チュンチュン……
「ん、んん。もう、朝……」
カーテンの隙間から差し込む光と、小鳥の囀りで夢の世界から現実世界へと戻された。
昨日の出来事が夢ならばいいのにとぼんやり思いながら、重たい身体を起こして洗面所へと向かう。
鏡に映った自分はひどく可哀相に見える。
それもそうか、昨日は帰って来てからも泣きっ放しで……腫れるのも当たり前だ。
時刻は6時。
今日も朝練はあるんだ、ちゃんと行かないと怒られちゃう。……行きたくない、なんて思ってしまう日が来るなんて思わなかったなぁ。
でもきっと大丈夫。
昨日は突然のことで、みんな混乱して菜子ちゃんの言うことを真に受けただけ。わたしのせいじゃないって、誤解だったって、気づいてくれるはずだよ。
そう自分に言い勇気づけて。
誰もいない家に「行ってきます」と告げて、今日もわたしは学校へと向かう。
6時半。
わたしはいつもこの時間に着く。
それも全部、みんなが朝練にスムーズに入れるようにするため。コート整備、ボールの準備……ひとりでやるのは少しきついけど、それでも、選手が気持ちよく練習できる環境を作ってあげたいから。だから頑張れる。
「きゃあっ!」
部室で、放課後に備えてドリンクを作っている時だった。
外で誰かの……いや、菜子ちゃんの叫び声が聞こえたので、わたしはすぐに飛び出し彼女のもとへと近寄った。
「どうしたのっ」
「あは、転んじゃっただけです」
「そう、ならよかっ……!!」
ホッと安心したのも束の間、部室へ戻ろうと踵を返せば、赤也と仁王を除いたレギュラー全員が揃ってわたしを睨みつけていた。
「何をしている」
「え、」
「何をしているのかと聞いてる!」
「菜子ちゃんが、転んで」
「先輩ひどいです!!」
わたしの言葉を遮ったのは、自分の耳を疑いたくなるような言葉を吐いた菜子ちゃん。
「先輩が押し倒したんじゃないですか!
テニス部のマネージャーは自分だけで充分だからレギュラーに近づかないでって……!」
「結局、矢紘もそこらの女と同じだったってわけかよ?」
「っ違う!そんなこと一度も思ったことなんてない!」
なんでそんな言葉を信じちゃうの?
「昨日の赤也のジャージに今の言葉……ハッ、矢紘に裏切られたな、俺達」
嘘だって、わからないの?
長い時間一緒にいたのは、わたしだよ?
「落ちましたね、矢紘さん」
「データを書き直す必要があるみたいだな」
待ってよ、それ……今までのわたしを否定するってこと?
みんなから次々零れる言葉は、全部わたしの心に突き刺さった。
「やってない……!わたし、本当に何も―」
パシンッ
「──っ」
「真田……」
「この期に及んでまだ言い訳をするかっ!」
初めてだった。
弦一郎が、わたしに手を上げたのは。
「見損なったぞ、矢紘」
そう言い捨てて、練習をすると言いながら菜子ちゃんを立ち上がらせると、まるでゴミを見るかのような目で睨んでから去って行った。
誰も、いない。
みんな菜子ちゃんと一緒。
声をかけられたかと思えば、早く仕事をするようにと弦一郎に怒鳴られただけ。他の部員もみんな、冷めた目でこちらを見る。
「──つらい」
部室へと戻れば、配るつもりだったタオルはなかった。大方、菜子ちゃんが持って行ったんだろう。
朝練はあまり働かなくても大丈夫だ。
わたしは、部室内にあるベンチに座り、鞄からデジカメを取り出して今までに撮った写真を眺めた。
「この前のまで、遠い思い出みたい」
たった2日。されど2日。
みんなに突き放されて過ごすと、こうも時間の流れが遅いと感じるなんて。
……このまま時間の流れが遅くなって、自由にしていられる時間もそれに比例して伸びればいいのに。でも、そうはいかない。
ブーッ、ブーッ
「あ、もう終わる時間」
ポケットの中で震える携帯を止める。
コート近くには時計がないから、みんなに知らせに行かなくてはいけない。
知らせに行かなかったらどうなるかは目に見えている……どうせ弦一郎に怒鳴られる。
部室を出てコートに向かって歩けば、まだみんな一生懸命ボールを打ち合っている。
……ダメだ、言えない。
みんなにまたあの目で見られるのが怖い。
ただ声をかければいいだけなのに、動悸がする上に冷や汗まで出てしまう。まるであの時……祖父母を目の前にした時と同じ、いや、それ以上の感覚に陥るだなんて。
パコーンッ、パコーンッ
「早く、言わなきゃ……大丈夫、だから」
胸元をキュッと握り締め、何度も何度も大丈夫だと自分に言い聞かせた。
「―ッ、弦一、郎……!」
フェンス越しに弦一郎の名を呼ぶ声は、ひどい震えようで、自分でもびっくりした。
「なんだ。」
呼んだだけでそんな不機嫌な顔。
もうダメなの?
