Open sesame!17



適当にとぼけた会話を交わすうち、空の一角に今度は形が多少崩れているがうっすらと真ん中に穴が空いた丸い雲が浮かんできた。ドーナツだと揃って口にし、また顔を見合わせる。自然と笑い声があがった。
「被っちゃいましたね」
「残念、ここまで記録伸ばしてきたのになあ」
「またやってみます?」
「そうだな。次はどれだけ連続で合わせられるかにしてみるか」
「いいですよ、受けて立ちましょう」
日向は少し自慢げに先輩からの挑戦を受け取り、空に目を転じる。横から伝わってくる楽しげな気配に顔は緩んだまま戻らない。尾白も同じだといいと思いながら、ふわふわと雲を踏むような時間を味わった。
一緒に昼を食べるようになると、尾白が何かしら気持ちを返してくれる機会が増えた。恐れ多くもあったし本当にもらっていいのかと戸惑うこともあったが、尾白が日向のことを考えて差し出してくれたものに喜びを感じないわけがない。日向は恐る恐る受け取り、おっかなびっくり好きな人からの贈り物を堪能する。尾白と結ばれることはないと何度も自分に言い聞かせるのに、その度に性懲りもなく期待が頭をもたげる。


記憶を見終わると日向は鶴先輩とのディスカッションに入る。
三大欲求に則った日向の作戦――といっても食欲と睡眠欲に限った話だったが――は思いがけなく鶴先輩に共感と理解を得た。なんと彼女も日向と同じようなアピールをしていたらしい。
鶴先輩は本能の部分から訴えかけるのは尾白のような人物にはぴったりではないかと言う。尾白が本能的かどうかは分からないが、恋愛的な駆け引きにおける価値観が合う人に巡り会えたのは喜ばしい。目の前の人は日向自身や尾白、また友人達とは違う視点をもった名実ともにこの道の先輩なのだ。
鶴先輩はその人を安眠に導くべく子守唄の練習をしたし、胃袋も掴むべく料理の勉強もした。それが回りに回って今は洋菓子や紅茶の方に行き着いている。残りの欲求については過去にそれで手っ取り早く相手の歓心を買おうとしたため、その相手からこっぴどく叱られたことがあるという。これ以上そんなことをするなら縁を切るとまで言われ、以来その方面でのアピールは封印せざるを得なかった。それを聞いて日向は内心ほっとしていた。ハイリスクハイリターンな方法であるがゆえに鶴先輩の好きな人が良識のある人でよかったと思う。
そうして日向は鶴先輩の苦闘の日々を熱心に聞き入れる。同時にその頑張りを称える。共感もした。鶴先輩の方も日向の行動を我が事のように受け止め、労ってくれるので日向はますます鶴先輩との対話にのめり込む。
子守唄歌の話が出たときには日向がそれだと目を輝かせ、その案を使ってみてもいいかと尋ねる。鶴先輩はそれを快諾し、日向は早速尾白に連絡をとってみた。次に抱かれ枕になる時は歌を歌ってみてもいいだろうかと。日向も鶴先輩も宝くじの当選を待つような気持ちで携帯を覗き込み、返事を待った。残念ながら尾白からはにべもなく却下されたが、睡眠導入剤としては日向を抱けるだけで十分だと付け加えてあったので、日向は恋する者特有の桃色気分で頬を緩める。鶴先輩は日向と一緒になって喜んでくれたが、その合間にふと寂しげな色を過らせた。これは配慮が足りなかったかと日向は慌てて思考を切り替え、話題を変えようと試みる。
「先輩が好きな人って何がお好きなんですか?」
しかしそんな日向の意図は鶴先輩にはお見通しだったらしい。にっこり微笑まれ、日向くんはいい子ねとご褒美のようにその日作ってきてくれていたおからを使ったクッキーと紅茶を再度勧められる。日向は有り難く頂き、これは最早教師と生徒というより飼い犬とそれを可愛がる飼い主ではないかと思った。もしくは保育士と幼稚園児。
「そうね、好きなものというか……あの人の好みは清楚で可憐で、守ってあげたくなるような女性だそうですわ」
あまりに振られるのでじゃあどんな人物が好きか尋ねてみたところ、そんな答えが返ってきた。具体的には彼女の母親があげられたという。それはなんともコメントに困る内容だ。
だが彼女は諦めなかった。母親のことは性格の一例としてあげただけで年齢は関係ないとの言質を取ると不屈の闘志を燃やした。
それはそれで意味深な発言かもしれないとこっそり思った日向の前で鶴先輩は胸を張る。
「だから私、そういう人を目指そうと思ってこれまでやってきたんですの」
「えっ、じゃあ」
「ええ、ちょっとわざとらしいくらいにそれっぽいでしょう?」
強かな笑みを巡らせて鶴先輩は広げた両手で宙をつまみ、小首を傾げてお辞儀の仕種をしてくる。何でも鶴先輩は子供時代は相当やんちゃな娘だったらしく、断片的に聞いたエピソードでは雨月と張る元気っぷりだった。
それから鶴先輩は恋心を燃料にお稽古事に習い事、勉強や立ち振舞い、言葉遣いに至るまでとにかくそれらしくなるよう心がけてきたのだそうだ。
彼女の両親は娘に甘かったのでやりたいと言えばやらせてもらえた。
「私のやんちゃっぷりには相当手を焼いていたようですから、これを逃す手はないと考えたそうですわ」
そう優雅に鶴先輩は微笑む。無論その後も告白は続けたが結果は惨敗記録を更新し続けた。
「……そういったことを長く続けていますから、どちらが本当の自分か分からなくなっている部分はありますわね」
目を伏せてどこか達観している様子の鶴先輩に、日向は穏やな発音を心掛けて言う。
「区別しなくてもいいと思いますよ。今こうしている先輩が全部鶴先輩だってことでいいじゃないですか」
そう言われた先輩はまじまじと日向を見て、ありがとう、と少し瞳を潤ませて呟く。それから嬉しそうに、全部私ねと心の内を組み直すように言った。そんな鶴先輩に、まだ子供の彼女と、懸命に背伸びをして大人になろうとしている彼女のもどかしい葛藤を見た気がする日向だ。それから鶴先輩はまた遠い過去の日をゆっくりとなぞるように語る。
「……格好だけ真似てみても意味がないって言う人もいるんでしょうけど、私はそれでもよかった。きっかけは何でもいいから、こっちを向いて、あの人に興味を持って欲しかったのよ」
日向はそんな先輩の吐露を黙って聞く。その鶴先輩がふいに気付いた様子で、ごめんなさいと謝ってくる。
「私のことばかり話してしまって。あなたの相談に乗らないといけませんのに」
「気にしないでください。こうして人の話を聞くのも参考になりますから」
それから日向は思いきって、今回のことを持ちかけられた時から気になっていたことを聞いてみることにした。
「それで、あの、今回のことですけど。その好きな人に恋人のふりでもしてもらって、付き合ってみたら良かったんじゃないかって思うんですけど……」
そうすれば例の男も諦めて退散し、もしかしたら鶴先輩の恋もうまくまとまったかもしれない。一挙両得の道筋だ。今からでも遅くはないと思う。しかし鶴先輩は日向の意見を歯牙にもかけず一刀両断した。
「駄目ですわ。付き合うならフェイクではなく、お互いの気持ちが通じあってからでないと」
どうやらそこは譲れない一線らしい。体から落とそうとしたことはいいのかと聞いてみると、あれは手段の一貫だからいいのだという。
なるほど、この先輩は独自の価値観を持っている。日向はそんな意固地な先輩に雨月と再会する前の卯月を思い出した。自分のなかにもこんな一面があるのだろうかと思いながら、或いは長年の片想いを拗らせた結果なのかと失礼なことも考えた。それが顔に出てしまったのか、眉を吊り上げた先輩に、これは元々の性格ですわと堂々と宣言された。そう言われては日向も殊勝に頷くしかない。
「……それに、あの人に恋人のふりをして欲しいと頼んでもきっと無駄でしょう。私とそうした芝居を打つより、相手を説得してやめさせる。――そういう人ですから」
「相談自体はされなかったんですか?」
「話すことは話しましたのよ」
今の状況がその結果と言えなくもないのだと、喜べばいいのか他の感情を表した方がいいのか、自分でもよく分かっていないのだろう曖昧な表情で鶴先輩は言う。
なんだかこういった形で好きな人を付き合わせるのはフェアじゃない、弱味につけこむようで嫌なのだと。せっかく向こうがしてくれた心配も、自分で解決できるからと強硬に突っぱねてしまったそうだ。
「多分こういったところがあの人の恋愛対象に入らない原因なんでしょうけれど、どうしようもありませんわねえ」
こればかりは変えられないと、頬に指先を当て、鶴先輩は日向の前で憂鬱そうに息を吐いた。


