「ぁ、の……ユウ、様…?」
一体どの位の時間、私はこうしていたんだろう。
風はいつの間にか夕暮れ前の冷たさを含んで、ずっと握っていたユウ様のシャツは皺になってる。 それでもユウ様の手は相変わらず私の腰を抱き、後ろ頭を包んだままで。 今更この体勢に緊張している自分をぐずっと鼻を鳴らすことで誤魔化しながら、手の力を少しずつ抜き、ユウ様の反応を窺いつつ恐る恐る声をかけてみた。
「――……もういいのか?」 「ぇ、?」 「顔。見られたくなかったんだろうが」 「!は、…はい!あのっ、多分、大丈夫……です!」
『そうか』と、囁くように言ったユウ様の腕がゆっくり離れていく。
二人の間にできた空間に、今まで私を包んでくれていた優しいぬくもりが融けるように消えていって、どうしてだか、言葉にできない、胸を締め付けるような寂しさが込み上げ、また泣きそうになった。 だからそれをユウ様に気取られてはいけないと、自分から一歩後ろへ下がって距離をとったのに言葉が見つからず、俯いたまま黙り込む私の頬へまたあのぬくもりが触れる。
「っ!」 「………末摘花」 「……?」
頬を包んだ掌に不意打ちで顔を上げさせられて、狼狽たえる私の顔をじっと見つめたユウ様がポツリと言った。 意味がわからず首を傾ければユウ様は喉を鳴らして短く笑い、指先で私の鼻を軽く弾くと、小さく悲鳴を上げた私にくるりと背を向ける。
「――ぁ……あの!ユウ様っ」
その背中へ向かって、咄嗟に声をかけていた。
立ち止まり、振り向いたユウ様はもう笑ってはいない。 なのに、夜空と同じ色の瞳だけはあの不思議な穏やかさを灯していて。
「ッ……『末摘花』って!どういう意味ですか?」
高鳴った胸にひどく動揺してしまい、本当はお礼を言うべきだったのに、出てきた言葉は見当違いのものだった。一瞬だけキョトンと幼げな表情を見せたユウ様が、だけど瞬きほどの時間ですぐに意地の悪い顔に変わる。 目を細めた彼はさっき私の鼻を弾いたのと同じ指で自分の鼻にちょいと触れ、
「『鼻が赤い』、っつったんだ」 「……ッ!!?」
――訊かなければよかったと、私は心から後悔した(は、恥かしいぃ……!)
* * *
「失礼します」
翌朝、ナマエはいつも通りのノックをしてから神田の部屋へ入った。
まだカーテンが引かれたままの薄暗い室内。 いつもなら既にベッドの端にあるはずの人影が、今日はない。
「……ユウ様?」
まだ寝ているのだろうか。
初めてのことに戸惑いつつ、ナマエは静かな声でベッドの中の神田を呼んだ。 本来ならナマエの仕事は『決まった時間に主人を起こすこと』なのでこれで間違いはないのだが、これまで神田はナマエが部屋を訪れる前には必ず自分で目を覚まし、着替えも済ませていたのだ。 それなのに、今日は一体どうしたことだろう。
「ユウ様、あの…もう朝ですよ?」 「っ……」
何かあったのだろうかと心配になり、ナマエはカーテンを開けるよりも先にベッドの傍らへ行き、寝具の中で反対側を向いている神田の肩にそっと手を伸ばしてみた。 途端、僅かに呻くような声を漏らして寝返りを打った彼の長い髪がシーツに広がる。 呼吸は少し乱れ気味で、横になったままナマエを見上げた漆黒の瞳は暗闇の中でも濡れたように光り その視線を向けられたナマエは思わず息を呑んでしまった。
(なっ…な、………っなに、これ!)
香りたつような恐ろしいほどの色気が、神田から醸し出されていた。
頬と言わず顔と言わず、とにかくナマエの全身が熱くなる。 彼の柳眉が苦しげに、悩ましげに眉間に寄ったのを見ると心拍数が跳ね上がり、放たれた凄絶な艶に呼吸さえできなくなりそうな錯覚さえ覚えた。
けれど、ナマエがそうして言葉も発せずにいる内に、やはり苦しげな息を吐きながらも上半身を起こした神田がまた小さく呻き声を上げて片手で頭を抱える。 いけない、と、我に返ったナマエは慌てて彼の肩を支えた。
「ユウ様、どこか具合が…っ」 「る、せ……何でも、ない」 「嘘ですっ!辛そうな顔してるじゃないですか!」 「っ、平気だ、っつってんだろ……!」
ナマエの制止を振り切り、神田は寝間着を着替えようと立ち上がった。
「――っ……!!」
その瞬間、襲ってきた眩暈に視界が歪み、平衡感覚を保てなくなる。
「っ、ユウ様!!」
ぐらりと前方へ倒れそうになった神田をナマエは咄嗟に抱き止める形で受け止めた。 神田の背中に両手を回し、どうにか彼の身体を支える。 彼の顔がナマエの肩口に埋まり、耳元で乱れた呼吸が聞こえた。 その息遣いがあまりにも近く、生々しくて、再び血液が沸騰するのを感じずにはいられない。 遂には連鎖的に昨日の出来事まで思い出してしまい、ナマエは『そんな場合ではないのに』と必死になって首を振った。
(ど、どうし、よ!体中熱いっ…ちょっとこれ、熱すぎる………って、あ、あれ…?)
