永久 | ナノ


「Bコートは白石さんと日吉かあ」

「……」

「あれ、そういや矢紘先輩がいねえ」


Cコートでの試合から少し離れ、俺と柳先輩はBコートへとやって来た。

矢紘先輩にも会うつもりで来たというのに、肝心の先輩の姿はどこにも見えない。審判も氷帝の忍足さんがやっていて……ほんと、どこ行ったんだ?仕事放棄するような人じゃないし。



「嫌な予感がするな」


ポツリ、恐ろしく小さな声でそんな言葉を漏らした柳先輩に、ギョッとする。いやな、予感……?なんだよそれ、と思いながらチラと視界の端っこに映ったのは柳生先輩と鳳の焦ったような行動。柳先輩の視界にもその様子が映り込んでいたらしい、そちらへ歩を進めた。


「いましたか?」

「っ残念ながらいませんでした、どこ行っちゃったんですかね、矢紘さん」

「困りましたねえ」


「何があった?」

「!柳くん、それに切原くんも」


俺達が近寄れば、柳生先輩が困ったような表情で矢紘先輩がいなくなってしまったことを教えてくれた。い、いなくなっただと!?


「部屋は!?倉庫は!?ほんとに、どこにもいなかったんスか!!」

「はい」

「最初はAコートの方へ行ったらしいんですけど、その後はどこに行ったのかわからないってことを日向先輩から聞きました……矢紘さん、倒れてないと―」

「おい鳳っ!!」


「あっ」


パッと口に手を持って行くがもう遅い。
矢紘先輩、病気のこと知られるのは嫌だって言ってた……くそ、柳生先輩も柳先輩もいるってのに何口走ってんだよ!


「いや、赤也、俺は知っている」

「え……」

「精市の見舞いに行った時に、医者に矢紘のことを聞いてな。合宿でのストレスが溜まっているとすれば、倒れている可能性も低くはない、一刻も早く捜すべきだな」


「──何の話ですか、柳くん」











「痛い、どうしよう……」


まさか落ちるとは思わなかった。
草が生い茂っていたせいで足元が見えなかったわたしは、そのまま落ち、その勢いで足も挫いてしまって動けないでいた。


長太郎辺りが気づいてくれそうだけど、さすがにこんな場所にいるとは思わないよね。


少し薄暗いこの場所にいると、気持ちが落ち着くどころがどんどん不安になってくる。その不安を隠すように、体育座りをして膝に顔を埋めた。



「…………」



ドクン、ドクン、ドクン


どうしてだろう、
こういう時に限って思い出す、あの頃のこと



一番症状がひどかった時を。


勉強も毎日遅くまでやらされて、少しでも思い通りにならなければ部屋から出してもらえなくて、ずっと監視されていて。



「うっ、」


──やばい。

胸元をキュッと握り締め、気持ちを落ち着かせようと深呼吸をしてみるけど、身体は言うことを聞かずにどんどん荒くなる呼吸。


思い出すな、思い出すな、思い出すな!!



気持ちとは裏腹に、あの頃の記憶に侵食される脳内は、もう止めることはできなかった。




「矢紘、あなたはこの組織を継ぐのです、ちゃんとしなさい」

「こんな簡単なこともわからんのか!」


「どうして女の子なのかしら」

「仕方ないだろう。あいつらは死んでしまったんだから、もう後継ぎは矢紘しかいない。養子などは言語道断」



「こんな時間までどこをほっつき歩いていたんだ!早く入りなさい、遊びの時間など学校にいる時だけで充分だろう!!」

「矢紘、跡部くんとは仲良くしてもらいなさい。けど、その他の人達は一緒にいる価値はないわ、いいわね」




全部、全部大人の事情じゃない……!

後継ぎなんて知らないっ!
どうしてわたしは、わたしの過ごしたい人生を真っ直ぐに進めないの?


敷かれたレールの上なんて、歩きたくない




「も、生きるの、つらい……」



赤也を悲しませないように、あれから自殺衝動はなんとか抑えてきたけどもう無理。未来が真っ暗なんじゃ、生きていたって苦しいだけだもん……会社のことなんて、知らない。あんなの潰れちゃえばいいんだ。


捻挫した足を庇いながら立ち上がり、わたしは川のせせらぎがする方へと歩いた。


景吾や亮、氷帝のみんなに怒られるかな

四天宝寺のみんなに心配かけるかな

立海のみんなは安心でもするのかな


……赤也は、悲しむかな

わたしのことを、好きって言ってくれた仁王は、どう思うのかな



菜子ちゃんは、高笑いでもするのかな




そんなことをポツリ、ポツリと頭の中で考えながら進んで行けば、川が見えてきた。



ジャボ、ジャボッ

「っ冷たい」


足を踏み入れれば、冷たい水が容赦なく靴の中へと侵入してきた。


瞬間、怖くなる。

生きているのがつらい、死にたいとは何度だって思えるけど、いざ行動するとなると臆病になって結局何もできないのだ。そうして今まで生きてきた。



だけど、もう充分だよね。

我慢したもん。

これ以上頑張りたくないの。


もう、ゆっくりしたい。

記憶にもあまり残っていないけど、お母さんやお父さんの場所に行っても、いいよね……?



