卒業式が終わり、束の間の自由な時間。胸ポケットに造花を挿している丸井先輩を見つける。こんなに大勢の卒業生がいる中、すぐに見つけられるのだから困ったものだ。
そもそも丸井先輩との出会いは衝撃的だった。
あれは一昨年の夏、家庭科部で作ったクリームパンを袋に入れて帰宅しようとした時。
「おいおまえ!」
何事かと思った。下駄箱から外靴を出していると、廊下からづかづかと無表情でやって来た、あの頃はまだ名前すら知らなかった丸井先輩。いや、下級生の間では人気を博す人だったので、なんとなくの特徴は知っていたのだけれど。
先輩は変わらず無表情のまま人のパーソナルスペースまで入り込んでくると、すん、と鼻を鳴らす。見下されているような気がして怖くなって、今にも消え入りそうな声だったけど距離的には問題なく、なんですか、の問いかけは先輩の耳に届いた。
「それ、」
「え?」
「その手に持ってるやつ」
「え、と、これ……ですか?」
「今すぐそれを俺にくれ!!」
一生のお願い!!なんて顔の前で両手を合わせる。こんなところで一生のお願いを使ってしまうのかこの人は、なんて思いながら、先ほどのちょっぴり威圧的な態度は彼からすっかり消えていて、私の手にあるパンを物欲しそうにちらちらと視線を向ける先輩はまるで犬のようで、少し気持ちが緩む。
「腹減ってマジで死にそうなんだよ、おまえそれ誰かにやる予定ある?」
「ないです、」
「じゃ悪いけど」
「いやでも、こんなものよりもっ、」
「?」
「家庭科室にまだ先輩たちいると思うので、もっと美味しいパンをいただけるかと」
丸井先輩は立海テニス部のジャージ姿で、部活後であることが伺えた。死ぬほどの空腹ならば、もっとたくさんのパンを一度に得ることができる家庭科室に行った方が効率的だ。
そう思って提案したのだけれど。
「行ったけどあいつら食い終わってた」
「は、はあ、そうでしたか」
「んで、おまえなら持って帰るって聞いたからさー。もうほんと、すげえ探したわ」
なんと。先輩たち食欲旺盛だった。
もはや購買に行って買えば早かったのではと思ったが、丸井先輩にそんな考えはなかった。
「で、くれんのくれないの?」
言いながら手を出してくる様子に、もらう気満々ではないか、なんだこの人。そう思いながらもちょっとおかしくなってしまって、肩が震える。
「あ、おい、何笑ってんだよ」
「ふふっ、すみません。パン、どうぞ、クリームパン嫌いじゃなければいいんですけど」
「むしろ好物」
そう言い破顔して。
どきり、胸が高鳴るには充分すぎた。
手に取るやいなや、先輩は袋からパンを取り出してぱくりと一口頬張る。待って!感想を言われる心構えはできてない!思わず逃げ出したくなる衝動に駆られながら、視線を床に落とす。
「うんま」
「!」
その言葉にぱっと顔を上げれば、口の端に付いたクリームをぺろりと舐めているところで。見てはいけないものを見てしまったような気分だった。
胸の高鳴りはまだまだ収まりそうにない。
「そういやおまえ名前は?俺は2年の丸井ブン太」
*****
あれから時は経ち、先輩は卒業する。
少しは先輩の役に立てただろうか、私の作る料理を目当てによく家庭科室に顔を出してくるようになってからの1年半という時間は宝物だ。
悲しいこともたくさんあったけれど。
「なまえー!」
もう少しで満開になりそうな桜を見ていると、名前を呼ばれた。はっとして声のした方に視線を向ければ、丸井先輩が手を振りながら歩いてきていて。
先ほどまでたくさんの人に囲まれていたけれど、囲むターゲットがどうやら変わったようだ。上の学年はかっこいい人が多いから在校生は大変である。
「丸井先輩、卒業おめでとうございます」
「おー、サンキュ。ほんとなまえから近づいてこないよなぁ、常に俺からじゃねえか」
「だって私から先輩に用は特にないですもん」
「こんにゃろう」
言うようになったじゃねーかこの口、と頬をぐいぐい引っ張られる。決して痛くはないそれに、先輩の優しさが見える。しかしわかっているのかこの人は、まったく。
「彼女さん怒っちゃいますよ」
そう、丸井先輩には彼女がいる。いつだったか、私と丸井先輩が付き合っているのではないかと噂が流れたのをこの人は知ってか知らずか、その数ヶ月後には同じ学年の綺麗な人と付き合っていた。丸井先輩にはもったいないくらいの人。
「おまえまたそれ?前にも言ったけど、あいつはそんなことで怒るようなちっぽけな女じゃねえから」
「そうですか」
「そうなの。そんで、料理の腕前はなまえが1番なの。はーあ、来月から離れんのかぁ」
「……私は、離れてくれて清々してます!」
「はあ!?」
叶うはずもない恋心に終止符を打ちたかったので離れてくれてよかったです。さすがに、そんなこと言えないけれど、これが本心で。彼女がいるのに料理だけは私が1番だって言うその口を縫ってやりたい、人の気も知らないで。
「可愛くねー」
「パンとかお菓子とか、家に持ち帰って食べたい時もあったのに先輩が全部食べちゃうから」
「おまえが作った食べ物は俺のもの」
「いやなんで、」
「好きなんだから、仕方ねえだろい」
おまえが作る料理、と言葉が添えられる。そう、私が作る料理が好きなだけであって、私そのものはただの後輩止まり。そのことが悔しくて、下唇をきゅっと噛んだ。
「ブン太!」
「おー、来たのか」
「なまえちゃんこんにちは……って、泣いてるの!?ブン太泣かせたの!?」
「え!?いや待て、なんで!?さっき清々するって、」
「清々してますよ、嬉し涙です。先輩も卒業おめでとうございます」
へらりと笑顔を浮かべて言えば、戸惑いながらも、ありがとうと微笑んで返してくれる。やっぱり丸井先輩にはもったいない。それと同じくらい、私に丸井先輩はもったいないのだろう。
胃袋を掴めれば心も掴めるなんて、嘘だ。
「まぁでもなまえ、そのままエスカレーターで高校上がってくるんだろ?」
「え、はい、今のところは……」
「じゃあ1年後、またよろしくな!」
おまえの料理ないと生きていけないわ!なんて笑えない冗談を言う。丸井先輩の隣にいられないのにそんな約束を取り付けるなんて、本当に、嬉しいを通り越して憎たらしい。
「1年後ですね、わかりました」
丸井先輩の胸ポケットに挿してあるピンク色の胡蝶蘭に手を伸ばす。突然の行動だったせいで後退りさせてしまったが、びっくりした、なんだよ。と言いながら、先輩自らそれを手に取り、私に手渡してくれた。
「ほしいんならやるよ」
「……ありがとうございます」
日頃の料理のお礼、そう言い笑って、丸井先輩と彼女はクラスの集まりがあるとかで去っていった。
今だけ、勝手に幸せを感じていてもいいですか。
もう少ししたら終止符を打つので。小さくなる先輩の背中を見つめながら、造花だけれど、もらったピンク色の胡蝶蘭をきゅっと握りしめた。