わたしの発する言葉に、信じる価値もない?
「あの、もう時間だから……」
「そうか」
「遅刻しないようにね。それじゃあ」
いつもなら片づけをするまで一緒にいるし、教室にも一緒に行った。
でも無理。
話しかけるだけでこんなに吐きそうな感覚に陥るのなら、早々に退散した方が自分のためにもなるし……もしかしたらみんなのためにもなるかもしれない。ああ、睨まれてる。
痛い視線を感じながら、コートを後にした。
・
・
・
・
・
ガラ、
「……!」
教室へと辿り着けば、珍しくわたしの後ろの席には仁王が座って……いや突っ伏していた。
「…………」
「……」
おはよう、と声をかけることもできない。
心臓が縮こまる感覚に苦しさを覚えながら席に座り、1時限目の授業の準備をする。
きっと仁王も菜子ちゃんのことを信じる。
もしくは、何もしないで見てるだけ。
仁王はそういう人だ。
“詐欺師”だから。コート上でも、どこでも。
だから、たとえ「信じてる」なんて言われてもそう簡単には信じちゃいけない。本当のことをあまり言わない人だから。
キーンコーンカーンコーン
HRが始まる時間。
先生が来る前にブン太は教室に入って来た。
一瞬目が合ったけど、すぐさまブン太は視線を逸らした。嫌なモノを見てしまったと言わんばかりの表情を浮かべて。
それからすぐに先生は来た。
連絡事項を述べているけれど聞く気なんて起きなくて、少し顔を俯かせて目を閉じた。
暗闇の世界。
そこにいるのはわたしだけ。
もうみんなが離れてしまった後なのかな。
そこから救い出してくれる人は誰もいない。
ほんの少しある人物がチラついたけど、すぐにみんなの言葉を、菜子ちゃんの言葉を信じてしまうんだろう。
わたしの言葉なんて信じてくれない。
どれくらいだったんだろう、みんなの中のわたしの存在って。こうもあっさり突き放されるのだ、きっと小さかったんだろうな。
「──さん!」
「……」
「ちょっと、中津さん!」
「っ!あっ、ごめん、な、なに」
「プリント」
そのまま机の上に置いてくれればよかったのに、という思いは消して、大人しく受け取る。それから自分の分を取り、後ろに回そうとした所で動きが止まった。
どうか机に突っ伏していますようにと願いながら、ゆっくりと後ろを振り返った。
「!」
「……なんじゃ」
思わず悲鳴が出そうになった。
わたしの望んだ形とは正反対で、仁王は珍しく起きていた。まではいいが、こんなに席が近かったかと疑いたくなるくらい顔が近い。
「あ、えと……ぷ、ぷりっ‥」
「俺の真似か?」
「ちが、……プリント。」
「知っとうよ」
こんなやり取りですらこの調子だ。
わたし自身も過敏になり過ぎているのかもしれないけど、昨日今日で受けた精神的ダメージは結構大きい。
「泣いたか?」
「っ?」
前に向き直ったわたしの背に問いかけられた言葉に、肩が揺れる。
本当なら朝練の時に誰かに言われててもおかしくないくらいの腫れ具合だ、仁王の反応が一番正しいのに違いはないのかもしれない。
「腫れとるのう」
「気にしないで、何でもない」
「そか。」
普通に接してくれる仁王に、嬉しいだなんて思ってはいけない。
信じてしまったら、裏切られた時の絶望感や精神的ダメージは凄まじいものだろうから。
HRが終わり、1時限目が始まるまでの数分の間、本の世界にでも入っていようかと鞄から取り出した時だった。
「矢紘、いるか!」
「……っ弦一郎、……なに」
「今すぐ屋上へ来い!丸井と仁王もだ!」
「あのことか?」
「ああ、そうだ」
あのことって、なに?
弦一郎とブン太の意味深な言葉に疑問を持ちながら、渋々席を立ち屋上へ向かう。
やっぱりもう、みんなの背中が遠い。
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