体の奥へと流れ込む。……濃い。
「うん、やっぱ偉いよ。お前」
「どうしたの、急に……」
「いや、なんかさ、少し嬉しくてさ」
嬉しい?
どこかそわそわと落ち着かない様子の十勝は、「あーっ」と髪を掻き毟る。そして、ようやく落ち着いたのかゆっくりとベッドに腰を下ろしてきた。
「ほら、会長ってさ、厳しいし、小姑みたいにうるせーし……たまにこえーじゃん?」
「……う、うん」
「だよな。……だけど、まじで佑樹のこと心配してるみたいってか、ほら、一生懸命になってるからさぁ、あの会長が。俺としてはやっぱ、頑張れーって感じになるわけでさ」
しどろもどろと、どこか手で探るような拙い言葉だったが言いたいことはなんとなく伝わってきた。
気を紛らすように小さく咳払いをした十勝は、少しだけ照れ臭そうに笑う。
「だから、佑樹が会長を頼ってくれて嬉しいよ」
「……でも、俺、迷惑しか……」
「いいんだって、迷惑とかそーいうのは。会長、頼られるとすげー燃えるタイプだから」
「だから、わざわざ生徒会長なんて面倒くさそうな役職を継いだんだから」そう決め付けるようにはっきりとした口調で言い切る十勝の目は輝いていた。
なにかを思い出しているようだった。
自分の選んだ道が正しいかどうか迷っていたところに掛けられた十勝の言葉に、酷く励まされる。
俺は、間違っていないのか。未だその選択肢が正しいかどうかなんてわからないけれど、十勝の笑顔を見てるとこれでよかったのかもしれない、と思わずにはいられなくて。僅かに肩の重荷が外れたような気がした。
「あーあ、でもホントやることねえよなー。……こっそりどっか遊びに行くか?」
声を潜め、そんな提案を持ちかけて来る十勝に「えっ?」と驚く。そして、そんな俺に十勝も驚いたような顔をした。
「それってどういう……」
「……はは、やっぱり佑樹でも遊びに行きたいのな。いや、まー無理もないな」
「ごめん、言ってみただけ」そう、申し訳なさそうに十勝は笑う。
まあ、こうも簡単にこの状況を抜け出せるわけがないと思っていたので然程騙された!とかそういうのはないけれど、やはり落胆しないといえば嘘になるわけで。
そんな俺に気付いているのだろう。益々十勝は項垂れる。
「ごめんな、俺、佑樹の見張り頼まれててさ。そーじゃなかったらちょこっとくらい散歩させようと思ったんだけど、無理かも」
「こっちこそ、その、ごめん。……そんなに俺に気は使わなくて良いから」
そう思ってくれているだけで、嬉しい。
そう、素直に感謝の気持ちを口に出してみるがなかなか照れ臭くて。
引かれやしないだろうか、他人行儀すぎるだろうか、なんてどきどきしながらちらりと十勝を伺えば、泣きそうになってる十勝と目があった。
「えっ、ちょ、なんで泣……」
「お、お前優しいな……!」
感極まった十勝にぎゅーっと手を掴まれた俺は戸惑いのあまり動けなくなる。
あまりのこう、感情の起伏が激しいというかオーバーリアクションな十勝に一瞬酔ってるのかとも思ったが、どう見てもその目は据わっていて。
もともと、十勝はこういう性格なのだろう。あまりにも感受性豊かな十勝に戸惑ったが、褒められているとわかると、少しだけ恥ずかしくなった。
「大袈裟だよ」そう苦笑する俺に、十勝はぶんぶんと首を横に振る。
「でも、なんだかんだ言ってもやっぱりお前も退屈だよな……。女の子呼ぶ?」
「へっ?!や、いや……」
「カレシ欲しいっつってたフリーの子いるんだけど」
なんでそうなる?!とつい突っ込みそうになったが、即答出来ない自分が悲しい。
迷った末、「また今度にしよう」と言葉を濁すことしか出来ない自分が尚更悲しい。
だけど、十勝の迷案のお陰でいくらか気が紛れたのも事実なわけで。
「あーあ、ホント佑樹を栫井に足して割ったらまじ丁度よさそうなんだけどなぁ」
ベッドの上。伸び混じりに愚痴る十勝はそのままばふんとベッドの上に寝転ぶ。
唐突に出てきた栫井の名前に内心ぎくりとしながら俺は十勝を見た。
「そんなこと……」
「あいつの場合、俺が誘わなくてもふらふら遊びに行くからな、無断で。ホント佑樹を煎じて飲ませてやりてー」
それを言うなら爪の垢ではないだろうか、という突っ込みはさておき、俺は十勝の言葉が引っかかる。
「無断で?」
