ガタンゴトン、
「……」
電車に揺られながら、久しぶりに見る東京の景色を目に映していた。
突然の電話から3日後の今日は日曜日。ちゃんと部活はあった。午前中に、またわたしはいつものようにマネ業をこなして……そしていつものように痛い思いもした。バレないといいなと思いながら、袖を触る。
少しずつ暑くなっている季節。とくに今日は半袖でも過ごせるんじゃないかと思えるくらいで、手首まできっちりある長袖と足首まで伸びるロングスカートを穿いているわたしは、見ていてとても暑苦しいだろうな。
『まもなく○×駅〜。お出口は右側です』
次の駅に着くと言うアナウンスから数分、ドアが開き、駅のホームへと足を下ろした。
スッと鼻から入った空気に、やはり東京の空気は少し汚れているなと感じた。肩にかけている鞄をぎゅっと握り締めて、改札口へと向かう。
「よう」
「……!あは、久しぶり、跡部クン」
「アーン?なんだテメェその引きつり顔は。せっかく俺様が出向いてやったんだぞ」
「いや、大人っぽくなっててびっくりした」
改札口を抜ければ、声をかけられた。
電話で耳にしていた声だから景吾だとは思っていたけど、時間というのはすごい。少し離れていただけ……たった1年だけで、人間ってこうも変わるものらしい。さすがに性格までは変化しないけど。
「変わらねえな……いや、少し痩せたか?」
「ほんと?」
「いや、見間違いだ」
「……ムカー!いいよ、侑士に可愛くなったなぁって絶対言われるから。それから絶対に抱き着こうとするだろうから近づかないで変態って言って落ち込ませて―」
「やめろ、八つ当たりするんじゃねぇ。だがまあ、元気そうで何よりだぜ」
はあ、とため息をつきながらもどこか安心したような笑顔を見せる景吾。
懐かしい笑顔だ。俺様発現ばっかりでたまに嫌になるけど、こういう笑顔は好きだ。仲間内にしか見せない、なんかちょっと緩んだ表情。
「じゃあ行くぞ」
「どこに?」
「決まってんだろ、氷帝だ」
・
・
・
・
・
・
キキッ
「久しぶり、氷帝」
変わらぬ風貌に安心感が生まれた。
1年前まではここに通っていたんだ。幼稚舎時代からずっと……だから、思い出はとてもたくさんある。
「ほら、行くぞ」
「うん」
幾分背の高くなった景吾の背中を追う。
懐かしい校舎をキョロキョロ見渡しながら歩いていると、次第に聞き慣れた音が耳に届いてきて。まさか、ここまで身体が反応してしまうとは思わなかった。
「っ、あ……いや、」
「アーン?矢紘、どうした」
「あっ、ううん、なんでも、ない……」
「なんでもないようには見えねえな。その長ったらしい袖もスカートも、まるで自分の身体を見られたくなくて着てるみてぇだしよ」
「!」
「向こうで、なんかあったのか」
さっそく気づかれそう。
ジッと見られている感覚にわたしは耐え切れず、思わず景吾の傍から離れようと動き出した。しかし、それよりも速くわたしの手首はギュッと掴まれ、逃げるに逃げられなくなってしまった。
「それは肯定と受け取るぜ?」
「なにも、ないよ……楽しいし、王者立海大のマネージャーは遣り甲斐もあって……っ!」
「嘘をつくな」
「嘘なんて、」
「だったらこの袖、捲って見せろ」
「……嫌だ。日焼け止め塗ってないの」
「そうか。じゃあ、この俺様が捲ってやる」
「っ変態!」
ガッと袖と手首を掴まれ、振り払おうにも女のわたしなんかじゃどうすることもできない。
変態?上等じゃねえか、なんて言いながらも怖い顔で袖を捲ろうとする景吾。ああ、痣だらけの醜い腕を見られてしまう、と半分諦めかけていた時だった。
「何やっとんねん、跡部。襲ってるようにしか見えへんで」
「アーン?」
「……っ侑士!た、助けて!」
天の助けと言っても過言じゃないと思った。
怪訝な目で見られていることに気づいた景吾は、一瞬手首を掴む手の力を緩めた。その隙にと、わたしは彼の手を振り払って侑士のもとへと駆け寄った。
「久しぶりやん、矢紘〜」
「久しぶ、い゙っ!?ばっばか!!」
パシィン!
