Open sesame!49



徳さんの前を行く二人の間では尾白が後輩くんの手に悪戯をしかけるのを止め、代わりに肩に腕を回して鼻先を後輩くんの耳のあたりに埋めている。歩きにくくはないのだろうか。後輩くんは表向き抵抗の意思を示しながらも体はぴったり尾白に寄り添っており、何だかんだ言いながらも体は正直というのを体現していた。しかし徳さんはすぐに考えを変える。あれは嫌がっているのではない。照れているか、くすぐったがっているかのどちらかだ。後輩くんは元より抵抗などしていないのだった。
桃色の気配がより濃厚に二人を取り巻き、徳さんはハートの連射が断続的に襲ってくる錯覚を覚え気分はもう降参といった感じだった。
尾白はモデル業もしているのだからもう少し人目を気にするべきではと思ってみたものの、そうしたことを気にするならそれは最早尾白ではないとまた考えを改める。本人の前では言えないが、そういうところは神無月に似ているとも思う。
「少なくとも別れ道まではこのままですわね」
「だよなあ」
幼馴染みからの至極真っ当な意見に徳さんも心からの賛同を示す。それにしても、前を歩く二人はお互いしか見えていないようでちゃんと周りに注意して歩いている。正直意外だったが、少なくとも他の通行人にぶつかったり通行の邪魔になったり障害物に当たったりはしていない。代わりに通りすがりに二度見、いや三度見くらいはされているが。
一方で徳さんは念のため彼らがうっかり何かに巻き込まれてしまわないよう、そして万が一にも巻き込む側にならないよう幼馴染みと共に方々に注意を向ける。そうやって彼ら二人の後ろをついて行く徳さんの胸の内では、不思議とこの先もずっとこのクラスメイトと後輩くんの二人を幼馴染みと共に長く見守っていく予感が降り積もっていくのだった。