「そうそう、大切な会議んときも普通にいなくなるもんなー。ま、五味さんがいるからなぁ、あいつの場合。なんもしなくても全部もう一人のやつがしてくれるんだし羨ましいよなー」
「書記ももう一人増やしてくんねえかな」と呟く十勝。
落ち着きを取り戻しかけていた胸の奥が、再びざわつき始める。いや、忘れようとしていただけかもしれない。言われたように。
「……もしかして、栫井、いないの?」
「そーなんだよ!ったく、サボるんならせめて一言くらい言ってくれりゃあいいのに。三日だっけ?結構神出鬼没だけど、食堂にも顔出さねーから文句もいえねーし」
拗ねているのか、唇を尖らせる十勝は本気で怒っているようには見えない。
それどころか寧ろ同じ生徒会の仲間を気にかけている気もある。
三日……怪我を負った日から、ということだろうか。そう考えると、ずきりと胸の奥が痛んだ。
十勝は、なにも知らないのだろう。栫井の怪我も、会長の暴力も。
「……もしかしたら、出て行きたくても出ていけないのかもしれないよ」
栫井は今、阿賀松たちと一緒に居る。灘は気にしなくてもいいといった。自分に任せろ、とも。だけど、本当にそれでいいのだろうか。
流れに全てを任せ、行く末を眺めるだけでいいのだろうか。
十勝と話したお陰で、自分の中のもやもやが次第に形として浮かび上がってくる。
会長は信じたい。傷付きたくない。痛い思いもしなたくない。面白おかしくなくてもいい、ただ平凡な毎日を過ごしたい。
しかし、それ以上に誰にも傷付いて欲しくはなかった。
自分のせいで、自分の選んだ選択のせいで誰かが痛め付けられるのは、嫌だった。
見過ごしたくない。このままじっと物事が終わるのを待つなんて、俺には出来ない。
「佑樹?」
不思議そうな顔をした十勝がこちらを覗き込んでくる。よほど切羽詰まった顔をしていたのかもしれない。
どこか心配そうな色を浮かべた十勝に、俺は小さく笑った。
「ごめん。……なんでもないよ」
自分のやりたいことが明白になると、不思議と薄暗く靄がかっていた思考は鮮明になり、頭が冴え渡るようだった。
痛い思いをせず、尚且つ誰も揉めないように全てを穏便に収束させる方法は無いだろうか。
少し考えてみるが、退学沙汰にまで追い込まれている時点で阿賀松は許してくれないだろう。
俺自身、物事を悪化させた引き金であることも確かだ。
だったら、阿賀松の退学を取り消すか?
いや、無理だ。そんなことしたところで前よりも悪化するばかりだし、それどころか会長が躍起にでもなってみろ。
考えてみただけで、頭が痛くなる。なら、どうすればいい。
俺が謝って謝って謝って謝って謝って、それで済むのならそれでいい。だけど……。
「んん……布団布団……」
隣。疲れていたのか、すっかり睡魔に負けてしまった十勝はベッドの上で手探りで布団を探す。
俺を見張ってるんじゃなかったのだろうか。
苦笑し、俺は手繰り寄せた布団を十勝に掛けようとして、ふと、動きを止める。制服のポケットから覗く、大量のキーホルダー。
携帯電話。
ふと、そんな単語が過った。
芳川会長に渡した最後の連絡手段が、今目の前にある。
「……」
もしかしたら、十勝の携帯なら知っている連絡先があるかもしれない。そう思い、つい手を伸ばしかけたが、寸でのところで俺は理性を働かせた。
今、ここで窃盗のような真似をする必要はない。連絡手段なら、ここを出ればすぐ見つかるはずだ。
十勝の上から布団を掛けた俺はなるべく起こさないよう、静かに立ち上がった。
栫井のことも気になるが、今はここから出ることが先だ。
十勝や会長には申し訳ないが、やはり、このままじっと大人しくすることは出来ない。
意を決した俺は、開いたままになっている扉から仮眠室を後にした。
生徒会室内。
先ほど固めたばかりの覚悟はあっさりと砕かれることになる。
「あれ、お前……」
静まり返ったそこには、人の影がひとつ。
現れた俺に驚いたように目を丸くした五味同様、生徒会室は無人とばかり思っていた俺は度肝抜かれる。
「五味先輩……っ」
「おいおい、そこから出しちゃいけねえって言ったばかりだってのに……十勝のやつはなにしてんだよ」
溜息混じり、面倒臭そうに呟く五味に、俺は酷く動揺した。
どうしよう、怒られる。そう早速怯む俺だったが、ある程度最悪の事態は想定していた。これくらいで怖気付いてはいけない。
