あいうえおっと | ナノ

欠けたグラス。破片の数はわからない。どこへ消えてしまったのかも、知らない。
ただ、欠けていて、もうもとには戻らないグラスが、そこにある。

カーテンが爽やかな春の風に揺れる中、ひとりきりの窓辺から、青々とした葉桜を眺めた。木漏れ日は新しい何かを連れてくるかのように未知の匂いを運び込む。

グラスには名前が彫ってあった。それはおそらく私の名前だろうと思われた。けれど偶然か否か、その彫られた名前の横にまだ何か彫られた痕跡があるというのに、その先は欠けていて読めないのだ。
光が差し込んで、グラスの不自然な割れ目に乱反射すると、真っ白な部屋がさらに明るく照らされる。そのたびに、私は何か大切なことを怠っているような気がしてならなかった。

私はどこにも痛いところがないし、何一つ悩みも抱えていない。けれど、ずっと入院していて、退院の目処も立っていないそうだ。
お医者さんは難しい医学用語なんて何一つ口にせず、単に私の生活を金銭的に保証している人物がいるとだけ述べた。
その人について何か教えてもらった気もするのだけれど、お医者さん自身がその人を良く知らないらしく、大した話は聞けないでいる。男の人だとか、背が高いとか、変人だとか…それくらいのもの。だからいまいちピンと来なくて、その人がどんな人なのか、一晩寝るとすっかり思い出せなくなってしまう。

沢山の人が入ったり出たりする施設で、私だけが、毎日ご飯を食べて毎日桜の木を眺めて毎日夢を見ている。そんな日常が心底不思議で奇妙なのに、その毎日とやらがいつから始まったのかすら不明瞭だという現実は私が考えている以上にまずいことなのかもしれなかった。

それからどれぐらい、ぼおっとしていたのだろう。
ふいに、人の気配がした。それは気配と呼べるほど明確なものではなく、もっと漠然とした恐ろしさに似ている。
私は窓から視線をそらし、病室の入り口を見る。そして、おかしいな、と思う。果たして私に知り合いなんていただろうか。それとも、この人が私を入院させているのだろうか。いずれにしても、そこにいる彼ははじめましてであるはずだった。

目を合わせた瞬間、全身に鳥肌がたつのを感じた。だって、明らかに人間らしからぬ雰囲気をまとっていたから。

「やあ」
とその人は言った。けれど名乗りはせず、私のベッドの横まで来ると、しばらく私に微笑みを向けたまま黙っていた。
それは本当に恐ろしい感覚だった。知らない人がまるで私をよく知っているかのように見つめて、言葉にならない何かを語りかけてきている。
けれど何より恐ろしいのは、私の中に彼の存在があるという気がしてならないことだった。いや、ただの錯覚かもしれない。あるはずのない過去を今まで散々に空想してきた私が、この人を知ったつもりになっているのかもしれなかった。
「……あなたは、」
誰、と聞こうとしたのに、それ以上はとても喋れなかった。その人はまるで動いていないのに、目だけはぞっとするほどどす黒い闇を発していて、私はすくんでしまったのだ。けれどその時、私ではない私、私の知らない私が、私に語りかけてくるのを確かに聞いた。でも、その声はあまりにも歪で、何を言っているのか聞きとれない。

私が、私に、必死で叫んでいる。今しかないのだと言っている。でも、わからない。なにもわからない。つんざくように煩くて、割れそうな悲鳴。私を駆り立てる、私の声。
……頭が、…痛い。

「特に用はないんだ」
彼は私から目線をそらすと、笑顔を貼りつけたまま、グラスの近くに手をかざした。そしてその手が再び彼の手元へ戻されたとき、グラスのそばには小さな何かが置かれていて、静かに怪しく光を放っていた。
「これはもう返すよ」
返す? その意味がわからずに首をかしげても、彼は説明してはくれなかった。私が手を伸ばして、彼の置いたガラスの欠片をグラスの割れ目に合わせると、それはそれは怖いくらいにぴったりとはまるのだ。しかもなんということだろう、文字が……欠けていた文字の続きが、そこにはあった。

それは、短い、おそらく、名前だった。
「ひ…そ…か?」
文字を読むなんて子供でもできることなのに、まるでそのときの私は子供より頭がすっからかんになってしまって、その名前を読むのもやっとだった。
他のあらゆる全てが真っ白になり、ただその三文字を何度も心のなかで読み返す。ひそか。ヒソカ。ヒソカ?

わずか数秒のことだった。私の中で信じられない量の思考が飛び交って、はじけたと思うと、消えていく。

欠けたグラス。いつ欠けた? 誰のグラス? 私の? グラス。 誰が割った? 悲鳴? 壊れた教会。 彫られた名前の意味は? 百合の花束。 笑顔。 そして、あなたは。 あなたは、誰? 私は、誰だった?

私は、わかったような、わからないような、判然としない結論の向こうに、多くの過去を垣間見た。

はっとして顔をあげる。ベッドのそばには誰もいない。
「もう来ないよ」
閉じた病室のドアの奥で、彼は告げた。
「二度と来ない」
きみの脳みそ、戻らないみたいだからね。と、冷たい絶望を添えて。

彼が去っていく、その足音だけが静かな廊下に響き、やがてそれすらも絶えて、再びのどかな春の風が病室に吹き込んできた。
私は欠片を握った。心臓に痛みが届くくらい強く強く握りしめた。そしてその手を血まみれにした。
なんだか遠い昔も、こんな赤ばかり見ていた気がする。 けれど、どんなに痛みを刻んでも、かつての記憶は戻らない。暮らしも、時間も、世界も、…心も。

欠けたグラスが、ここにある。
散らばる欠片も、ここにある。
けれどここにあるものは全部、もとに戻らぬガラクタばかりだったのだ。


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