Open sesame!4



その日向は隣を歩く友人に羨望の眼差しを向ける。この友人は体育の授業中、実に生き生きとして体のキレも良かった。
「玉生は体動かすの好きなんだな」
「好きか嫌いかで言ったら、まあ好きだな」
「さすが運動部」
「いや、俺はサッカーが好きなだけ」
「じゃあサッカー馬鹿だ」
そう言った日向に玉生はいくらか得意そうな顔をした。満更でもないらしい。
それから腹が減ったと言い合いながら昇降口に着き、靴を履き替え校内に戻る。日向はこうした日常の合間にふと考えることがあった。何かしている最中に、一息ついた時にちらりと頭を掠めるもの。
あの日、ベンチで会った雲のような男。
日向はその男に強く惹かれるものを感じながらも、男に会ったのもあの場所に行ったのもあの日限りになる。にも関わらず思考の隙間を縫うように思い出す、傍らにあったいつの間にか馴染んだ空気。心和む時間。鼓膜に届いた声に適当な喋り振り、網膜に焼き付いた容姿。
どんな人だろう、何をしている人だろう。そう記憶を反芻しては彼の人のことを想う。
その度にそこはかとない予感がトクトクと脈打ち、同時にもう一度出会ってしまったら今の自分でいられなくなる気がして怖かった。とはいえあの出会いは一期一会、そのうち思い出しもしなくなるだろうと思っていたのに、そんな日向の予想はあっけなく覆される。
一階の自動販売機、真っ白の学ランとセーラー服の生徒が行き交うその合間に、初めて会ったときと同じ若い男の綿飴色の後頭部とその後ろ姿を見つけた。日向は繰り返しあの時の記憶を思い起こしていたから、見間違える筈もない。その彼が――雲の男が、日向がこの春から身に付けているものと同じ制服を着て同じ校内にいる。
「――あ」
ドクン、と大きく体内に響いたのは心臓の音か血潮が熱く滾ったせいか。日向はその男が飲み物を買っていくのをただ呆然と見送った。その人は周りのことなど眼中にないようで、一人マイペースに行動している。体が金縛りにあったように動けない。
何人かの女子生徒が彼をちらちらと見やっては嬉しそうにはしゃいでいる。それはそうだろう。本人は普通にしているのに、その立ち姿に立ち振舞い、どこか気だるげな様子も目を引いた。なんだか雰囲気があるのだ。彼の存在だけがはっきりと浮き上がって見える。
ベンチで初めて顔を合わせた時は同性でも見惚れる格好良さだと思ったが、こうして再び実物を目にして見ると記憶にある彼よりもっとずっと格好良かった。窓から注ぐ日差しすら彼を彩るためにあるかのよう。日向は思わぬ再会の衝撃と視覚から送られてくる情報量に圧倒され、胸の奥がかきむしられるような、体全体がやわらかい羽でくすぐられるような不思議な心地に陥る。更にはこの男こそと希求する気持ちも芽生え、また彼の傍で雲を見てあの時間に浸れたらとも思ってしまう。
雲の男はそのまま日向にも他の誰にも注意を向けることなくその場を去り、日向は玉生に大丈夫かと心配されながらふらつく足取りで教室に戻った。かっかと火照る肌にドクドクとうるさい胸を押さえ、溢れる吐息を切なく揺らす。
後に日向はその感情を恋と名付けた。


