あいうえおっと | ナノ

「好きです……」

 酷くか細い小さな声だった。いつもの凛とした彼女のものとは思えないほど。鈴を転がしたように儚げなそれは、ともすれば聞き逃してしまいそうな告白だった。
 咄嗟にナマエのほうを振り向いていた。
 彼女も、自分自身が放った言葉に驚いていた。
 どきどきと心臓の音が聞こえた。俺の鼓動に間違いないというのに、彼女があんまりにも切なげに顔を歪めていたものだから、これは目の前の少女のものなのではと錯覚してしまった。
 彼女は自分の言葉に戸惑って、じわじわとその顔を羞恥に染めていった。はくはくと震える唇はその意味をなさない。みるみるうちに彼女の頬は真っ赤になった。
「あ、う」
 彼女は頑なに視線を放さなかった。目を逸らすことができないのだろう。そんな余裕すらない。それ以上に俺の反応が気になって気になって仕方ないのだ。
 スカートの裾を握り締める指に力がこもっていた。それは彼女の緊張を如実に表していた。
 熱っぽく俺を見つめる黒い瞳が揺れる。涙の膜はいまにも瓦解しそうだ。円らな瞳からいつそれがこぼれ落ちるのか気が気でない。林檎のように朱に熟れたその頬は食べてしまえそうだった。
「俺のこと、好きなの?」
「い、いいえ、そんなことは……」
「ほんとに?」
「……すっ」
 好きです。
 切なげに眉を落として、薄く開いた唇は震えていた。
「……ごめん」
 きっと俺もいっぱいいっぱいだった。自分がなにを口走っているのかわからないほど。彼女と同じぐらい俺も冷静ではなかったのだ。
 俺の謝罪に彼女は一瞬息をのんで、来た道を引き返して走って逃げていった。

 あのときの彼女の表情が忘れられない。あのあと部屋にこもって一人で泣いたのだろうか。去り際に一瞬だけ見た彼女は、悲痛にその顔を歪めていた。
 見ているこっちが泣きたくなるほど痛々しかった。涙も声もなく、彼女は全身で泣いていた。
 ナマエはゾルディック家の使用人である。
 どういう経緯でこんな暗殺一家に属することになったのかは知らない。彼女はいつのまにかそこにいた。歳が近いからか、よくつまらない談笑で盛り上がった。
 俺はナマエと友だちになりたかった。
 彼女はカナリアと同じようにそれはできませんと何度も言った。俺もどこか諦めていた。使用人と主人の関係から逸脱してはならないと理解していたのだ。
 それでも彼女は話しかければ笑顔で答えてくれたし、小さく笑い合うその時間は癒しを与えてくれた。
 友だちになることは叶わない。俺たちの立場上、その理由も理解できる。でも、心のどこかではナマエと友だちのつもりでいた。言葉で縛るのがいけないだけであって、くだらないことで笑いあうこの関係は、ありふれた普通の友だちというものなんじゃないか。
 だが、ナマエは俺を好きだった。
 普通なら裏切られたような気持ちになるのだろうが、不思議とそんなものは微塵も感じなかった。友情は打算なく行われるがこと恋愛においては違う。となると、俺にはなくとも彼女には打算があったはずだ。少なくとも俺を好いていた彼女には。俺の友情を密かに裏切っていた彼女に、どうしてか嫌悪感はまったくなかった。
 彼女の告白、羞恥に染まった表情、いまにも泣き出しそうな濡れた瞳。そのすべてが俺の心臓をばくばくと脈打たせた。
 咄嗟に彼女に「ごめん」と言ってしまった理由は、冷静になると理解できた。友だちにすらなれない俺たちは、恋人になれない。唯一許された関係は、使用人と主人だけだった。
 その繋がり以外のなにかを持ってしまったら、俺たちに降りかかるのは不利益のみだ。しかもすべての責任は彼女が取るという最悪の形で終わる。ゾルディック家次期当主の俺は、なんの傷を負うこともなく完璧に守られる。
 そしてようやく搾り出せた言葉が、よりにもよってあんなちんけな謝罪だった。理由も説明もできずに、謝って断らなければいけないという衝動に駆られて必死だった。もっとほかに言いようがあったんじゃないか。ひょっとしたら、あんなふうに彼女を泣かせずに済んだんじゃないか。後悔してもしきれなかった。
 おかげでその日の晩は寝不足だったのだが、今朝会った彼女はいたって普通の様子だった。昨日の出来事は夢だったのかと疑ってしまうほどだ。
 ただ、彼女の瞼は少しだけ腫れていた。薄く隈もできていた。それが、あの告白はたしかにあったものなのだと実感させた。
「キルア様、お疲れさまです」
 訓練の終わりにタオルを運んでくるのは彼女の仕事だった。どれだけ雑務が忙しくても、これだけは毎日かかさずこなしてくれていた。
 これも、俺たちが友だちだからやってくれているものだと思っていた。そうではなくて、恋愛感情による献身からのものだったのかもしれない。
「目、腫れてる。隈もできてる。昨日は眠れなかったの?」
「……す、すいません、お見苦しいところを見せてしまいまして」
「俺のせい?」
 赤みを帯びた目元に手を伸ばす。白い肌に触れると彼女はわかりやすくびくりと肩を揺らした。瞼を撫ぜてみると彼女は目を伏せて、長いまつ毛を震わせた。
「違います!あの、昨日は本当に申しわけございませんでした。あれは言葉の綾みたいなもので、特に意味なんてなかったものですから、忘れてくださって結構です。私も……その努力をしますので……」
「どういう意味?」
「きっキルア様を、好きに……なったり、こんな使用人風情がいたしませんので、どうかご安心ください」
「そんな簡単に俺を諦めんのかよ」
 なに言ってんの俺。
 ナマエが目を伏せてくれていて助かった。自分がいまどんな情けない顔をしているかわかったもんじゃない。
 ふにふにと彼女の瞳を瞼越しに撫でた。目元の皮膚は柔らかい。戦闘中なんかは切り傷を負いやすいところだ。
 すべすべとして肌触りが良かった。おかしい。友だちだった頃はこんな触れ合いなんてしなかったのに、なんでいま、こんなことしてるんだろう。
 まるで、本当の、恋人同士のような。
「……っ」
「あ、あの、キルア様、もう放してくださ」
「わりぃ!じゃあまた明日!」
 タオルをもぎ取って逃げるように走った。行く当てなんてない。気がつけば自室にいた。ただでさえ汗をかいていたのに、この発汗はその比じゃない。というか冷や汗だ、これは。
 勘弁してくれよ……。

 その日以来、なんだかナマエと顔を合わせづらくて避けるようになった。数回無視すると彼女も察したのか、俺に関わる仕事はすべてほかの執事に任せるようになった。そうすると、俺と彼女の接点はまったくなくなってしまった。自分から望んだことなのに、どうして唇を噛み締めたくなるようなもどかしさを覚えてしまうのだろう。
 一週間ほど経つと、その思いは徐々に俺を蝕んでいった。思いきって執事を使って彼女を呼び出した。来なかったらどうしようと悩んでいたのだが、あっさりと彼女はやって来た。
 喜んだのも束の間だった。彼女の表情は緊張と戸惑いと、沈痛に溢れていた。
 そこではたと思いつく。彼女は使用人だ。主人である俺の命令にはどんなことでも逆らえない。
 彼女が訪問してくれるかどうかで悩んでいた自分が情けなくなった。そもそも彼女に逃げるなんて選択肢はなかった。俺もわかっていたはずだ。忘れたふりをして、自分が無理を強要する悪人だという意識から一瞬でも逃れたかった。

「私、お暇をいただくことになったんです」

 目すら合わせてくれなかった。あのときと同じように、彼女は丈の長いスカートの裾を握り締めていた。
「私の方からシルバ様に辞職させてもらえるようお願いしたんですが……私の能力はゾルディック家に利になるということで、解雇ではなく休職という形を取らされました」
「それって……いつまで。どれぐらいの期間」
「わかりません。ですが復帰することはないと思います。もし復帰するとしたら、私の気持ちの整理がついた頃でしょう」
「気持ちの整理って」
 彼女はいまだに顔を上げない。俺のことが好きだから、ナマエは使用人をやめてしまうのだ。そして戻ってくる頃には、その恋慕はすっかり冷めきっているのだろう。

