あいうえおっと | ナノ

―月が綺麗ですね―
彼女はよくそう言いながら笑っていた。ベッドの上に座り込んで真っ白のシーツを撫でながら窓の向こう側を眺めて茫然とする時、彼女は決まって瞳の中に月を浮かべている。何が楽しくて月なんか眺め続けるの。そう尋ねてみても答えが返ってくることはないと、随分前に知っていた。ただ、月が綺麗ですね。そう言いながら頬を染めて、それにオレは「そうだね」とそっと返事をして、それで終わり。彼女が求めている返事が解らない限り、オレはそうですね、と言葉を渡す以外ないのだから。

もういつからナマエがこのベッドの上で過ごしているのかすら思い出せないほどに彼女とこの部屋、このベッドは同化しているようだった。ナマエが立って歩いて走ることすら想像するのが難しいほどに彼女の身体からは筋肉が落ちてげっそりとしていて、記憶の彼女を辿ることでなんとか昔のナマエの姿をつなぎ止めていられるぐらい。

「治らないって、口には出さないんだけど。わかっちゃうよねえ」

ハッキリキッパリ言ってくれれば諦めもつくのに。
知人から見舞いの品としてもらったという林檎の皮をナイフで器用にむきながらぶっきらぼうにそう言った後、彼女はオレを見てにっこりと笑った。目の奥に、月が隠れているみたいだと思った。「死ぬの、怖くないの?」別に怖くはないよ。彼女は決まってそう答える。「むしろこんなにみんなが心配してくれて、ラッキー?むしろハッピー、みたいなね」冗談のような口調でいつも笑っていた。「クロロもたまには見舞いの品を寄越したらどう?」やせ細った指でオレを指差すナマエは、それでもずっと昔のまま変わらない。ずっと変わらずに空を見上げて、月を瞳の中に閉じ込めようとする。

「ああ…今日も月が綺麗ですね」

「…そうですね」

綺麗だと言うのなら、なぜそんなに悲しそうに笑うの。

ルピナスを持ちナマエの病室へ向かうと、たった今まで先客がいたらしく「なあんだ、クロロも来たの」と、機嫌が良さそうに笑った。見舞いの品だろう、ナマエの手の中には小さな御守りが握られている。

「健康祈願だって、治らないのにね…あ!うふふ、ホントに持ってきてくれたんだ」

「…ルピナス、知ってる?」

「うん?知らないけど、あまりかわいくない花だね」

でも嬉しいよ。ちっぽけな御守りを握りしめながらナマエは笑って喜んでいた。「クロロは優しいね」優しくないことをとうの昔に知っているはずなのに彼女は言う。否定することもせずにルピナスを花瓶に生けると椅子に腰を落ち着かせて、「それ」ナマエの手を指差した。

「捨ててあげようか?」

「…御守り、どうして?」

「健康祈願だなんて、皮肉な話だろう」

手を出すと、困ったように「ダメ」とナマエは笑った。せっかくもらったのに、捨てるなんてしないよ。覆い隠すように御守りを手のひらで包むと、ナマエはいつものように窓の向こう側を瞳いっぱいに映し込んで、そしてオレを見てにっこりと笑う。「盗賊のくせに、私の病気を盗ってくれないんだ」死ぬのは別に怖くないんだけどね。言い訳のように呟いた彼女に、「団長は欲しいものしか盗らないんだよ」と返したら、おかしそうに笑い声を上げた後、やはりいつものように言葉を零す。

「ふふ…ねえ、今日も月が綺麗ですね」

「…そうですね」

健康祈願の4文字はナマエの手の中で歪んでいた。

ちょっとした悪戯心で、菊の花を持ってナマエの見舞いに行くことにした。病院に菊の花を持ってくるなんて、そんな小さな声が聞こえるのもお構いなしに彼女の反応を考える。なに考えてるの、バカ?そう怒るのだろうか。菊なんか持ってきても、私はまだ死んでやらないわよ。そう笑うのだろうか。ああ、そっちのほうが彼女らしいじゃないか。病室の前で立ち止まり、ノックをしようとして止めた。部屋の中から小さな泣き声が聞こえてきたからだ。

その声は紛れもなくナマエのものであり、声を押し殺すように泣いているのがわかった。「死にたくない」震える声で小さく呟いたナマエの言葉に、ああ、彼女は生きたいんだと茫然と思った。近くに設置されていたごみ箱に菊の花を捨てて、いつも通りの顔でドアをノックする。「今日は何もなし?この間のは気まぐれね」ベッドに座るナマエの顔は腫れた目元を別にしたとしても、今日はどこか違って見えた。
ごめんね。オレは何も気付いてあげられなかったんだ。キミが生きたがっていたことも、月が綺麗だと言葉を落とす意味も。ただ、キミがもうすぐで死んでしまうことだけはわかってしまうだなんて、なんて皮肉な話なんだろう。
いつまでも笑っていた終焉の夜はボクの後ろでずっと泣いていたキミに気付いてあげることは出来なかったよ

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