「……!!!」
足の力が入らないのか、神田の体重がどんどん自分の方へ掛かってくるのを震えながら耐え、ふと過ぎった疑問に束の間の冷静さを取り戻したナマエはもう一度息を呑まずにはいられなかった。
(これ――私だけじゃなくてユウ様も熱いんだ……!!)
「ユウ様っ!大丈夫、ですかっ!?」 「……っ」
最早返事をする気力もないのか、帰ってくるのは荒い呼吸だけ。 事態の深刻さを理解したナマエはぎゅっと目を瞑り、奥歯を食いしばって渾身の力で立て直した神田をベッドへ座らせると彼の頭を腕の中へ抱え、衝撃がないように細心の注意を払いながら身体を倒し、ゆっくりと枕へ沈ませた。
「ちょっ、ちょっと、待ってて下さいねっ!今、ナタリーさん呼んできますから!」
慌てつつも彼の首元まで上掛けを引き上げ、ベッドを離れようとした。 しかし翻したエプロンの端がクンと僅かに引き攣るような抵抗を受ける。
「っ?」
何事かと振り向けば、上掛けから出た神田の手がその場所を弱々しく引っ張っぱり、いつの間にか細く目を開けていた彼が切れ切れな呼吸の中で、確かに言った。
「――行く、な…っ」 「〜〜〜っっ!!!」
熱に浮かされ、いつもの鋭さを失くして潤む瞳がナマエを見上げる。 相変わらず眉間に寄せられている眉は、けれどほんの僅かにその末端が下がり、初めて見る彼のそんな表情はナマエの中の母性本能を刺激するには十分すぎる程で。
「わかっ…わかりました、から!手、離して……!」
力尽きたように目を閉じながらも信じられない力でエプロンを掴む神田の手をなんとか離し、治まらない動悸から必要以上に息切れしながらもナマエはやっとの思いでメイド室へ繋がっているベルを鳴らし、駆けつけたナタリーに助けを求めることに成功した。
* * *
「………」 「………おい」 「…は、ぃ」
呼びかけに死にそうなか細い声で返事をされ、ベッドの中の神田がこれ見よがしなため息を吐いた。
「葬式みてェな面してんじゃねェ。鬱陶しい」 「っ…でも!」
どちらが病人なのだかわからない。 それ程にナマエは目に見えて意気消沈し、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
ナタリーが呼んだ掛かりつけの医者に診てもらった結果、神田のこの高熱はただの風邪によるものだそうだ。 処方された薬も飲んだので、後は十分な睡眠をとり、汗をかけばいい。 無理せず大人しくしてさえいれば何の心配も要らない。 しかしナマエはどうしても責任を感じずにはいられず、俯いたままスカートをぎゅっと握り締めていた。
(私がっ…ユウ様を庭に引き止めちゃったからだ……!!)
