朝、榊先生がようやく合宿所に到着。
それからは全部先生が仕切ってくれたため、わたしや菜子ちゃんは、ひたすらマネ業に励むことだけをしていた。
少なからず、わたしは安心していた。
これで彼らの暴力はなくなる。それから、もうすぐで合宿も終わる。そんな安心感が。
ジャァアアア‥
午前中の練習が終わったため、お昼の前にボトルを洗ってしまおうと思いひとり黙々と洗っていれば、背後から誰かの足音が。
「先輩」
「……菜子ちゃん」
「嬉しそうですね?氷帝の顧問が来て」
フッと眉を下げながら言う菜子ちゃん。
彼女はきっと面白くないのだ。だって、目の前でわたしが暴力を振るわれることもなくなったから……合宿自体も退屈してるのかもしれない。
「それより残念でした、まさか先輩が氷帝の人達と知り合いだったとは」
「菜子ちゃんは、合宿に来た人達みんなを使ってわたしをイジメようとしたかったの?」
「そうかもしれません。でも、私はあれです、イジメられてる先輩よりも私のことで頭がいっぱいになってる彼らを見たいですね」
ああ、そうだったね。
菜子ちゃんの目的は、わたしがイジメられることじゃなく、わたしを道具として使った自分の周りに彼らを集めることだったっけ。……もう充分中心的人物なのに。
少しだけ、会話が途切れた。
水が流れる音と、ボトルを擦る音、それから風がよそぐ音だけが響いている。
「でもまぁ現に、みんな私のことで頭がいっぱいみたいなんで……そろそろ先輩を道具として使うのは終わりにしておきます」
「―え?」
一瞬、菜子ちゃんが何を言ったのかわからなくて、目を丸くして聞き返してしまった。
「だから、私はもう何もしないってことです」
「ほんとうに?」
「はい。だって、欲しいモノは一応今私の方にある……でも、もしあの人が矢紘先輩の味方になったら、また意地でも奪います」
「っ!」
ギロッと睨む菜子ちゃんの目は本気で、一気に身の毛がよだった。ここから去っていく彼女の後姿を見て、あの人って一体誰だろうと頭の中では考える。
目に見えている赤也はきっと違う。
じゃあ、3年のレギュラーの誰か……?
なんだか嫌な予感がする。
まさか、仁王、とかじゃないよね……昨日、あんなことを言われたばかりだ。あれから会話もしてないし目も合わせてないけど。
「好きじゃから」
その言葉を思い出し、カッと顔に熱が集まるのを感じた。急いで冷やしたくて、水道の水で顔をパシャッと洗って落ち着かせる。
「やっぱり、詐欺師はわからないな」
・
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最後に食堂に入ったのは、わたしだった。
榊先生の目もあるからか、立海の雰囲気も変わらずに鋭い目をこちらに向けることはなかった。
でも先生が来たせいで、学校ごとに食べろというのが厳しくなった。お陰で、わたしはあの立海のみんなと食事を一緒にしなければならなくなったのである。嫌だなあ。
「氷帝に戻りたくなったら、早く言えよ」
通り過ぎる際に、景吾にそう言われた。
……すぐにでも受け入れられるよう準備をしておく、そういう意味だろうか。待って、わたしは宣言されない限り氷帝には戻らないよ。だって祖父母の目があるからね。
ガタリ、席に着けば一瞬静まる立海。
「うげー、飯がまずくなる」
「丸井先輩、それシェフの方に失礼ですよ」
「ははっ、わかってるって!実際めっちゃ美味いからな、早く食いてえ」
言葉を発したのは顔を歪める丸井で。
それをすぐに宥めたのは、隣に座っていた菜子ちゃんだった。もしかして、わたしの味方になってほしくない人って丸井なのかな。
ついジッと見てしまった。
その視線に気づいたのか、丸井は眉間にしわを寄せて「何見てんだよ矢紘」とイラついた声で言われた。
「先輩、大丈夫っスか?」
「うん。榊先生がいるから、何もなかった」
コソッと話しかけてくれた赤也に、大丈夫だよと言葉を添えて小さく微笑んだ。
「赤也は?」
「へ」
「わたし、今日立海の方行けなかったから全然見てない。何もされてない?」
「……大丈夫っスよ」
へらっと笑う赤也を見て、たぶん何もされてはないだろうけど雰囲気は最悪だったのだろうということは充分に感じ取れた。それから、金色くんと一氏くんの妙にラブラブした感じのいただきますで食事が始まった。
「てかよお、赤也も大概バカだよな」
「あ?」
「赤也……!」
「バカって、なんスか丸井先輩」
ポロっと零されたバカ、の言葉。それに敏感に反応し、赤也は先輩を見る目ではなく、ひとりの敵として丸井を睨んでいた。
「今まで何見てきたんだよって話。普通、この状況で裏切るとかあり得ねえだろぃ」
「裏切って当然スよそんな奴」
「赤也くんっ」
「それに丸井先輩もバカだろ、どう考えても……俺よりもバカなんじゃねえ?」
「はあっ!?切原、ふざけんじゃねえ!」
ガタッと荒々しく席を立ち、身を乗り出してわたしの隣に座る赤也の胸倉をグッと掴み引き寄せてジロリと睨む丸井。
ど、どうしようこれ!
「おまえら、やめんか。食事中だぞ」
「ふざけてんのは先輩の方じゃねえか!
ほんとは前から気にしてたくせに、知るの怖いから逃げてんだろ……後戻りできねえからって、目背けてんだろ!!」
「……!」
瞬間、丸井の瞳が揺らいだ気がした。
「マジで矢紘先輩のこと嫌いだったら、そうやって名前で呼ぶのやめてもらえません?」
他の先輩らもそうですけどね、と怒りを含んだ声色で言い、丸井の腕を無理やりはぎ取り食堂から立ち去って行った赤也。
それから全体的に気まずくなる食堂。
氷帝も四天宝寺も、こちらを気にしているのか話声すら聞こえない。
そういえば、みんなわたしのこと嫌いなくせに名前だけは変わらず呼んでくれている。
今ではあまり気にならなくなっていたけど、イジメられ始めた頃はとても辛かった。どうして名前で呼ぶのか疑問で、嫌いならとことん嫌うように名字で呼べばいいのにと思っていた。
でも、そうか、
みんなは傷つかないからだ。だから名前で呼んだって何も感じない。
わたしだけが苦しい。
みんなのこと名前で呼んだら今の苦しみが更に増してしまう、だから彼らのことを早々に名字で呼び始めた。
「つまり、赤也は俺達に矢紘を名字で呼べと言いたいのか」
「けどよ、慣れちまってるし」
真田がもう一度赤也の言葉を彼なりの言葉でその場に落とせば、誰もがうーんと唸った。
……慣れ、か。
でも桑原、それがわたしを苦しめている原因のひとつでもあるんだよ。どうせなら、突き放してほしいのに、“矢紘”とみんなそうやって呼ぶから繋ぎ止められてしまう。なんて邪魔で、重たい鎖だろう。
「……ごちそうさまでした」
ほぼ残してしまったけれど、静かに手を合わせ、シェフの人達には申し訳ないという気持ちを抱えながら赤也を捜しに食堂を出た。
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