以前いただいた、何丁目何番地、芦田川家の次男坊の血がなかなか旨かった。殺してしまうまですべて飲み干したいのを我慢して、トマスに教えてやったというのに、彼は「おとこの血なんて飲んで、ステファン、てめえ」とわたしを手で打ったのだ。
 一般におんなの血を飲むのが吸血鬼という認識があるようだが(人間の間だけではなく吸血鬼の間でもそういう認識が広まっている)おとこの血を飲むことは別にタブーではない。わたしは旨い血を飲むことをまず第一に考えているから、血を飲む対象をわざわざおんなのみに絞ってみる必要もないのだ。
「飲みに行って御覧よ、舌がとろけてしまうようだよ」
 口の中でわたしの血の味がする。唾液と混ざって口の端から垂れたそれをそのままにして、トマスの足下へ跪いて、ほほえむ。この格好を取ると大体のおんながおちて(稀におとこも)、なんなくわたしに首筋を許す。トマスの血を飲むわけではないが、こうすればきっと、機嫌の悪いトマスも機嫌が良くなると思った。
 が、今度は手ではなく、彼の足が頬に飛んできた。踏みつけられるように靴底で蹴飛ばされ、みし、と頬骨が軋んで、わたしは床をごろごろ転がった。そのまま窓際に置いてあるミニテーブルにぶつかって、その上の硝子の花瓶を落としてしまった。そうして割れた硝子の破片がわたしの目の下を切り、たらりと流れた血は、やっぱりわたしのものだった。
 トマスは最近酷く疲れているようだ。急激に痩せ、そうして精神も安定しない。というのも、彼はしばらく人間の血を飲んでいない。前まで、夜の食事の時間には一緒にこの住みかを飛び立って、途中でそれぞれの人間の元へ分かれるというのが普通だった。でも今はわたしが飛び立つのを、彼は窓辺で見送るばかり。その目は、夜明けにいなくなるわたしを見送る首筋に歯形をつけた人間のようなのだ。
 まったくどうしたものかと考えながら、わたしは部屋の角のソファへ腰を下ろした。

 どれくらいそうしていたかわからないけれど、口の中のわたしの血の味はなくなり、目の下を伝っていた血も乾いていた頃合いだった。灯りを点ける習慣なんてもともとない、わたしとトマスの部屋は夜の闇に包まれる。
 ふと窓の外を見上げる。濃紺の空へシャンパンを零したようなきらきら光る星に囲まれて、丸い月がそれはそれは綺麗に、そこにあった。わたしは手招いてトマスを呼ぶ。
「トマス、すごく綺麗な月だよ、こっちへ来て見て御覧」
「……芦田川のところへでも行っちまえ、夜だぞ」
「今夜はトマスと月を見よう。そういえば今夜は中秋の名月らしいね」
 彼の機嫌は時間の経過で幾分か直っていた。ふらふらとわたしの横へやってきて、わたしの肩へ頭を預け、月を見上げて「ああ、確かに綺麗だ」と独り言ほどの小ささでそう呟いた。トマスの腰へ手を回すとびっくりするほど腰骨が浮き出ているように感じた。服越しに感じる彼の腰はおんなのものとは全く違って、そうして芦田川の次男よりも弱々しかった。
 わたしは「どうして最近血を飲まない?」と問うた。トマスはそう素直な質ではないし、はぐらかされるか、もしくは拳が飛んでくるか、覚悟してきいたのだが、彼はわたしの予想を裏切った。月を見上げたまま、薄い唇を開いた。
「おまえの血を舐めてしまってから、人間の血がまずくてまずくてたまらなくなった」
 わたしは一度、トマスに血を舐められたことがあったのを思い出した。そういえば、トマスが血を飲みに出かけなくなったのは、あの日の少し後だった。わたしはヘマをしたのだ。路地裏にいたおんなの首筋へ噛み付いたとき、肥満で悪趣味なスーツで、それはそれはまずそうなおとこに腕を切り付けられたのだ。慌ててわたしは逃げて、トマスの元へ行った。彼はまだ人間を見定めていたようだった。わたしを見ると「どうした、その腕」と、トマスは指でわたしの血をすくい上げた。人間のものと見た目は何ら変わりないそれを、彼は低く唸りながら見つめていた。そうして舌を出してちろりと舐めた。
「ステファンの血を、舐めたが最後だったんだ。おまえは吸血鬼の血を飲んだことがないだろう。どんな人間の血より旨いんだ。きっとおまえに流れてる血は、芦田川の次男の血よりも旨いんだ」
 治りかけたわたしの目の下の切り傷を、トマスは優しく撫でる。
「……わたしの血を飲むかい、トマスが餓死してしまったら困るからね。ほら」
 トマスの顎を捕まえて、鋭く尖った彼の歯を自分の首もとへ持っていく。頭を抱えるように引き寄せれば、唸って我慢しているような風に見えたトマスもじきにちろりと赤い舌を見せてわたしの首筋を舐める。今まで彼がまずこんなふうに肌に舌を這わせてから人の血を飲んでいたのかと考えるとなんだか気恥ずかしい。
「全部飲んでくれるなよ」
「……わかってる」
「トマスは、わたしがおとこの血を飲んだことを怒ったね。タブーではないのに。でもおまえが吸血鬼のわたしの血を飲んだと他の吸血鬼が知ったら、きっとわたしがトマスに咎められたように、トマスも彼らに咎められるんだろうね。タブーではない、けれど……」
「すこし黙れよ」
 タブーではないのだ。しかしそれは月の明るさの下でまじまじ見ると、まるでいけないことのようだった。


/きらりの月の秘めごと







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