「……先に言っとくが、別にお前の所為だとは思ってねェからな」 「!」
ナマエの表情から思考を読み取り、神田はため息の中で言う。 その一言がナマエの中の罪悪感を更に煽り、彼女は益々情けない顔になって首を横に振った。
「いいえ、私の所為ですっ!ごめんなさい、ユウ様っ…どうお詫びすればいいのか…っ」 「……違うっつってんだろ」 「違いません!」 「っ、テメェいい加減に、ッ……!」
頑ななナマエを怒鳴りつけようと上体を起こした神田が再び襲ってきた眩暈に顔を顰める。 そのまま力なくシーツへ逆戻りした彼を急いで支え、泣きそうな顔をしたナマエが濡れタオルを額に乗せると、神田はそれを鬱陶しそうにベッドの端へ放り投げ、乱れた息を整えながら顔を背けてしまった。
「……もういい。今日は下がってろ」 「っ……他の人、呼びますか?」 「いらねェ。一人にさせろ」
辛そうに目を閉じ、熱の篭った息を吐く姿にナマエの眉は八の字になる。 自分の所為ではあるけれど、見るからに機嫌が悪そうで正直恐い。 それでもこんな状態の彼を一人にするなんて、そんな言葉に従うことはできなかった。
「――ダメです。他の人呼ばないなら、私がここにいます」
ナマエだって知っているのだ。 病床特有の心細さを。 一人で眠る寂しさを。
神田にそんな想いをさせたくなかった。
「、……伝染うつされてェのかよ」
普段と比べれば少し威力は落ちるものの、鋭い瞳が脅すように睨んでくる。 それが恐かったわけではないけれど、自然と顔を伏せたナマエのスカートを握り締める手にぎゅっと力が入った。
「……それでユウ様の風邪が治るなら、伝染してくれた方がいいです」
代われるものなら自分が代わりたい。 ――代わりたかった。あの時も。
(義父さん……)
じわりと熱の滲んだ瞳の中、神田と養父の影が重なる。
自分は何もできなかった。 日々弱っていく養父の手を握り、泣いて縋ることしかできなかった。 あんな想いは もう二度としたくない。
大切な人に置いていかれるあの辛さを、哀しさを、絶望を味わうくらいなら、いっそ自分が代わってしまった方が――
「――…ナマエ」 「!、はいっ!」
暗く冷たい思考の畔から神田の声で現実へ引き戻され、ナマエは小さく肩を跳ねさせて返事をした。 顔を上げた先では相変わらず不機嫌そうな神田がナマエを見据え、上掛けから出た彼の手の人差し指が『こっちへ来い』のジェスチャーをしている。 頭上に疑問符を浮かべながらベッドの横に持ってきた椅子から腰を上げ、彼の方へ少し顔を寄せると、神田はその瞬間を狙って彼女の額をコツンと小突いた。
「っ、!?」 「バカ言ってんじゃねェ」
目を丸くして額を押さえるナマエに、神田はフンと鼻を鳴らす。
「お前が倒れたら、心配する奴がいんだろうが」 「――ぁ……っ!」
(アレン――!)
自分を慕ってくれる幼い義弟の笑顔を思い出し、胸が締め付けられた。
もしも今、自分が倒れてしまったら ――死んでしまったら あの子はまた置いていかれることになる。 一人ぼっちにしてしまう。 自分が背負うはずだったものを全て、あの小さな身体に背負わせてしまう。
そんなのは ダメだ
「ご…めんなさ、い……」
戦慄く唇を噛み、身を竦ませて再び俯いたナマエを見て神田はやわらかく息を吐いた。 先程彼女の額を小突いた拳が静かに開かれ、微かにナマエの前髪を梳くような優しい動作をして、途中で限界が訪れたようにシーツに落ちる。 前髪の隙間から彼をそっと覗き見たナマエには、神田がほんの瞬きほどの間、不機嫌そうな口の端をふっと緩め、微笑んだのが見えた気がした。
(ユウ様……っ)
胸の奥から、熱が溢れる。 激しい熱ではなく、もどかしくて泣きたくなるような。 けれど決して絶えない熱。
”この人のために、何かしたい”
『主人』と『メイド』という肩書きとは関係なしに、ナマエは彼のために――『神田ユウ』のために、自分でできることなら何でもしたいと、心の底からそう思った。
「……ユウ様。私にできることなら、何でも言いつけてください」
気付けばナマエはシーツに落ちた神田の掌を両手で掬い、きゅっと握り締めていた。
伝わってくる体温の、なんと愛しいことだろう。 彼が自分のすぐ傍にいるのだというその証が堪らなく慕わしくて、同時に、それがいつもより高いであろうことが切なくて悲しくなる。
『少しでも彼が楽になるのなら、何だってする』
そんな想いを秘めたナマエの薄っすらと涙に光る瞳に見つめられ、神田は一度大きく吸い込んだ息を長く吐き出すと、どこかぼんやりと目を伏せて呟いた。
「……子守唄、を、」 「――ぇ、?」
「――……子守唄を、歌え。あの日、お前が歌ってた……あの歌」
言い終えて、薬が効いてきたのか完全に目を瞑ってしまう神田。
その手は半ば意識がないながらもナマエの掌を緩く握り返し、数時間前、『行くな』と言って自分のエプロンを掴んだ彼を思い出したナマエは、熱と同じ場所から込み上げてきた愛おしさに頬が緩むのを抑えることができなかった。
「……はい。ユウ様」
(私は、どこにも行きません)
彼が望んでくれるのなら、自分は彼が望むだけ、その傍にいよう。 養父が遺してくれた大切な歌を優しく歌いながら、ナマエはそう心に誓った。
その願いが叶うものだと、滑稽なほどひたむきに信じていた。
(13.06.06)
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