弱気になる自分に喝を入れ、俺は後ろ手にゆっくりと仮眠室の扉を閉める。
「……すみません、俺やっぱり……」
全てを会長に任せっ放しにすることは出来ません。
そう、五味を見上げた。目があって、僅かに五味の表情が強張った。
「……」
なにか言いたそうに口を動かした五味だったが、やがて諦めたように俺から視線を外した。
そして、深い溜息。
「……お前も結構大胆な真似、するんだな」
「すみません」
「いいよ、謝らなくても。……そうだよな、それが普通の反応だ」
「あいつはやり過ぎなんだよ」と、誰に言うわけでもなく呟く五味。
その言葉が誰のことを指しているのかは、わかった。
力が抜けたようにソファーに腰を下ろす五味にどう声を掛けたらいいのかわからず、俺はただその場から動けなくて。
「でも、今この状況で下手に出歩かない方がいいというのには俺も同意だ。阿賀松の退学の件で取り巻き連中が殺気立ってる」
「それは……わかってます」
縁との一件といい、今朝の阿賀松からの電話といい、物事が良からぬ方へと転んでいるということは身を持って理解していた。
それに、阿佐美。阿佐美のことが気になる。
なにを言われても意見を変えようとしない俺に、浅く息を吐いた五味は眉間に寄った皺に指を押し当てた。
「もし、もしだぞ?もしここから出られるとしてもとっくにお前がここにいることもバレてるだろうし、出た瞬間阿賀松たちに捕まる可能性だってある。あいつのことだ、退学免除するためにお前をダシに使うかもしれない」
「……そうかもしれません」
「なら、悪いことは言わない。ここにいろ」
「それが一番安全だ」顔を上げた五味と視線がぶつかった。
五味が純粋に心配してくれているというのがわかった。
わかっているけど、既に俺の中に大人しくしておくという選択肢はなかった。
「元はといえば、全部俺のせいなんです。……俺が、会長に無理させたのも、阿賀松を退学させようとしたのも」
そうだ。全部、俺が悪化させた。
この学校に来て、会長に話し掛けられて、優しくしてもらって、憧れて、そのせいで阿賀松に目を付けられて。
「俺が、悪いんです」
「それは違う!」
覆い被さるような大きな声に、俺はびくりと飛び跳ねる。
苦虫を噛み締めるように顔を歪めた五味はソファーから立ち上がった。
まさかそんなに強く否定されるとは思わなくて、足が竦んで動けなくなって、目の前に立った五味に両肩を掴まれる。
「五味、せんぱ……」
「お前は悪くないんだよ。……いや、悪い奴なんて一人も……っ」
五味は、なにか知っているのだろうか。
辛そうな五味に、俺は思案する。
「……先輩……」
そう、おずおずと五味を見上げようとした瞬間だった。
仮眠室の扉が勢い良く開いた。
「五味さん、佑樹がっ!……って、ありゃ……?佑樹?」
十勝だ。
青褪めていた十勝は、向かい合うように立つ俺と五味の姿を見るなりきょとんと目を丸くした。
たった今起きたばかりなのだろう、寝癖のついた頭のままのまだどこか寝ぼけた様子の十勝に、小さく舌打ちをした五味は俺から手を離す。
「五味さん、佑樹になにを……っ!いくら彼女にフラれたからって……っ!」
「あーもううるせえ!なにもしてねーしフラれてねーし第一彼女って誰だよ!」
「五味さんのケダモノっ」
「この野郎……」
すっかりなにやら誤解しているらしい十勝に握り拳を作り、必死に堪える五味。
騒々しさの戻る生徒会室内。
苦笑を浮かべた俺は先程の五味の言葉を思い出していた。
誰一人、悪い奴なんていない。
お互い啀み合っている阿賀松と芳川会長、二人と過ごしてきてずっと胸の奥に突っかかるものがあった。
阿賀松のことは未だ苦手だけど、なんだかんだ、たまに、ちょこっとだけ、優しくしてもらったこともあった。
会長だって俺には優しいけど、他の人たちには厳しいし、暴力だって振るう。
好きとか嫌いとかいい人とか悪い人とか、この際関係ない。
仲良くしろと無茶ぶりをするつもりはない。
けれどせめて、誰も傷付いて欲しくない。
こうなった今でもそう願ってしまうのは、きっと既に関わってしまったからだろう。
俺に。
俺の世界に。
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