日向は廊下を歩いている。今日は鶴先輩と中庭で昼食を共にしていた。そのあと二人が記憶を探る作業に入る前に鶴先輩と同じクラスだという人物が話しかけてきて、その伝達事項が思いの外長引きそうだったのと、ちょうど日向の飲み物と鶴先輩が持ってきた紅茶が切れた頃合いでもあったので、日向は二人分の飲み物を調達してくることにした。鶴先輩の欲しい飲料を聞き出し、校舎に戻る。何かあれば携帯を鳴らしてくれるよう頼み、渡された先輩の分のお金を掌で遊ばせながら、日向はいつか尾白が飲み物を奢ってくれたことを思い出していた。景品という遠回しな伝え方だったが、その品物に添えられた気持ちは何物にも代え難く日向の心に染み渡った。
ほわりと暖かくなった胸中とは裏腹に、日向の心の片隅は重く沈む気配をみせる。
鶴先輩と探る過去の記憶は屋上での神無月との対話を終え、日向が尾白に自分と神無月の行動の差異について問いかけた以降のものへと移っている。保健室での出来事や神無月関連のことは極力省いて記憶を再生しているが、それで鶴先輩の方に齟齬や違和感を覚えた様子はなかった。
尾白も鶴先輩には自分の能力や神無月のことは伝えていないという。とりあえず今回のことが落ち着いたら鶴先輩の能力が開花した状況についてもう少し詳しく聞いてみようと思う日向である。
そうして日向は日々鶴先輩と記憶を見返していくごとに、尾白の傍にいられること、その幸福に酔っていた日々にどこか自分の感じていた感覚とはそぐわない違和感を覚え始めている。ひょっとすると今までどこかに見逃していたものがあるのではないか。そんな考えが浮かび、それがいま尾白を悩ませている原因なのではないかと、妙な確信が日向のなかに生まれ始めていた。
そうして考え事に耽りながら一階の自動販売機の前まで辿りついた日向は唐突に足を止めた。買ったばかりの飲み物を取りだし、日向に気付いたその人物も動きを止める。その人物は見覚えがありすぎるほどにあった。鶴先輩に付きまとっている例の男子生徒だ。無視をするのも、かといって親しくするのもなんだか違う気がして、日向は控え目に会釈をする。

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