約束の日・02


 立入禁止と書かれた黄色いテープをくぐり抜け、しばらく行くとふかふかした腐葉土の道から開けたところに出た。奥に、古臭く、ひっそりと、○○ホテルが存在していた。○○ホテルの駐車場らしいそのアスファルトの亀裂からは非常に背の高い雑草が生えている。
 園田は、以前にここへ来たことがあった。○○ホテルの壁面に描かれた肝試し目当ての集団のスプレーアートは、以前に来たときからひとつも増えていない。それで、少なくとも、ここを荒らすような人物たちは来ていないとわかったのだ。彼が以前ここへ来た目的は、そういった肝試しのようなことではなく、写真を撮りに来たのだ。その頃は、○○ホテルに幽霊が出るというのはただの肝試し用の設定だったのだが……
「おれ知ってるからこの先には進めない。ホテルには入れない」
 震え始めた掛井を振り返り、しかし何も言わずに園田はホテルの入り口へ向かっていく。掛井の呼び止める声を、園田は無視していたのか、聞こえなかったのか、それは定かではなかったが、突然パキッと音をたてて崩れたホテルの入り口のガラスに、彼は足を止めた。掛井は彼に駆け寄り、その左腕にしがみついた。
「なあ、おまえ、どうかしてんじゃないのか?」
「してないよ、掛井。おれはおれだよ」
「……ほら、入り口のガラスが壊れたのも、入るなってことだろ。霊が、な?」
「掛井はさ、その霊のこと、知ってるの?」
 園田は腕にしがみついている掛井を見て、そう言った。彼自身が言ったとおり、彼は彼のままであるのだが、いつもよりもほんの少し冷たい目をしていて、それに怯んだように掛井は肩をすくめる。
「……知ってる。不良集団に殺された、……」
 掛井が言い終わらないうちに、園田は口を開いた。
「掛井よりもおれのほうが知ってるよ」
 リュックからマスクや手袋を取り出して、彼はそれを身に付けていく。廃ホテルの中へ入る準備である。未だ腕を離さない掛井にマスクをつけてやり、手袋はこの状態でははめられないので無理に手の隙間へねじ込ませる。
 園田はホテルの入り口の扉を開けた。一歩踏み出すと、先程崩れ落ちたガラスがパキパキと音をたてた。
 ホテルへ入ってすぐ脇にあるフロントをチェックインなしのまま通りすぎ、長い廊下をすこし進んだところにある一番手前の部屋に、園田と、その後ろを着いてくる掛井は入った。
「ひどいところ」
 掛井が、眉をしかめる。掛井はよく園田が写真を撮るために色々なところへ行くのに着いて行っていたが、それは園田が“美しいもの ”を撮ることにしており、そして彼の行く先が紛れもなく、掛井にとっても美しいところだったからであった。
 しかしここはどうだろうか。部屋の中を見渡してみると足の折れた木の椅子が乱雑に絡み合って埃を被っている。ベッドのシーツは乱れて汚れて、所々破れている。壁紙も染みが目立つ。
「ひどいところか」
 園田は呟きながら、掛井を部屋の入り口と廊下の境に残し、部屋の中央まで歩いていく。赤い絨毯の床が 歩くたびにミシミシと軋む。
「美しいところだと思ってた」
 園田は部屋の大きな窓の外を見る。しかし大きな窓の外には景色など見えない。青々と背の高い雑草が多い尽くしているのである。その葉は太陽光を透かして、部屋の中に緑色の光を入れていた。園田は首に下がっていたカメラを構えた。
「でも、今はおれもそう思う。ひどいところだ」
 シャッターをきる瞬間だった。部屋の入り口の方から聞こえた悲鳴に、彼は振り返った。掛井が、尻餅をついて廊下の奥の方を見て固まっている。園田は部屋の中央からそちらへ戻り、彼に声をかける。
「奥のほう!」
 掛井はそれだけ言って園田の脚へしがみついた。掛井が見ていた先を追うように、廊下の奥の方へ目を凝らすが、明るい緑を見ていたせいで、暗闇になかなか目が慣れない。
 だんだん視界の闇の黒の判別がつき始めたとき、彼ははっとして息を飲んだ。廊下の奥の、○○ホテルの最奥・大浴場へ繋がる辺りに、人の影が見えたのである。それもまわりに溶け込むような黒い学生服を着ているのだ。その学生の首には、今園田が首から下げているのと同じカメラがぶら下がっている。
「岬!」
 園田はその学生にそう呼びかけ、掛井を突き飛ばすように脚から引き剥がして走り出した。廊下が激しく軋み、今にも床板が落ちそうであった。突き飛ばした掛井が自分を呼んでいるのがわかったが、彼は止まらなかった。
 “岬”の姿は大浴場のほうへ消えていく。
「岬! 待って!」
 息を切らすことも忘れるほどの勢いで脱衣所に走り込んだ彼を、“岬”は椅子に座って待ち構えていた。おそらく誰かがどこかの部屋から移動させてここへ持ってきたらしいその椅子はやはり古くさかった。園田は再び彼に「岬」と呼び掛ける。すると、彼はわずかに微笑んだ。
「嬉しいな」
 岬のその言葉を聞いて、それでやっと園田は頬と肩の力をふっと抜いた。かがんで膝に手をついて、また岬の名前を呼ぶ。それに、岬は彼の名前を呼んで答えた。
 大浴場のタイルは薄い水色をしていたのが、乾燥や長年の埃で白くなっていた。曇りガラスの窓から差し込む光がそれに反射して、脱衣所のほうまで入り込んでくる。それが岬の白い頬をさらに白くした。彼は美しい。滑らかな、陶器のようなその肌に、園田は触れたくなる。そんな気持ちを抑え込んで、カメラを構えて彼を撮った。
「相変わらず」
 岬は言った。苦笑ともとれる微笑みをして、椅子から立ち、大浴場の中へ入っていく。園田もそれに続いた。
「さっきいた彼は誰?」
「友達……」
「そう……君と同じくらい、彼もかっこいい」
 短く笑った岬の声は、ひからびた大浴場によく響いた。
「……忘れないでいてくれたんだね」
「忘れるなんてできない。このカメラも、おれも、あのときからずっとそのままなんだ、岬」
 もう堪えきれず、一歩踏み出して岬に触れようとしたそのときだった。背後から、声をかけられて園田は振り返った。
「なにをしてるんだ、お前たちはこんなところに来て」
 警察官が二人、脱衣所に立っていた。その間に、青ざめた顔の掛井が挟まれるようにして立っている。おそらく巡回の警察官か、誰か通報した人がいたのか、というところだろう。園田は首から下げたカメラを二人の警察官に見せ「あ、ええと、廃墟に興味があったので、つい」と頭を下げた。
「……とにかく、ここは立入禁止だから」
 警察官はホテルから出るようにと言う。一人が大浴場の中へ入り、園田の腕を掴んだ。そのまま大浴場を出、脱衣所を出、廊下へ出る。園田は大浴場のほうを盗み見た。岬はいなかった。


 






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