「っ……」



少しずつ少しずつ歩いて行けば、それに伴って川に浸かる部分もどんどん増えた。

苦しいかな、
でも、苦しいの、これが最期だから……。



「おいっ!!」

「──え……、キャッ」


誰かの声がした。

何かと思って振り返ろうとすれば、今一歩踏み出した場所から急に深くなったらしい、わたしは足を滑らせて一気に川の底へと沈んで行った。








ジャボン、と大きな音を立てて姿を消した矢紘を見て、俺はすぐさま駆け出した。その間にも、たしかあいつ、泳ぎはあまり得意じゃなかったはずだと夏のプールの授業を思い出す。


冷たい川の中に足を入れれば、全身に鳥肌が立った。けど今は冷たさに震えてる場合じゃねえ、矢紘を助けなきゃいけない。



「スゥー……っ」



空気をたくさん肺の中に送り込み、俺は川に潜った。ゴーグル無しで目を開ければ、当然視界は歪んでいて。見にくい視界の中、ゴボゴボと苦しそうにもがく矢紘を見つけ、俺は急いでそこへと泳ぎ向かった。

数分とかからずに近寄ることができ、もがく彼女の腕を掴み、俺は一刻も早く地上へ出ようと足を動かそうとした。



「っ!?」


なのに、矢紘はそれを拒んだ。

俺の引っ張る力にも負けないくらいの力で拒みながら、首を左右に振る。なに、おまえ、死にたいわけ……?



ふざけんなよ。

俺の中の何かがブツリと切れた瞬間だった。



「ふざけんな……!!」



水の中、ちゃんと言葉が通じたかはわかんねえけど、矢紘はピタリと動きを止めて、目を見開いて俺の目を真っ直ぐに見てきた。

俺だってもう息が続かねえ。
これを機に、川底を蹴り地上へと向かった。





ザバアッ、

「……ッ」

「ゲホッゲホッ、」


ようやく川から上がり、苦しそうにしている矢紘を木に寄りかからせた。

ほんと、バカじゃねえの……?



水に濡れて肌に密着している服から薄っすら見えるのは、綺麗な肌色じゃなかった。……そっか、俺らが殴ったんだ。見える色は、どれも醜く痛々しい色。



「──バカだろぃ、おまえ」



矢紘と向かい合うようにしゃがみ込む。

手を伸ばそうとして、躊躇した。
俺なんかが、こいつに触れていいわけねえじゃん……フッと視線を地面へ落としたと同時、矢紘の声が俺の耳に届く。



「、くるしいの、やだ……だれか、助けて。
おじいちゃんもおばあちゃんもきら、どうしてわたしじゃなきゃダメなの?もっと相応しい人、いっぱいいるでしょ。お父さんが無理になったんなら、お父さんの弟でもいいじゃない……勘当しちゃったから、もうダメなの?」


「おい、矢紘……?」

「ッごめ、なさい!!遅くまで遊んだりしないって、約束するからっ、だからそんなこと言わないでよォッ……みんな大切な友達なの!」


身体を震わせながら泣きじゃくる矢紘の心は、今どこにあるんだよ。

何の話してるんだか、全然わかんねえ……俺、矢紘のこと全然わかってない。



「矢紘っ!!」


わかってないなりに、俺は叫んだ。
これ以上矢紘が“今”から遠ざかったら、どんどん離れて行く気がして。




「っ……だ、れ」

「……俺、ブン太。」


「──ブン、太……?」


ああ、いつ振りだよ、名前で呼ばれるの。
意識が完全に戻ってきていないからだろう、矢紘は無意識に俺の名を呟いた。それだけなのに、どうしてこうも胸が苦しいんだよ。



「!丸井……!?」

「ああ、そうだよ」


「なんでっ、なんで助けたりしたの!?」



ああ、もう名前で呼んでくれねえのか。



「わたしは、いなくなりたかった!!
この世界から消えて、苦しみから解き放たれたかったのに!菜子ちゃんのことが大切だと思ってるなら、わたしなんかいない方がそっちにとっては好都合じゃないの!?

やだよ、こわいよ……っ

まだ痛めつけ足りないの!?
わたし、なにもしてないよね、何かした?暴力振るわれなきゃいけないことしたの?」


「……矢紘」

「呼ばないでよ!名前で、呼ばないで」



怒ったり、泣いたり不安がったり……なんでそんなに気持ちが忙しないんだよ。嗚咽混じりに泣く矢紘から目が離せない。



──俺、間違ってた。

高橋が泣いているのも何度か見た。手首を切って自殺未遂をしようとしてるのも、知った。



でも、なんか、違うんだ。




「悪い、矢紘……」



拒否されるだろうと思ったけど、俺は矢紘を抱き締めずにはいられなかった。

思った以上に、彼女の人生は楽しくない。


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