デートの帰り、家の前まで送り届けてもらったところで、古川さんに腕を引かれて唇を重ねられた。わたしは、それを押し返さなかった。でも唇が離れたあとで彼の目を見たとき、素直に微笑むことができず、短く頭を下げてすぐに、開けっぱなしになっていた家の玄関へ駆け込んだ。
 玄関を上がってすぐの壁に寄りかかって雅が立っていた。古川さんとのキスを見られた、と、とっさに唇を隠すような仕草をしてしまったわたしに、「おかえり」と、ただそれだけ言った。

 古川さんと出会ったのは、わたしが昼間通う図書館でだった。目当ての本を本棚の上段に見つけて腕を伸ばしたところ、「取りますよ」と、声をかけられた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いいえ……いつも、あなたのことが気になっていたので、良い機会でした」
 優しそうに笑う人だった。話してみると、古川さんはわたしよりもいくつも年上で、自宅に近所の子供たちを集めては簡易の学生塾を開くような人。その自宅は、わたしの住まわせてもらっている雅の家とは二駅ほど離れたところにあるらしい。
「綺麗な人じゃないですか、綺麗な人ですよ。あなたは……」
 そうして出会ってから、頻繁に、図書館で彼の姿を見るようになった。いや多分、わたしが古川さんに気づくようになった。目が合えば挨拶をするし、良い頃合いになったら、一緒に図書館を出て、一緒に駅前まで行って別れることもあった。
 今日のデートに誘われたのは、古川さんと出会って一ヶ月ほど経った頃だった。そこで初めて、わたしは雅に、古川さんについてのことを話した。彼はただ一言、「良いんじゃないか」と言った。


 風呂から上がって、庭に面した部屋まで行くと蚊帳の中には、わたしと雅の分、二つ布団が並べて敷いてあった。わたしが風呂へ入ってる間に、彼が敷いたようだった。いつもそんなことしないのに、と、思う。彼のほうがわたしより、今日――古川さんとわたしが初めてデートした日――を特別にしようとしているように思えた。
 自分の布団の上に座り込むと、ふっと下から香る、昼間の太陽の温かな匂い。それに混じって、庭のほうから風に乗って漂ってくる雅の煙草の匂いを感じた。彼は庭に出ているらしい。
 庭を眺めているうち、草履を引きづりながら煙草をくわえて姿を見せた雅は、 わたしと目が合うと煙草の火を消した。そうして残り香を連れて、蚊帳の中へ入ってくる。自分の布団の上へわたしと同じように座り込み、こちらへ顔を傾ける。
「古川のやつ、手が早いんじゃないか」
「やっぱり、見ていたのね」
「見えただけだ。邪魔する気なんてないんだぜ。で、今日は、楽しかったんだろ?」
 雅は、わたしが古川さんとのキスのあと、微笑むことができなかったのを知らずに、そう聞いてくる。なぜ、微笑むことができなかったのか? 自分自身で、その理由はよくわかっていた。
「ええ、とっても楽しかった」
 それは、本当だった。
「だから、どうして、雅は、行くなと言ってくれなかったの?」
 そしてこれも、思わず出してしまったわたしの本当。わたしが古川さんを好きになっていくことを、あなたに止めてほしかった。
「おまえ……」
 涙で視界の潤み始めたわたしにギョッとしつつも、労わるように、雅はわたしの肩を抱いた。古川さんのキスを押し返さなかったように、肩に触れる雅の手を振り払うこともできなかった。好いてくれる人と、好いている人との間で、わたしは身勝手で都合の良い、女……嫌な表現が似合ってしまっている。
「古川はおまえを幸せにしてくれる人だと思う。おれよりも」
 すこし考えた後、察したみたいに雅はそう言った。わたしの目の淵から涙が零れ落ちるより先に、わたしから手を離し、背を向けて布団に潜り込んだ。
 彼の背中をしばらくじっと眺めていたけれど、微動だにせず、彼はそこにいた。指の腹で自分の涙を拭い、その背中に「おやすみなさい」と声をかけて、わたしも布団へ潜った。静かな風が通り抜けたあと、彼の返事が聞こえた。
「ああ、おやすみ」


/恋の名残を口遊む







「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -