あいうえおっと | ナノ

真っ白に磨かれていたはずの床の色が、鮮やかな赤に染まっている。思わず息を呑んでしまった自分が可笑しくて、ナマエはくすくすと笑った。床が血だまりに見えてしまうなんて、どうかしている。そんなはず、ないのに。
目を細めて振り返れば、窓から赤い光が差し込んでいた。朝が来たのだ。ナマエはたまらなくうれしくなって、とてもじっとしていられなかった。
彼女は窓を開け、裸足のまま光の中へ飛び出した。庭を抜け、丘を駆け登ると、そこには朝があった。何に遮られることもなく、彼女の目の前に。
「どうしよう、これからどうしよう」
どうしよう、どうしよう。ナマエは馬鹿みたいに繰り返す。同じ言葉でも、今まで彼女が使ってきた「どうしよう」とはまったく意味合いが違っている。
「自由なんだわ、私」
大きく息を吸い込めば、清々しい空気が彼女の肺を満たした。息を吸って、吐く。たったそれだけのことさえも、昨日までとはまるで違う、素晴らしいものに思えた。
「ナマエ」
名前を呼ばれて彼女は、満面の笑みを浮かべて振り返る。それなりの金額を払って借りたこの貸別荘の周辺に、生きている人間は彼女と彼の二人だけだ。
「イルミ」
ナマエはとろけるような甘い声で彼の名を呼び、丘を駆けおりた。
「どうしよう、イルミ!私、どうしよう!」
はしゃいだ声をあげて駆け寄ると、イルミは携帯を掲げて彼女に見せた。
「キミはまず、オレに報酬を支払うべき」
あっ、とナマエは口元を押さえる。そして、大口を開けて笑った。
「あっはは、いっけね、忘れてた!」
彼女の携帯は、部屋に置きっぱなしだ。ここにいる人間がイルミだけとはいえ、情報を扱って稼いでいるナマエにしては、なんとも迂闊なことだった。
慌てて駆け戻る彼女のあとを、イルミはゆっくりに見える足取りで追ってくる。しかし実際のスピードは、ナマエの駆け足と同等だった。
「さすがね」
と彼女が楽しげに笑うと、イルミはなんのことだかわからないようすで、きょとんと首を傾げた。その仕草にもまた、ナマエは笑う。何もかもが可笑しくて、楽しくて、嬉しくて、笑いを耐えてはいられなかったのだ。


どうやらイルミも、ナマエと同じ窓から外に出てきたらしい。つまり玄関には鍵がかかったままだったので、ナマエは窓から部屋へ入るためにイルミの手を借りる必要があった。
「ナマエ、キミちょっとはしゃぎすぎ」
窓から腕を伸ばしてナマエを引き上げながら、イルミが呆れたように言う。
「いいでしょう、今日くらい。っわっと」
リビングの床に降り立った瞬間、ナマエは転がっている死体の腕を誤って踏みつけた。よろめいた彼女を支えて、イルミがわざとらしいため息を吐く。
「だから、落ち着きなって」
「ありがと、気を付ける」
イルミに縋りつくような格好になってしまい、さすがにナマエも恥ずかしかったようだ。彼の手を離れてきちんと一人で立つと、照れを誤魔化すように苦笑した。
さて、携帯は二階の部屋だ。ナマエは無造作に転がるいくつかの死体を慎重に跨いで、リビングを出た。
「そういえばさっきね、朝日のせいで床が血だまりに見えて、びっくりしちゃった。イルミがそんな殺し方するはずないのに、おかしいでしょ」
ナマエは饒舌にしゃべりながら、階段を上る。その途中、玄関扉がふと視界に入り、彼女はあっと声をあげてイルミの顔を見上げた。
「っていうか、私は窓から入らなくても、イルミが鍵を開けてくれればよかったじゃん」
「……先に言ってよ」
僅かな沈黙のあと、不満げにイルミが言う。ナマエは彼の肩を叩きながら、けらけらと笑った。
「イルミだって気づかなかったくせに!っわ!」
するとイルミは、階段を上るナマエの背中をぐいぐいと押し上げた。
「いいからさっさと上って、金払ってよ」
「ちょ、待ってイルミ、危ないって」
口ではそう言いながら、ナマエはイルミの腕に体重をかける。イルミはまた、ため息を吐く。
「もうキミ面倒くさい。今日は特に」
「いいじゃない、最後くらい」
笑いながら言ったはずの声が、思った以上に悲しげに響いて、ナマエは驚いて体重を自分の足の上へ戻した。そして、残りの階段をできるだけ軽やかに駆け上った。


「それじゃあ、確かに、パパとそのボディーガード六名の死亡を確認しました」
台詞を読むようにそう言って、ナマエはようやく手元へ戻った携帯から、指定の口座へ入金する。
「うん、確かに。入金確認しました」
彼女に倣うように、イルミも携帯を見てうなずいた。二人は揃って、携帯を仕舞う。
はあ、とナマエは大きく息を吐いた。なんてあっけないのだろう。これで、終わりだ。何もかも済んだ。あの父親が、死んだのだ。
ずっと抑圧され、締め付けられ、逃げ出しても追われ続けてきた。けれど、そんな生活はもう終わった。
妙なけだるさを感じて、彼女は床へ座り込む。二人の間にしばし、何かを探るような沈黙が流れる。
「それで、どうするの?」
先に口を開いたのはイルミだった。ナマエはきょとんと首をかしげる。
「さっき、言ってたろ?どうしよう、って」
イルミが言葉を重ねると、ああ、と彼女は静かにうなずく。先ほどまでの異常なはしゃぎぶりは、少しは落ち着いたようだった。
「今の仕事は、もう辞めるわ。だからまずは、そのための情報操作ね。ナマエは、死んだことにする」
どこか遠い場所へ思いをはせるように、ナマエはぼんやりと宙を眺める。その表情はイルミの目に、彼女をまるで知らない女のように見せた。
「私は元の名前と元の顔に戻る。パパたちの死体が見つかったら、きっとニュースになるだろうから、そのニュースを見て、三年前に家出したきり行方不明だった娘が帰ってくる」
「そう。それがいいかもね」
にやりと悪戯っぽく笑うナマエに、イルミは淡白な相槌を返す。
「だから、これでさよならね、イルミ」
仕事を通して繋がり、仕事が終われば他人に戻る。縁あって二人は、何度かそうやって再会と別れを繰り返してきた。けれど、今回の仕事でこの関係も終わりだ。
ナマエは、ナマエを殺して正当な名前を取り戻す。表の世界でまっとうな仕事を見つけて、悪いことから足を洗うのだ。
「そうだね。この先、二度と出会わずに済むことを祈ってるよ」
可能性は限りなく低いけれど、もしも次に出会うとしたら、彼が彼女を殺すためでしかありえないだろう。


また、しばしの沈黙。そして二度目も、先に口を開いたのはイルミだった。
「ナマエ」
「ん?」
彼女を呼んだイルミは、探るような目でナマエを見たあと、おもむろに尋ねた。
「キミ、料理できる?」
「は?」
ぽかんと口を丸く開いて、ナマエはイルミのやけに真剣な顔を見つめる。
「……できる、けど。…ひょっとしてイルミ、おなか減ってる?」
「うん」
子供のように素直にうなずいたイルミに、ナマエはぶはっと噴出した。床に丸まって肩を震わせているナマエを、イルミがひょいと軽く抱え上げる。
「ちょ、まさか、それで急かしてた?入金」
息も絶え絶えにナマエが尋ねると、イルミはまたもこともなげに、うんとうなずいた。
「あっ、しかもさっきの『どうするの?』って、朝食のこと?!」
肩の上で大声を出したナマエに、イルミはうるさそうに顔をしかめる。そしてやや乱暴に、彼女を担ぎなおした。ぎゃあ、という叫びを無視して、彼は淡々と答える。
「だからさよならは、朝めしのあとにしよう」
「そうね。まずは食べなきゃ、はじまらないわ」
イルミの肩に担がれたまま、ナマエは笑う。そして、思い出した。
そういえば、そうだった。これからはじまるのだ。すべては終わるためじゃなく、はじめるためにしたことだった。


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