日向は目覚めてすぐ時間を確認する。いつも起きる時間より早かった。部屋の中にはうっすらと朝の気配が滲んでいる。
少し迷った末、尾白に電話してもいいかとメッセージを送った。恐らく尾白はまだ寝ているだろう。返事がなくとも構わない。夢で新たに揺り起こされ、注がれた熱量のある衝動が日向の内側で荒れ狂って切なかった。携帯を握ったまま逃げ場のない逸る気持ちに焦れていると電話がかかってきた。尾白からだ。日向は飛び起きて正座し、電話に出るなり高ぶる気持ちをそのまま口から出してしまう。
「あの、先輩っ。僕、先輩が好きですっ」
開口一番、朝一番の告白だった。
数秒の沈黙のあと機械越しに、ふ、とやわらかな呼吸の音が届き、続けて、うん、と眠そうな尾白の相槌が返ってくる。
一体何を口走っているのか。独りよがりにも程がある。反省した日向は寝起きに辛くないよう声量を控えめに、ゆっくりとした発音を心がけた。
「いえ、あの……おはようございます……すみません」
「……はよ。元気だな」
「お騒がせしました、朝早くに」
「いいよ別に。お前の声嫌いじゃないし」
予想外の嬉しい言葉にもう少しでむせそうになった日向は、ぐっと堪えて会話を続ける。
「ッそ、うですか。僕は先輩の声を聞くと嬉しくなります。そわそわもしますけど」
「それはいいことなのか?」
「僕にとってはいいことです」
ふうん、と耳に触れた音の感触に禁止令を言い渡された時のような硬さや冷たさはない。そのことが日向の頬を緩ませた。枕になっている時も思うことだが、眠気がまとわりつく尾白の口調はいつもよりぼやけていて微笑ましかった。
「すみません、僕の都合で起こしてしまって。時間は大丈夫ですか」
「そろそろ起きる時間だったから大丈夫。……うん、まだ平気」
聞くと、朝早くに起きて毎日走っているという。なんとも健康的なことだ。
「たゆまぬ努力ですね」
「そうでもない。さぼる時もあるし」
そういえば昨夜おやすみと尾白がメッセージを送ってきたのも日付が変わる前だった。それを言うと夜更かしは極力避けているという。基本は早寝早起きの生活をしているらしい。
「……日向は?」
「え?僕ですか?」
「いつもこの時間なのか?」
「僕はもうちょっと遅いですね。先輩の夢を見たら声が聞きたくなってしまって、我慢を言いました」
続けて、先輩が電話をかけてきてくれて嬉しかったですとも伝える。うん、とまたもやわらかな声が耳を擽り、日向の口角もむずむずと緩む。機械越しではなく直接耳で聞きたいと思った。
ほのぼのと現状に浸っていたいのは山々だが生憎時間は有限である。特に朝は忙しい。日向は時間を確認し、そろそろ頃合いだと判断する。
「先輩とお話できてよかったです。朝のジョギング、気を付けてくださいね」
そう言って通話を切ろうとした日向は尾白から、明日は、と予想外の切り返しをされて動きが止まる。あした、と鸚鵡返しに声が出る。
「そう、明日。俺も日向の声聞いてたらよく寝れるし寝起きもいい。目覚ましより効果あるかも。だから……聞いてる?」
「――っはい、あの、聞いてます。ええっと」
束の間の呆然自失から立ち直り、日向は状況を整理する。つまりこれはモーニングコールを所望されている、ということだろうか。混乱しながら確かめるとそうだと言う。日向はごくりと生唾を飲み込む。
「……僕で、いいんですか?」
密やかな、しかし期待に満ちた不格好な問いかけは、嫌だったら言わないときっぱりした潔さに迎えられる。一気に日向の気分が上昇し、声が弾んだ。
「はいっ、でしたら喜んで」
「……これで目覚ましかけなくて済むな」
何か企むような、やっと煩わしい重荷から解放された風の尾白に日向はすかさず釘を刺す。
「駄目ですよ先輩、念のため目覚ましはかけておいてくださいね。僕もうっかり寝坊しない自信はないので」
「駄目?」
「駄目です」
「どうしても?」
「どうしても!」
気のせいでなければ尾白の声は笑っている。日向も尾白とのたわいないやり取りが楽しかった。それに尾白との新たに紡がれた約束が嬉しくて、鹿爪らしく注意していても浮かれているのは丸分かりだ。それは携帯を通じて尾白にも伝わっている事だろう。
詳細はまた後で詰めるとして、ひとまず両者とも朝の支度に取りかかることにする。
「じゃあまた後で」
「……はい、また後で」
日向は名残惜しく通話の切れた携帯の画面を見つめる。身の内にあった行き場のない衝動はふわふわとやわらかな火照りとなって全身を包んでいた。顔はだらしなく緩み、ついさっきまで話していた人のことをしみじみと思い返し好きだなあと思う。
神無月や尾白を始めとした異能の存在を知った時、もしや日向のこの感情も誰かに植え付けられたものではないかと疑ったこともあったが、結局日向はそれでもいい、この思いが日向自身の感情だと開き直った。このどこからともなくやってくる際限のない生々しい感情の奔流が何を元に発生していたとしても、日向自身の感情であることには違いない。尾白が言っていた考えに後押しされたのもある。
日向は淡く息を吐く。顔に手を当てるとじんわりと温かい。尾白にもたらされた熱はまだ引くことがなかった。
こんなにも容易く日向に夢心地を味わわせてくれる尾白に日向は何ができるだろう。
この思いが本物だと言うなら、そのための答えを日向は探したい。尾白のために。自分のために。そのことを今一度自らに言い聞かせて日向はようやく活動を開始した。
その日から起き抜けの朝の微睡みのなか、日向は尾白と携帯越しに会話するようになっていった。時間にしたら十分ほど。それでも二人の間に降り積もるひっそりとした会話は舞い落ちる花弁の如く少しずつ、だが確実に二人の間を彩り、埋める。いざその交流を始めた時、尾白の方からも電話をかけてきてくれるのが日向にとって嬉しい誤算だった。


それから日向はそもそもの異能の原因ではないかと疑っている、校内で目撃されて久しい白い毛玉について調べてみた。そのことに集中してしばらく、日向が別の件で時間をとられていつもより遅れて図書室に入っていくと、調べものを手伝ってくれている卯月が先に来て机の上に本を積み上げていた。
時折誰かが発する僅かな話し声、本が捲られ忙しなくペン先が動くそんな静けさのなか日向はできるだけ物音を立てないように卯月のいる机に近寄る。
隣が空いていたので遅れてごめんと小声で謝りながら席に着く。ちらりとこちらを見た卯月は目を通していた本を閉じると他に積み重ねていた本の上にそれを置いた。
日向がどうだと目顔で尋ねれば首を横に振る。日向はそうだろうなと納得する気持ち半分、それでも僅かにあった期待が潰えた残念な気持ち半分で机上に積まれた本を見やる。

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