 そんな勝手なことを、俺の許可なしに。

 痛々しいほど握り締められた彼女のスカート。その白い指には尋常じゃないほどの力がこめられていた。その色をなくしてしまうほど固く閉じられた爪先に、思いきって触れた。すると先ほどの痛々しい様など見る影もなくなってしまって、代わりに行き場をなくした指が空を這う。今度はそれをしっかりと握り締めた。
 この指にしかと感じる、彼女の手のひらの暖かさ。
「なんで、こんなことするんですか」
「だ、だって、いや、他意はない」
「じゃあもうこんなことやめてください!」
 そうやって泣きながらも、彼女の手は俺を拒絶しなかった。なんていじらしいんだろう。なんて痛ましいんだろう。どんだけ俺のこと好きなんだよ、もう。
 涙腺が決壊してしまった彼女はうええんと子どものように泣いた。落ち着いていて、しっかりしていて、穏やかな彼女からは想像もできない姿だった。年相応の少女らしい部分は、なんとこの、余裕をなくした幼い泣き顔にあったのだ。

 自分のために流される涙がこんなにも嬉しいものだっただなんて。

 空いている手で彼女の涙を拭うと、ひぐ、と喉が鳴った。あ、やばい。なんて思った頃にはぼろぼろと新たな涙が流れていた。
「なんでこんなっこんなことするんですっも、うっうえええキルア様のばかああああああ」
「ご、ごめん。泣くなって、頼むから」
「キルア様なんてきらいいいいい」

「は!?俺のことはずっと好きでいろよ!」

「なん、ひ、っえ?」
 彼女の涙がとまった。驚きに目を見開いていた。俺の手を払いのけようとする彼女の腕が動かなくなるほどだった。
「頼むよ、泣くな。泣けば泣くほど俺のこと嫌いになるんだろ。それだけは絶対に許さない」
「どうして私がキルア様を嫌うといけないんですか……?」
「どうしてって、ずっと傍にいてほしいから。俺のことが好きなら離れないだろ」
 信じられない、といった顔で彼女は俺を見た。ひたすらに困惑だけが感じられた。信じられない、でも信じたい。一筋の希望に縋りたいのに、理性がいけないと律する。そんな葛藤が見て取れた。所在なさげに揺れる瞳に先ほどの悲痛な色は見られなかった。
 どうしたのだろう。泣かないでいてくれるのは嬉しいのだが……。
「そのずっとって、キルア様のことが嫌いな私でも傍に置いておきたいんですか?」
「それは嫌だけど、ナマエがいなくなるのはもっと嫌だから、お前がいくら俺のことが嫌いでも一生手放すつもりはない」
「たったとえばの話ですが、もし私が誰かと結婚して妻となったら、それでもキルア様は傍に置いてくれますか?」
「お前が結婚する前にその男は俺が殺すだろうけどな」
 俺は彼女のご主人様なのだ。勝手に結婚の許可など出さないし、永遠に出すことはないだろう。彼女がほかの男と仲睦まじく歩いている姿を想像しただけで腸が煮えくり返りそうになるほど苛立った。もし彼女が俺以外の誰かを好きになっても、ゾルディック家から逃しはしない。
 彼女の頬が赤く熟れた。それはじわじわと広がっていき、最後には耳まで真っ赤になっていた。先ほど大泣きしたせいではなさそうだった。俺に告白してきたあのときの彼女と重なった。
「とにかくナマエはずっと俺のことを好きでいろよな!お前は俺の使用人なんだから」
 彼女はまたぼろぼろと泣き出した。ぎょっとして宥めようとしたが、その口元は幸せそうにゆるんでいた。
「はい、使用人です。私はキルア様のことが大好きな使用人です。一生お傍から離れません」
 無性に抱き締めたくなって、その肩を引き寄せた。無抵抗に俺の胸に収まった彼女の体は想像していたよりもずっと華奢だった。
 彼女が背に手を回してぎゅうと抱きついてきた。幸せでたまらないといったふうに、朱に染まった頬で見上げてきた。

「キルア様、これからもずっとお慕い申しております」

 なんで俺の心臓こんなにも破裂しそうなんだろう……。彼女の笑顔を見て頬が緩んでしまうのはきっとなにかの間違いだ、うん。


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