***


夜である。尾白は夜にしろ昼にしろ空を眺めることが好きだが、尾白の目的である雲が見やすいのはどうしたって太陽が顔を出す昼間になる。別にどちらの見え方でも尾白は構わないのだが、ここでは夜の方に話を絞ることとしよう。これまで夜の闇に瞬く人工の光は冴え冴えと天空で輝く天体と同列に日が沈んでからの雲がどう変化するか、それを詳らかにするための照明装置でしかなかった――はずなのだが。
尾白は自宅マンションのリビングで食事を終えたあと、そのままたっぷり面積をとった窓越しの景色を見るともなしに眺めていた。投げ出されるようにしてテーブルに置かれた手の側には湯気を立てる湯飲みがある。
完璧に空調が整えられた室内。外に視線をやる彼の視界を遮るものは何もなく、濃い夜空にくっきりと地上の星々が映え、上空では天の星とそれにまとわりつく濃淡がちらつく。夜空というより夜景といった方が正しい様相に、いつもなら上空へと一点集中する筈の尾白の意識は下へ下へと流れ落ち、気付けばあのなかのどれかに心を通わせた後輩の生活の一端があるのだろうかと、そんなことを考えている。
「坊っちゃん、これが今後のスケジュール」
そんな尾白の手元にクリップでまとめられた紙が滑るようにして置かれた。尾白は忘我の境地から抜け出し、配られた紙を手に取る。記された文字列に目を通す。書かれているのは尾白と母の二人分の予定だ。
わざわざこんなことをしなくても尾白は自分の予定は自分で把握できているし、母の分も目の前の人物から逐一最新の情報が入ってくる。これは物心ついた頃からの尾白家の習慣で、母が普段あちこちを飛び回って家を空けているからせめてお互いの予定くらいは把握しておこうと尾白家の家長である母が問答無用で決めたことだった。母なりに息子に気を遣っていると分かるから、尾白も若干面倒だと思いつつ付き合っている。
今日はその母が珍しく家に帰っている。ということはつまりもう一人の人物が家にいるということでもあった。そのもう一人の人物であるところのさっき尾白に親子のスケジュールを渡してきたこの人は、この人こそ長年に渡って尾白親子をサポートし続け、母と二人三脚で尾白を育てつつ尾白に独り暮らしのいろはをも叩き込んでくれた第二の母というべき人だった。尾白家にはこの人のために用意された部屋もあって、そこは彼女も遠慮なく使っている。ただ公私共に母について飛び回っている人なので部屋の使用頻度は限りなく低い。そこは母も同じである。
「変更はない?」
「ええ、いまのところは」
「じゃあいい」
尾白は斜め読みした紙を早々と手放す。テーブルに着いているその人は瞼を半分下ろした状態で沈黙を保っている。気分を害したわけではなく、これがこの人のデフォルトだった。ある特定の場合を除いて無表情、無感動で淡々とした態度を貫く。ついでに格好も紹介しておくと、今は薄紫色の長めの髪をツーサイドアップにし、緑色の目をしてフリフリのメイド服を着ていた。子供の頃から変わらない年齢不詳さのせいでさほど違和感は覚えない。だが客観的に見て当惑される代物だということは尾白も十分に理解していた。そうはいっても尾白にとってこの人はずっと“こういう人”という認識なので、この格好に関して今更何かを言うことはない。思うこともない。前回見送ったときは金髪青目、パンツスーツでの眼鏡秘書スタイルだった。つまりはそういう人なのである。
元モデルの母を現役時代から慕いに慕い、今もなお一途に追いかけ続け世話を焼いている奇特な人だ。むしろ年々悪化しているようにすら思う。この人の母にあう服を自らデザインし手ずから作って見せる手腕は見事という他なく、尾白も度々その恩恵を受けている。
そして間違ってはいけないのは、この育ての親からの情念とでもいうべき思慕の念はあくまで母一人に向けられている、ということだ。その母の息子である尾白への彼女の構い方や態度は敬愛する人の息子という立場からぶれたことはなく、越えたこともない。彼女の母を思う底無しの熱量からするにその立ち位置はギリギリ尾白に彼女の情念を受け流せる範囲だった。これがもしもっと直接的に彼女の情熱をぶつけられる立場にあったなら、尾白は生みの母を含め彼女達を露骨に避け早々と家を出る決意を固めていたに違いない。
そんなわけで尾白は身内故の気安さを家族同然の彼女にも感じているわけだが、親しきなかにも礼儀あり、そして近しいからこそ細やかな配慮を忘れてはならぬと叩き込まれてもきた。彼は育ての親と目をあわせ、こう付け足すのを忘れない。
「信用してるから」
「うん。嬉しいけど、ちゃんと確認してくれないと」
照れもせず彼女も淡々と答える。
彼女の声は所謂アニメ声というやつで、それが彼女の年齢不詳さにより拍車をかけていた。まさに親が子に言い聞かせるような声音を尾白はお茶を飲んで流す。すると斜め前に座っているメイド服姿の育ての親がハッと表情を改めた。さほど間を置かず尾白の背中と肩にのっしりと人の重みがかかり、酒くささが鼻をつく。
「ハーイお二人さん、なにしてんのー?私も仲間に入れてー」
そんな陽気な乱入に、育ての母が姿勢を正してキリッと答える。ついでにメイドスイッチも入ったようだ。
「はい、美人様。いま私と坊っちゃんは今後のスケジュールについて確認をしておりました」
美人とは母の名前だ。美しい人と書いてミトと読む。思いきった名前だと思う。
ふ〜ん?と、尾白の目の前で酒の入ったグラスを置き、手入れの行き届いた指が今度は尾白が先程テーブルに放流した紙を持ち上げる。その指先からずっと先が肌色なのは今日の母の格好がノースリーブだからで、育ての母とは対照的に往年の若さをそこはかとなく留めながら年相応の美貌を誇る母の趣味は体作りと運動である。細身ながらもしっかりとついた筋肉は、見せてこそのものだと言って憚らない。家でも息子相手でもそれは変わらなかった。
母の肘置きになった尾白は背中に母をくっつけたまま、酒の入ったグラスを残り一つの席、いつもの母が座る席へと押しやる。途中からメイド服の育ての親がグラスを引き取ってくれた。
「あっ、ねえこれってあれでしょ。あんたが珍しくやりたいって言ってたやつでしょ。八雲の方から言ってくるなんて今までなかったわよねぇ?」
紙面を指差しながら投げ掛けられた問いにメイドは素早く食い付く。
「はい。坊っちゃんから予定に組み込むほどの用事を伺いましたのは、学校行事とお仕事を除けば今回が初めてでございます」
「やっぱり。そうよね、ありがとう」
「いいえ!このようなこといくらでも」
どんな些細なことでも母に関われるのなら嬉しいメイドは、それまでの無気力な表情筋をかなぐり捨て喜ぶ。鼻息が荒い。何度でも言うが、こういう人なのである。慣れるしかない。思えば尾白が日向からの多大な熱量に割合平然としていられたのも、本来の性格の他にこうした母二人のやり取りに慣れていたせいかもしれなかった。
そして恐らく母が言っているのは日向と一緒に徳さんや鶴先輩に習おうとしている護身術のことだろう。
「そうねぇ……そんなに面白そうなら私もやってみようかしら」
やると言ったら本当にやりかねない人だ。尾白がその件を了承したのは日向の身を守るため、延いては日向のやる気を支えるためであって親子で体術を極めるためではない。
「悪いけど、仲間内で決めたことだから。冗談はそれくらいにしてそろそろどいてくれ、母さん」
「なによー、いいじゃない。存分に味わいなさいよ母の重みを。今のうちよ?」
母は持っていた紙を戻すと息子を羽交い締めにしてくる。そうしながら、あんたにも友達いたのねと親らしい感慨に耽っている。
尾白はモデル業のためにジム通いをしているが最低限の体術も身に付けている。それはいつかくる反抗期のために母が息子と取っ組み合いの喧嘩をしてみたいとかねてからの野望を叶えようと、息子に習いに行けと命じたからだ。技をかけられる側にも心得があった方がいいとの一言で母の想定している攻守と勝敗は誰の目にもあきらかだったが、尾白も特に断る理由がなかったので習いに行った。もっとも本人がこんな調子なので未だに母の思い描いた親子喧嘩が成立したことはない。

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