「え、なに。俺なんで叩かれたん?」
侑士に近づいたのがバカだった。久しぶりと笑顔で言うつもりだったが、急に腹部に腕を回してくるものだから、痣に当たり、まるで針に刺されたかのような鋭い痛みが全身を襲った。
崩れるようにその場にしゃがみ込み腹部を押さえていると、背後から近づいて来た景吾が、そのままわたしの腕を掴み上げた。
バッ
「!な、なんやその腕……どないしたん!?」
「ひどいな。誰にやられた……なんて、わかり切った質問は俺はしないぜ」
「……っ」
「とりあえずコート行こうや。あいつらも矢紘に会いたいって、さっきからうずうずしてんねんで?焦らしプレイをこれ以上引き延ばしたったらあいつら干乾びてまう」
「いや、コートには行かねえ。干乾びるなら勝手に干乾びとけ。おい忍足、おまえは矢紘を連れて先に生徒会室へ行っとけ」
俺は後でレギュラーを連れて向かうと言い、景吾はテニスコートへと足を進めた。
「なんや跡部、勝手やなぁ。しゃあない、事情は聞かへんから……生徒会室行こか」
ガラ、
「そこのソファー座っとき」
「ん」
生徒会室までの道のりは、無言。
本当は聞きたいに決まっている。わたしだったら、誰かの腕がこんなに痣だらけなら絶対に「何かあった?」て聞くから。
ゆっくりと歩を進めて、ふかふかなソファーに腰を下ろした。
途端に睡魔が襲う。
変なの。家では全然、睡魔なんてこなかったのに。
「……侑士、」
「ん?」
「わたし、道を間違えたのかなぁ」
「……」
何を間違えたんだろう。
どこから間違えたんだろう。
──生まれる家から、間違えたのかな。
「そないな顔しとったら幸せ逃げるで?」
「もう逃げた」
「……矢紘、向こうで何があったん」
「さっき聞かないって言ったじゃん」
「さっきはさっき、今は今や」
わたしの前でしゃがみ込み、視線を合わせて言葉を放つ侑士。
彼の丸眼鏡に自分の顔が映っていた。ひどい顔……こんな生きていないような表情をして毎日を過ごしてたんだね、わたし。
けれど言う気にはなれない。
向こうでの事実を話した所で、何かが変わるわけでもないのだから。
ずっとこちらを見る視線に耐えられず、スッと逸らしたのと同時だった。
ガラッ
「矢紘さんっ!」
「1年ぶりじゃん矢紘〜!」
「会いたかったC〜〜!!」
勢いよく扉がスライドしたかと思えば、勢いよく生徒会室に入り込んでくる長太郎と岳人、ジローちゃんに驚いて肩がびくりと跳ねた。そのまま抱き着こうと駆けて来るジローちゃんを、侑士は何も言わずに止めてくれた。
「久しぶり、みんな」
3人に続いてゆっくり入って来た景吾、樺地、日吉……それから、……?
「え、もしかして、亮ちゃん」
「そういや矢紘は宍戸の短髪、初めて見るんだったよな」
「うそ……もったいない」
「女じゃねえんだから別にいいだろ」
ムッとした表情で言う亮ちゃん。2年生に上がる前までは、あんなに長いポニーテールで……見た目もほんとに可愛かったのになぁ。
「これじゃあ亮ちゃんなんて言えないね」
「俺は最初からその呼び名は嫌だった。てかよ、矢紘……おまえ、なんかあったんだろ?」
「ほんまに教えてくれへんの?」
「教えたとこで、何も変わらないよ」
「そんなのわからないですよ、矢紘さん。俺達、仲間じゃないですか!」
ほんと、昔から変わらず優しい長太郎。
みんなのこと、仲間だと思ってるよ。景吾や侑士、樺地以外の人達とは本当に付き合いも長いし、信頼してる。でも……、
「大丈夫だから」
「どこがだ。さっきの痣は普通に転んだり暴力だけでつくもんじゃねぇ。そうだな、強烈なボールを受けない限り、つかない」
「!」
「どういうことですか跡部さん」
見られた時に、わかり切った質問はしないと言っていたけど、そこまでわかってしまっただなんて。膝上に置いた手を、キュッと握り締めた。
「矢紘、イジメられてるのか?」
「えっ」
「おい岳人、そういうことは遠回しに言わな」
「答えろ。おまえは、テ──」
「放っておいて!!」
核心に触れてほしくなくて放った言葉は、とても大きくて。
みんなが息を呑むのが聞こえた。じわりと滲む視界に、今一番驚いているであろう侑士の顔までよく見えない。
「っみんなには関係ない!」
「関係ないだ?おい、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ矢紘」
「ふざけてない。みんなはいいよね、幸せに暮らせてさ……そんな人達に、わたしの苦しみなんてわかるはずがない」
「矢紘さんだって、幸せに」
ああ、イライラする。
違うんだ。
彼らに当たるなんて、ほんとは間違ってる。
けど、ごめん。
コントロールできない。
「幸せ?ははっ、わたしがこの世に生まれたその時から幸せなんてない」
「なに、言ってんだC」
「全部、全部全部間違えたんだ……!わたしなんか生まれてこなければっ──!!」
パシィンッ
「っ!?」
「何言うとんの自分。」
「おい侑士!」
「待て岳人」
頬がヒリヒリする。
目の前にいる、怖い目をした侑士がわたしを叩いたんだ……容赦なく、思いっ切り。
こんな侑士を見たのは初めてだった。遠くで岳人の行動を止めるような亮の声を耳にしながら、わたしは真っ直ぐ見据える侑士の視線から逃れるように目を瞑った。
それから数秒後だった。
ヒリヒリする頬に、誰かの温かい手のひらが添えられた感覚。目を開けば、それは侑士ので。
「矢紘が生まれたこと、間違うてない。
道やって間違うてない。1年前、自らが選んで東京から出て神奈川に行った……そのお陰で2年の時は監視の目もなく自由に楽しく過ごせてたんちゃう?」
「……ん」
「矢紘の苦しみ、分けてくれへんかな。さすがに全部をわかってやることはでけへんかもしれん、けど、少しくらいはわかってやれるし、話してくれた分矢紘の気持ちやって軽くなるかもしれんやろ。
今のおまえは色々溜め込みすぎや。そのせいで、1年の時以上に自分のコントロールが不能になっとる。人間、音楽療法やアロマテラピーだけじゃあ、気分優れないで」
「んっ、ごめ、ごめんね侑士……!」
ポロ、と大粒の涙が零れ落ちる。
もっともな言葉を言われた。
溜め込みすぎ。……だって、わたしの気持ちの捌け口となってくれる人が近くにいない。カウンセラーみたいに、わたしの話を聞いてくれる人が、いない。
でもそれは、立海にいないだけであって、どこにもいないわけじゃないんだ。
「こっちこそ堪忍やで。叩いてしもた」
苦笑気味に呟く侑士に、フルフルと頭を横に振り、そんなことないという意思を示した。
氷帝テニス部レギュラーのみんなが見る中、わたしはしばらく泣き続けた。
いつぶりだろうか、枯れていたと思っていた涙が出たのは。
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