昼間に降っていた雨のせいで少し湿った地面を踏み付けると、ぐにゃりとした独特の嫌な感触が足の裏に纏わり付いた。そこにしゃがみこんで、雨によって増水した川の音を聞きながら目を閉じた瞬間、背後に人の気配を感じた。


「辰馬、」

「なんじゃ、もうバレてしもうたか」


その人物は何が楽しいのか、アッハッハと陽気に笑って私の隣にしゃがみこんだ。私は閉じていた目をうっすら開けてそちらに目をやる。


「寝なくていいの?」

「おんしこそ」

「なんか目が冴えちゃって」

「ここ一週間、ずっと?」

「…、なんで知ってんの」

「おんしは嘘ばつくのが下手やき、ここ最近体調もよかなさそうやったしのう」


そう言って辰馬はまたあの笑い声をあげた。私は辰馬のこの笑い方が嫌いだ。安くて、薄っぺらくて、本心がまったく見えなくてどうしようもなく怖い。


「わしはおんしらの言う、松陽先生っちゅー人間を知らん」

「……」

「じゃけん、高杉があんなに感情的になる理由も金時があんな苦しそうな顔をする理由もヅラがあれだけ心酔しとる理由もわからん」

「……とっても、立派な人だったよ」

「おんしらの話を聞く限りはそうらしいのう」

「けど、」

「?」

「だけど、死んでしまった」


シンと静まりかえった夜の静寂に川の流れる音と私の声だけが響いていた。急に訪れた感情に名前をつける術は私にはなく、ただただ熱くなる目頭と騒ぎ出した心臓を止めるのに必死になる。


「あんな立派な人が志半ばで死んだ」

「………」

「先生を殺したのは先生が愛したこの世界なのに、なんで…なんで私はここにいて刀振り回して血流して必死になってるんだろう。なんのためにあたしはここにいるのかな。お国の為だなんて、嘔吐が出ても言えない」


くだらない自問自答を誰にでもなく暗闇に吐き出した。溢れて溢れて仕方ないこの気持ちは、私が踏み付けているこの地面と同じようにぬかるんでぐちゃぐちゃだった。このぬかるみを乾かす太陽はもう随分と前から現れていない。否、私の太陽はもう二度と顔を出すことはないのだ。


「高杉は先生の敵ば取る言っとった。ヅラは師の意志ば継ぐのが弟子の勤めだなんだと言っとった。……金時は何も言わなかったきに、わしは知らんちや」

「……」

「みな自分がやるべきことを自分なりに見つけちょる。理由なんて何でもよか。正しい答なんて誰も持っとらんぜお」

「はは、辰馬らしいね」

「わしは何も知らんき、」


そこまで言って辰馬からあの笑顔が消えた。私のちっぽけな脳みそをフル回転させても辰馬にかけるべき言葉は見つからなくて、静寂に飲み込まれそうになる。


「じゃが、わしには夢がある」

「夢?」

「ああ、そうじゃ!でっかいでっかい夢じゃ。その夢のためにわしは今こうしてここにおる」

「……辰馬はちょっとだけ先生に似てる」

「わしがか?」

「うん。お日様みたいなとこ」


それだけ言って私はまた地面へと視線を戻した。目頭は今にも爆発しそうなくらいに熱かったが、鼓動はいつもと同じように一定のリズムを刻んでいた。ああ生きてるんだなあ、私。


「あたしも夢があったよ」

「"あった"?」

「今はもう叶わないかもだから」

「やってみなきゃわからん」

「……いつか、塾を開くの。村塾があったあの場所に。私が先生で、沢山の子供たちに色んなことを教えてあげる。みんな笑顔で…、っ…笑ってて、それで…っ」


村塾はもうない。笑顔が溢れていたあの場所には黒焦げになった木材があるだけで、その一つ一つが先生の死を意味しているようで私たちはあの日以来あの場所には行けずにいた。ずっと我慢していた涙は私の頬を滑り落ちて、嗚咽と一緒にぐちゃぐちゃの地面に混ざった。泣いたのはいつぶりだっけと考えることも出来ないまま、長い間溜め込んでいたそれは私の意志に反して溢れ続けていた。川の流れる音はもう聞こえない。


「おんしの夢はそれだけちや?」


辰馬が笑う。ああもう、どこまで見透かしているんだこの男は。やはり得体のしれないその笑顔に恐怖を抱きながらも、涙が止まる気配はない。夜は一段と深まり、辺り一面は本物の闇に包まれていた。


「みんなで生きて帰りたい…っ、銀時のあんな顔見たくない、小太郎の隈がなくなればいい、晋助の左目が治ればいい…、先生が、村塾のみんなが、銀時たちが、いればあたしはそれだけで…、!」


それだけでよかったのに



意地悪な神様はそれすらも許してくれない。


日に日に減っていく仲間と増えていく刀傷が怖かった。死ぬのは怖くない。ただ、誰かを失うことが一番怖かった。村塾にいた人間はもうあたしたち4人しかいない。どうしてこうなってしまったかなんて誰にもわからない。どうしようもない喪失感だけが身体に纏わり付いて離れなかった。


「よく頑張ったのう」


辰馬はよしよし、と言ってマメだらけの大きな手で私の頭を撫でた。懐かしいその感覚にまた涙が溢れる。良く出来ましたと頭を撫でるあの人の姿が、閉じた瞼の裏にいた。


( 松陽先生、私は私の大切なものを守る為にここにいるような、そんな気がするのです )


ひとつだけねがってもいいですか

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